たった一人、たった一人欠けただけで、こうも食卓の雰囲気は変わってしまう物なのだろうか?
 テーブルの上に並べられたのはとんかつだった、肉料理が苦手なレイが、苦心して作ったおかずであった。
 添えられているものはキャベツ、お椀にはなめこの味噌汁、赤ダシだ。
 だがもう随分と前に盛られたのだろう、冷えきり、沈澱してしまっている。
 レイは……、無表情なままで、じっとそれを見つめていた。
「……待ってても帰って来ないわよ?」
 アスカはようやく口にした、じろりと目を向けるレイ、パクパクと食べる姿に憤りを感じたのかもしれない。
「なぜ?」
「分かんないの?」
 二人ともゲンドウの前では猫を被る、良い子で居ようとする、誉められようとする。
 二人ともシンジの前でははしゃごうとする、笑おうと心掛ける。
 だが緩衝材がない二人の間には、ただただ険悪なムードが漂うだけだった。
「いっとくけどね、あたし、別に何も隠してないから」
「嘘……」
「嘘じゃないわ?、あんたが気付いてないだけよ」
 怪訝そうな表情に溜め息を吐く。
「……あのね、ここは誰の家よ?」
 今更的な質問に戸惑いを覚える。
「……シンジ君の」
「そうね?、で、あんたはなんで役割を奪うの?」
「役割?」
「そうよ、ご飯を作る、掃除をする、洗濯をする……、あたしに出来ないと思ってた?」
 レイは意図が読めずに、困惑を深めた。
「奪う?」
「ええ、勉強も運動も出来ない、何一つ誉めてもらえないからせめて出来る事だけでもするようにしよう、ま、そんなところね?」
「わたし、は……」
「わかってるわよ、あんたがシンジの役に立ちたかった事ぐらい」
 ハッとするレイだ。
「アスカさん……」
「でもシンジは違う、きっとあんたは喜んでもらおうと思って頑張ってるんだと思ってる、誰に?」
 じっと見つめる、いや、睨む。
「おじさまによ」 「!?、わたしは……」
「そんなのどうだって良いわ、でもね、あたしもあんたも大事にされてる……、晩ご飯、食べてないって言ったら心配してもらえるでしょう?、けどね、シンジは……」
 言い澱む。
「シンジの場合、そうか、で済まされちゃうわ、実際、あんたが来てから暫くの間、シンジ、ろくに食べてなかったのよ?」
 丸くなった目に嫌悪を覚える。
「ほら、気付いてなかった、それでもシンジは自分の居場所を守ろうとしてた、あんたとあたしの面倒を見て、この家に居る理由を作ろうとしてた、でも、あんたがそれを奪った」
 白い肌から、さらに血の気が引いて真っ青になる。
「わた、し、は……」
「シンジが帰って来る理由なんて、何処にも無いもの、シンジが居なくったって、あたし達こうしてちゃんとしてるじゃない」
 アスカの言葉の裏には一緒に居るって言ったくせにと、シンジへの強い不満があった。
「どうしておじさまが居る時、シンジは一緒に食べなかったんだと思う?、自分だけが家族じゃない、いらない人間、余分なんだって見せつけられたくなかったからよ、あんたのことは知らないわ、でもあたしは追い出されたら困るから、おじ様に話しかけられたら笑っているしかないの、シンジの事が気になってもね?」
 ぎゅっと拳を握り込む。
「嘘でもあたし達は仲の良い家族に見えちゃうわ、親子に見える、その横でシンジがどれだけ居心地の悪い想いをしてたと思ってるの?、あんたが来てから、おじさま、休みの日は家に居るようになった、なるべくあたし達と一緒に朝も、夜もご飯を食べるようになった、ねぇ?、シンジね、お母さんが死んでから、一度だってそうやって相手にしてもらったことってないのよ?」
 アスカはそれ以上の言葉を吐くのはやめた。
 苛めても仕方が無いと、面倒臭くなったからだ。
「だから言ったのよ……、シンジのご飯も食べたいって」
 レイはキュッと唇を噛んだ。
 次いでがたんと椅子を鳴らして立ち上がる。
「……何処へ行く気?」
「探すわ」
「やめときなさいよ、ちゃんと帰って来るわよ」
 だがそれでは、いつになるかは分からない。
「……探したいの」
「勝手にすれば?」
 レイはコクンと頷いた。
「そうする」
 アスカは背中で玄関の戸が閉まる音を聞いてから、再び箸を持って食べ始めた。


 空は穏やかなままに、瞬く星を抱いている。
 寒さは感じられない、だが暖かくもない、この空しさはなんだろうか?
 シンジはガードレールに腰掛けてぼんやりとしていた、その姿を照らしているのは正面に三台並んでいる自動販売機の明かりであった。
 背後では程よく車が流れている、その雑音が自分を世界から遠く、遊離させてくれていた。
 何かを考えてはいけないのかもしれない、何も考えない方がいいのかもしれない。
「何も望んじゃいけないって事か……」
 自分の言葉に苦笑する。
「バカだな、望んだからって、夢見たからって何だよ」
 誰も相手にしてくれないのに。
 僅か数週間前までが懐かしい。
 友人達と気軽に、馬鹿ばかりをやっていた頃が。
「でもな……」
 どこか、心の何処かでは分かっているのだ。
「アスカの時と同じだ、最初は辛いんだ、逃げ出したくなる、でもその内無視できるようになる」
 だから今は避けるべきだと心は告げる。
 距離を置いて、冷静になるのを待つべきだと。
 シンジは過去を反芻し始めた。
 肩身の狭い自分が居た。
 何の役にも立たない自分が居た。
 昔、誰か偉い人が家に来た事があった、その時にこんな事があった。
『さすがラングレー会長の娘さんだ』
 そう頭を撫でられて、アスカは酷く誉められていた。
 嬉しそうに目を閉じて、喜んでいた。
「嬉しそうだったな、アスカ……」
 次いで自分も誉められた。
『可愛いお子さんで、将来は、この子が後を?』
 シンジになんて無理だと思う。
 それはアスカの冗談だったが、社交辞令に喜ぶよりも、シンジはすんなりと納得していた。
 蘇る光景、エプロンを着けたレイの背中、楽しそうな姿、流れる水道、時折ぶつかる皿の音。
 以前は自分の仕事だった物。
 あるいは誰にだって出来る事。
「つまんないこだわりだな」
 顔を戻した時、視界の端に引っ掛かる物があった。
「綾波?」
 シンジは気が付いているのだろうか?
 綾波、あるいはレイと、その時の気分によって呼び分けてしまっている自分の態度に。
 レイは勿論気が付いていた、気が付いていたから話しかけられなかった。
 今シンジは、喜んでくれていないと推し量れたから。
「ごめん……、遅くなっちゃって」
 ふっと笑みを浮かべてシンジは立ち上がり、尻をはたいた。
「トウジ達と遊んでてさ、ちょっとね、……じゃあ、帰ろうか」
 最後は消えるようにか細い物になってしまった。
 昔のように、無表情に立っているレイの頬を、止めどなく涙が溢れ、流れ落ちていたからだ。
 人形が、無機物が、熱い物を流す様は、凄まじい感情の迸りを感じさせた。
「綾波……」
「わたし」
 一瞬の交錯。
「邪魔なのね」
 痛み、いや、そんな生易しい物ではなく、激痛。
 血反吐がこぼれるかと思うほどに熱い物が込み上げる。
「邪魔なのね……」
 様々な感情が錯綜する、余りにも大き過ぎるうねりのためか、レイの唇は小刻みに揺れていた。
 それでも逃げ出せなかったのは、咄嗟にシンジに抱きすくめられてしまったからだ。
 身じろぎすらも出来ない。
「ごめん……」
 シンジは謝る。
「綾波のせいじゃない、綾波のせいじゃないよ……」
「でも」
 シンジの肩に顔を押しつける。
「……わたしの部屋に来てくれた時、嬉しかった、嬉しかったんだと思う」
 今更のように感慨を吐露する。
「あなたが教えてくれたもの……、温もり、暖かさ、優しさ……、笑顔も、何もかも」
「笑顔?」
 小さく頷く。
「受け入れてもらえると思ったから、近くに居られると思ったから」
 でも。
「あなたと暮らす事で、嬉しい事が増えると思った、楽しい事もあると思った」
 そしてそれは実際に。
「料理を教えてもらえた、美味しいと言ってもらえた、……嬉しくて、ドキドキしたわ?、でもわたしが浮かれていくにつれて、あなたは暗くなっていく、何故?、わたしはただ、あなたの傍に居たかっただけなのに」
「レイ……」
「好きって、なに?」
 レイはまた泣いていた。
「こんなことなら、好きだなんて、知りたく……」
 ぐっと腰を抱かれて、息苦しさに身悶える。
「シンジ君?」
 震えている。
「ごめん……、僕には、レイがアスカにしか見えないんだ」
「え……」
「必死で、楽しい事を探してる……、不安になりたくなくて、だから誉めてくれる人を……、頼れる人を探してる、喜んでくれる人を、一緒に居て、幸せにしてくれる人を探してるって、でも」
 はっとするレイ。
「わたし……」
「だから僕じゃダメなんだって、わかるんだ」
「そんなこと、ない……」
「あるよ」
「シンジ君が、教えてくれたもの……」
 辛くても、温もりに酔える事を。
「でも僕には……、アスカにもレイにも、笑ってもらう事が出来ないんだ」
「シンジ君」
「つまらない、人間なんだ」
「でも、あなたが教えてくれたのよ?」
 人と共に暮らす喜びを。
「シンジ君が温もりを教えてくれなければ、受けなかったわ」
 養女の話を。
 レイはシンジの体を抱き返した。
 引き裂く程に力を込めて、背中側のシャツを掴む。
「もっと……、こうして、いたくて」
 だから迷いを振り切ったのに。
「好き、なの……」
 だから。
「レイ!」
「シンジ君?」
「泣かないで、お願いだから!」
 涙腺が壊れたかの様に、意識しないまま涙を流し続けている、肩口の濡れ具合が、実際に見る以上に感じさせる。
「僕が悪かったから、僕が悪かったから!」
 それでもレイは壊れていく。
「わたし……、耐え切れない」
「じゃあ、どうしてキスなんてしたのさ!」
 ビクッと震え。
「きす?」
「そうだよ!、なんでもないのに、何とも思ってなかったのにしてくれたの?」
「違う……、違うわ」
「ならお願いだからそんなこと言わないでよ!、僕もレイの事、好きになる様にするよ、好きになるから!、お願いだから、泣かないで……」
 互いの涙が互いの頬を濡れ合わせていく。
 張り付けるように。
(鼓動が聞こえる……)
 震えが治まっていく。
(柔らかい)
 心が温かくなっていく。
 落ち着く。
 互いの想いが。
 願いが。
 通じ合っていなくても、分かり合えていなくても。
 心地が好い。
(アスカの時と同じだ)
 同時に思う。
(でも違う、綾波は、レイは僕を必要としてくれてる、僕が居なくても……、僕が居なくても平気なアスカとは違う、違うんだ)
 何と不純な動悸であるのか。
 それでも最も大事な人であると、一番大切な存在であると。
 誤認させるには十分だった。
「ごめん……、泣いちゃったね」
 シンジは体を離し、微笑んだ。
「レイは……、ここに居て良いんだ、良いんだと思う、だからもう、邪魔になっているだなんて思わないで」
 こくりと頷く。
「わたしも……、シンジ君と居たいと思う、思ってる」
 眼差しを揺らして問いかける。
「だから邪魔になりたくない……、どうすれば良いの?」
「どう、って……」
「アスカさんが教えてくれたの、わたしはシンジ君の居場所を犯しているって」 「アスカが?」
「だから、シンジ君の場所を取りたくない……、でも、あなたと居たい、わたしは、どうすればいいの?」
 シンジは穏やかな表情で溜め息を吐いた。
「じゃあ……、たまに作らせて、僕にも」
「それで、……いいの?」
 微笑みに、レイは戸惑いを覚えた。
「どうして、笑うの?」
「え……」
 おずおずと言った感じでシンジを見る。
「わたしは、シンジ君の場を、犯そうとしているのに」
「……言ったでしょ?、レイが喜んで、笑っててくれるなら、いいよ」
「そう?」
「その方が、嬉しいんだ……、その方が」
 レイは困ったような顔をした。
「どうしたの?」
「嬉しい……、けど、苦しいの」
 上目づかいにシンジを見る。
「教えて……、こんな時、どんな顔をすればいいの?」
 なんだとシンジは苦笑した。
「笑えば、良いと思うよ?」
 ただそれだけで良い。
 笑ってくれていれば良い。
 シンジは本気でそう、願っていた。



続く







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