互いの関係がぎくしゃくしたとしても、彼女にとっては好転を望む他ないのだろう。
 例えシンジにどう思われようとも、最初に知った感動と温もりは、やはりシンジのお弁当と、手を握り、シンジが告げてくれた言葉なのだから。
 それがあったからこそ碇ゲンドウの養女の話しを受け入れたのだとしたらどうなのだろうか?、それがあったからこそ彼女は彼の父親に微笑みを浮かべたとすればどうなのだろうか?
 またシンジが見たレイの微笑みが、シンジの話題から浮かんだ物であったとすればどうなのだろうか?
 ゲンドウに向けた物ではなく、シンジへの気持ちの現われであったなら?
 すれ違いと言う言葉がある、説明すればすぐに解ける誤解であっても、互いに疎通を持たない事から全く気が付かないままになっている。
 だから彼女は純粋な想いから、とにかく彼との復縁を願う。
 甘く穏やかで優しい関係を願って、何かしらの努力をしようと決意する。
 唇を指でなぞると、熱いものが込み上げて来た。
 それが一体何なのか、彼女はもう知っている。
 鼓動が高鳴る。
 だが。
(何故、あんな風にしてしまったの?)
 キス。
 愛し合い者同士がする行為。
 なのに強引に欲するなどとは。
 求めるなどとは。
『何故?』
 強い疑惑、あの時に感じた衝動はなんだったのか?
「触れていたかった?」
 違う。
「触れて上げたかった?」
 シンジから近寄って来てくれた。
 だけどシンジから遠ざかり出した。
「何故?」
 決まっている。
「そう……、嫌なのね、もう」
 今更、孤独に立ち戻るのは。
 だから引き止めようとして焦ってしまったのかもしれない。
 ならば今は、一体どうするべきなのだろうか?、自分が来た事で乱れてしまった輪を、一体どう修復していけばいいのだろうか?
 シンジ、彼は誤解していると感じられる。
(わたしが想っているのは、あの人じゃないわ)
 なら想いを伝えるためには、一体どうすればいいのだろうか?
 綾波レイ。
 彼女はそれを二つしか知らない。
 一つは手を繋ぎ、心を、想いを伝える方法。
 これはもう、学校で行った。
 後は一つ。
 それは……


「なんだこれ?」
 シンジは部屋で着替えると、さっそく夕飯の仕度に取り掛かろうとキッチンに出た。
 そこで見付けたのは、無造作にテーブルに放り出された、一冊の冊子、パンフレットであった。
「白鴎学園……、女子校のパンフ?」
「シンジ、帰ったの?」
「あ、うん……」
 髪を掻き上げるようにして、シャツの中から出しているアスカ、今着替えたばかりらしい。
「アスカ、これ……」
「ああ」
 アスカはシンジが手にしている物に頷いた。
「ちょっと前にね、パンフの請求してたの」
「そうなんだ……、全寮制の学校なんだね」
「ええ」
「行くの?」
「……行こうと、思ってた」
「思ってた?」
 聞く必要の無いことだったのかもしれない。
「ほら、いつまでも甘えてられないなって思ってたから、けどね……」
 ちらりと奥の部屋、レイの部屋へと目を向ける。
「約束、したしね」
「アスカ……」
 微妙な表情を浮かべるシンジだ。
「なぁに浮かない顔してんのよ!、大丈夫よ、ちゃんとここに居るから」
「うん……」
 顔を伏せる。
「ありがとう、アスカ」
 だがいつまで傍に居てくれるのだろうか?、ずっとなどと言うことは無いだろう。
 父は相変わらず取られたままだ。
 自分を見てくれると思っていた少女は、実は父の手合いだった。
 その事からの逃避に過ぎないのだとすれば、はたしてシンジの感謝は純粋な物と言えるのだろうか?
(良いのよ、それでも……)
 アスカは、どこかで許していた。
 いや許す以外になかったのかもしれない。
 アスカにとっても、ゲンドウが綾波レイ寄りであるのなら、やはりその代役は必要なるのだから。
「あれ?、レイ、どうしたのさ」
 アスカははたと、シンジの声に我に返った。
「綾波?」
 アスカも気が付く。
(なんなの?)
 妙に緊張した面持ちをしているのだ、それも、アスカにも分かるほどに。
(聞かれたかな?)
 つい二人は目で確認し合ってしまった、しかし深刻さの元は、二人が杞憂していた物とは違っていた。
「……あの、お願いが、あるの」
 その物言い自体が珍しかった。
「なに?」
 レイは言った。
「料理を、教えて……」
「へ?」
「料理を、教えて欲しいの」
 照れ、恥じらうような感じが見受けられる。
 シンジは怪訝に思ったものの了承した、断る理由が無かったからだ。
 その横でアスカは、除け者になったからでも無かろうが、どうしてか様子を窺うような目つきをしていた。


「白鴎、受けないのかね」
「はい」
 夕食の場、レイを引き取ってからと言うもの、ゲンドウは毎日のように帰って来ていた。
 子供達だけであるよりも緊張感が増しているのは気のせいだろうか?
 シンジの食が極端に細くなっているのは間違い無い。
「あの……、やっぱりご迷惑ですか?」
「いや、問題無い、好きにしなさい」
「はい!」
 ややほっと胸を撫で下ろし、幾つかの煮付けを口にする。
「いつもと違うな……」
 ゲンドウがアスカの思考を読んだように呟いた。
「はい、それ、綾波が作ったんです」
「レイが?」
 驚き、レイの顔を見るゲンドウだ。
 照れ隠しなのか、レイは表情を消そうと努めていた。
 耳は赤くなってしまっていたが。
 そんなレイに、この『父親』はふっと表情を緩めて言った。
「頑張ったな、レイ」
「はい」
 そっけなく、だがどこか嬉しそうにレイは答える。
 しかしアスカの表情はますます冴えなくなっていった。
 目を横向けたのは、自室へ逃げているシンジを心配したからだ。
(シンジ……)
 夜食を食べているわけでもない、夕食はこうして卓に着こうともしない、朝は人の準備をするだけ、それも父が居るからだ、いや、父と、彼女が微笑ましくも、やたらと仲が良いからだろう。
 一体いつ、シンジは何を食べているのだろうか?
 今日はまだレイに教えながら味見をしていたからマシではあろうが。
 不意にアスカは、先日自分が口にした言葉を思い出していた。
『手首でも切りそうで』
(何考えてんのよ!、そんなの冗談に……)
 アスカは必死になって、その想像を振り払った。
 しかしだ、アスカが如何に願おうとも、状況は好転を見せなかった。
 それはそうだろう、誉めれれば誰でも嬉しい、特にレイは最も大事な二人から誉められていたのだから。
 シンジと、ゲンドウ。
 兄と父と言うには遠過ぎる他人。
 味付けをすると、自分が口付けたお玉を同じようにシンジの唇が触れるのだ。
 そして、うん、美味しいよと言ってくれる、微笑みと共に。
 夕食時にはまたゲンドウが誉めてくれるのだ、これでうかれない訳が無い。
 気分的な高揚は、よりレイを料理へとのめり込ませていった、翌日、翌々日と、シンジの作る物を確実にマスターしていく。
 もうシンジが教えていることは、ただ作り方の手順、料理のレシピだけになっていた、塩やコショウなどの基本的な使い方など、口出ししなければならないことは無くなっていた。
 アスカはそんな二人の様子を、そっとリビングなどから窺っていた。
 一見して普通の顔をしているシンジが恐かったからだ。
 はしゃいでいるわけでも無い、慌てもしない、失敗には苦笑するだけ。
 それは淡々としているのと同じだ。
 アスカには二人が協力して弓の弦を引き絞っているように思えてならなかった。
 シンジの味が、レイの味付け、好みへとすり変わっていく。
 シンジの存在が、存在を主張していたものが消えて行く。
 それでもアスカは何も言わなかった、この日までは。
 言うつもりは無かった、シンジが堪えている、その間だけは。
「……とうとう朝ご飯もなのね」
 聞こえないようにアスカは呟く。
「シンジ君、アスカさん……」
「なによ?」
「お弁当」
「不安そうにしなくても貰ってあげるわよ」
「あ、ありが、と……」
(なに意外そうな顔してんだか)
 その隣のシンジはと言えば、寂しそうに笑っていた。







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