「じゃあ行こうか?」
「うん」
レイは微笑みを絶やさなくなった。
しかしシンジは浮かないままだ。
「なによ?」
「うん……」
アスカが笑ってくれない。
機嫌が悪いままになっている。
はたしてどうすれば良いのだろうか?
シンジにはその理由さえも分からなかった。
崩壊
夢、これは夢。
アスカ……、死んでちょうだい。
嫌!
邪魔なの、面倒見切れないのよ。
嫌!、そんなこと言わないで、お願いだから言わないで!
死んでちょうだい……、邪魔だから。
嫌ぁ!
絶叫して振り払う、それでも母の幻は消えてくれない。
ご飯作れるようになったの!
お掃除も出来る様になったのよ?
これでママに迷惑かけなくてすむから。
だからママ。
お願いだからママをやめないで!
バン!
開いたドアの向こうで揺れる体。
首吊り。
抜けた首が長く見える。
「嫌ぁ!」
飛び起きる。
もう一週間も続く夢。
レイが微笑むようになってから、絶え間なく悪夢にうなされている。
授業をサボって屋上で寝ていた。
昼間なら……、そう思ってもやはりだめだった。
「アスカさん……」
何故だかレイが立っていた。
「……なによ」
つい不機嫌そうに漏らしてしまう。
「ごめんなさい……、教室に、いなかったから」
「はん!、それで恩を売りに来たってわけ?、おあいにく様」
脅えたような瞳に苛つく。
「なによ?、心配しなくてもあんたにケンカは売らないわよ」
「なぜ?」
「なぜって……、あんたがシンジのお気に入りだからに決まってるでしょ!」
睡眠不足に神経がささくれだってしまっていた。
「そうでなきゃ、誰があんたなんかに」
吐き捨てる。
「そう……」
「そうよ!、シンジはずっとあたしを見ててくれた、守ってくれてたんだから!」
まるで悲鳴だ。
「シンジを取ったくせにっ、余裕が出来たら今度は同情!?」
もう限界だ。
「シンジを返して、返してよ!」
(側に居てくれるって言ったんだから!)
『寂しいのは嫌だって、抱いてくれたんだから!』
だがその事については叫べなかった。
シンジの悲しそうな表情が浮かんで来たから。
「くっ!」
だからその分駆け出した。
レイの前から逃げ出した。
「わたし……」
一人残され立たずむレイ。
レイもようやく気がついた。
アスカもまた乱れた家族の輪に耐えていたと。
(らしくない!)
ガン!
更衣室。
殴られたロッカーがへこみを付けた。
「なに八つ当たりしてんのよ!」
レイへの叫びなど腹いせに過ぎなかった。
『シンジを取られるのは嫌』
しかしレイが幸せを求めるのは仕方が無い。
(散々シンジの前で誉めてもらって、喜んで、嬉しがって……、イジケさせておいて、苛めてたあたしが何か言うなんて)
おこがまし過ぎる。
その想いがどうしても感情の全てにストップを掛けるのだ。
(わかってる、わかってるけど……、でも)
その責めぎ合いがアスカを酷く苦しめていた。
このままでは、一人にされてしまいそうだからだ。
ふぅ、ふぅと、荒い息を意思の力でねじ伏せていく。
アスカは急に、肩に入れていた力を抜いた。
音を立ててロッカーに額を押し付ける。
(あいつ……)
綾波レイ。
今は碇レイなのだろうか?
そんな些細な事はどちらでも良かった。
思い浮かべたのはレイの無表情な顔である。
彼女は今、幸せになろうとしている。
なのにどうして辛そうなのか?
(あたしが、シンジが悪いってぇの?)
自分が与えられて来たものと同じものを得ようとしている。
それは決して悪いことではないはずなのに……
「分かってるわよ……」
割り切れない。
本当に悪いのは誰なのか?
それは嫉妬深い自分なのだ。
それが分かっていて、どうして彼女を責められるだろうか?
自分が救われて来た過程を、彼女も経ようとしているだけなのに。
『あたしはもう、子供じゃない』
我慢しなければならない、はず……
「けど!」
家族の絆を与えるのはいい、でも、取られたくないものがある。
それは口に出してしまった。
(シンジを返してだなんて!)
告白したのはシンジで、受けたのはレイだ。
そして背を押したのは自分なのだ。
(あたしに割り込む権利なんて無いのに)
今は亀裂と言えるほど大きな溝がある、それをほくそ笑んでいる自分が居る。
それは家族と言う名の不和を歓迎している自分が居る。
(ズルいわね、あたしって……)
アスカは自嘲気味の笑みを浮かべた。
「ただいま」
シンジは無意識の内にこぼし、後ろ手に戸を閉めた。
しんとした空気に、驚くほど大きな音が響いてしまう。
「じゃあこれ、冷蔵庫に入れとくよ?」
「ありがとう……」
シンジは買い物袋を上げて見せてから、先に靴を脱いで家に上がった。
先日泣かせてしまったことを気にして、シンジはなるべくレイと帰るようにしている。
いや、レイの側に居るようにしていた。
だからシンジは気が付いていた。
(レイ……、どうしたんだろう?)
喜んでくれていない。
いや、むしろ気を重くしてしまっている?
そんな雰囲気をかもし出していると、ちゃんと見抜いていた。
それはアスカとのいさかいが原因なのだが、シンジには知るよしもないことだ。
(ダメなのかな、もう……)
だからシンジは単純にそう考えて、引きずられるように意気消沈してしまっていた。
冷蔵庫の前にしゃがみ込み、袋から牛乳などを取り出していく。
ひんやりとした冷気に頭を当てて、シンジはゆっくりとかぶりを振った。
(僕のこと、好きだって言ってくれたじゃないか)
『きっと元に戻れるよ……、大丈夫』
だがそんな希望ですらも、シンジは自分で否定してしまった。
『好きってなに?、元ってなに?』
恩人の息子?、これから家族になる人のこと?
そう言った人達へ向ける、感情のこと?
溜め息が突いて出てしまう。
(信じなきゃ……)
言葉には保証などないのだから。
信じるか、信じないか。
それだけだから。
(騙してたわけじゃないよね?、レイ……)
シンジは辛くなって来て、意識的に考えを逸らした。
赤い髪を思い浮かべる。
いつもは上向いて笑みを溢れている、そんな顔しか思い浮かばない、なのにこの頃は俯いた姿だけが想像できていた。
(アスカ……)
シンジは胸に鈍痛を感じた。
最近、笑ってくれないようになった。
それは間違いなく自分のせいであった。
からんで来なくなった。
からかいもしなくなった。
じゃれても来なくなってしまった。
常時暗いままで、避けるような態度さえも窺わせている。
それは間違い無く、これまでの関係を壊した自分のせいだ。
『告白なんて、しなければよかった?』
そうすれば、ただの家族としてレイを迎えられたはずだから。
気まずい事も、気を遣う必要もなかったはずなのに……
(いや、レイは言ってくれたじゃないか、僕の傍に居たくなったから、受けたんだって)
養女の話を。
(アスカ……)
その分のしわ寄せが何処に集中してしまっているのか、シンジにもちゃんと分かっていた。
(アスカ……、寂しがってるのに、だけど僕はレイと居てばっかりで、結局アスカを一人にしてる……)
分かっているのに、何もしてあげられない。
いや、何もしようとしてい無い自分が居る。
アスカなら大丈夫、自分で何とかすると言い訳をして。
(気が重いや……)
シンジは軽くお腹をさすった。
痛くなるほどではないが、胃が小さくなっているのを感じる。
その分、食欲も減退している、確実に。
(アスカが、泣いたんだ……)
それは非常にショックな事であった。
アスカが落ち込んだ時は、いつも機嫌が直るまで逃げ回っていた。
だが今回だけはそうはいかない、アスカの涙はそんな強迫観念を呼び起こさせている。
ギュッと唇を噛んだのは、アスカを泣かせた青木のことを思い出したからだった。
(僕だって、泣かしちゃってるじゃないか)
では自分は誰から恨まれる事になるのだろうか?、許せないと、殴られる事になるのだろうか?
(僕は……、どうすればいいんだろう?)
溜め息が漏れ出てしまう。
シンジの意識は、どうしたいのかよりも、どうすればいいかに向いていた。
それだけ二人の涙は、シンジに大きな問題を投げかけていた。
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