苛立ちを示すように、右手を何度も握り直す。
シンジは食材を冷蔵庫へ収めると、アスカが戻る前にとレイの部屋を訪れた。
「ちょっといいかな?」
レイは固い声を訝しみながらも頷いて、シンジを中へと招き入れた。
相変わらず殺風景で、趣味を窺わせるようなものは何も無い。
棚を文庫が埋め始めている、その程度であろうか?
「ごめんね……、気になって、さ」
シンジはレイが戸を閉じてくれるのを待って切り出した。
薄い戸だから防音性を期待することは出来ないのだが、気持ち的には違って来る。
「レイ……、どうしたの?」
無言。
「あのさ、ごめんね?、変な事聞いちゃって……」
俯いて押し黙ってしまう、そんなレイに、シンジは軽く溜め息を吐いた。
(言いたくはないのか、僕には……)
ズキンと来る、胸の傷みに堪えられない。
「ごめん……」
だからシンジは背を向けた、追い詰めている様な居心地の悪さを理由に、結局逃げ出そうとしてしまった。
戸に手をかけて、開こうとする。
「シンジ君……」
そんなシンジを、レイは押し止めた。
シンジの背中に張り付いて。
顔を押し当てるようにシャツを掴んで、レイは震えた。
「レイ?」
シャツを捉む手には、あまり力が込められていなかった。
「レイ、どうしたの?」
レイのくぐもった息が背に熱い。
そこに葛藤を感じる。
(レイ……)
何かに悩んでいる。
(でも話してくれなきゃ……)
『僕にはなにも分からないよ』
シンジは言って欲しいと真剣に願った。
苦しんでいるのは分かるのに、自分には何も出来ない。
いや、それ以上に何もさせてもらえない。
それは拒絶と同じであるから。
(僕じゃダメなの?)
話も聞かせてくれないの?
とても寂しいと思う。
同時に父には相談しているのかと思うと、嫉妬が起こる。
(やっぱり僕じゃ、駄目なんじゃないか……)
レイの作り出している壁が高くて……
シンジにはその寂しさが辛かった。
「他人か……」
帰宅したアスカは、鞄を机の下に放り込みながら一人ごちた。
綾波レイ。
あるいは彼女は、自分以上に碇家に入り込もうとしているのかもしれない。
そう考えると嫉妬心は沸くものの、所詮自分は他人であると言う事実を、再確認させられただけの話しであった。
いつかは碇家を出ると言う考えの元に、今まで準備して来たのだから。
「でも……、ね」
着替えるためにブラウスのボタンに手を掛けながら考える。
『碇シンジ』
それはレイが来た事で気付いてしまった気持ちであった。
シンジ以上に、今更誰かと付き合っていけるとは思えない。
この家を出た時は、きっと笑顔と言う仮面を付ける事になる。
(シンジみたいに?)
愛想良くして、誰からも嫌われないように。
アスカはふぅっと溜め息を吐いた。
「あいつ……、良く笑っていられるわね」
彼女が思い浮かべたのは、陰りを宿したシンジの笑顔だ。
それがどれほど寂しい事なのか、シンジを見ていて分かってしまった。
今度のことでようく分かった。
(あたしには無理よ、そんなの、あたしにはそんなのできない……)
こんなに辛くて苦しくても、笑って隠して護魔化していくなど。
(誰もシンジの代わりになんてならないわ)
これは確信であった。
クォーターとしての容姿……、顔と、髪と、体。
これらが確実に、アスカと言う少女の心を霞ませる。
(こんな邪魔なもの、いらないのに……)
アスカは着替えを終えると、隣の部屋へと出かけた。
ブラウスの下に下着は付けていない、特に意識したわけではない、ただ汗で気持ち悪かっただけだ。
良く見れば透けて見えている、だが、そんな事でさえもからかいのネタにして来ていた。
(今更意識するような事じゃないのにね……)
改めてアスカは、シンジを男として意識していなかったのだと痛感した。
「シンジ……、いい?」
シンジがレイの部屋を訪ねるのとは違い、アスカは中に入ってから口を開く。
それはシンジがヘッドフォンで耳を塞いでいるからだ、外からでは反応が無い、それはいつものことだから気にはしなかったものの、アスカは妙な雰囲気に目を細めた。
「なに?」
シンジの起き上がり方が妙に気怠かったのだ。
それだけでも意識が内側に向いているのが読み取れる。
アスカはシンジの隣、ベッドの端に腰かけた。
「アスカ?」
アスカは返事の代わりに、一言も無しに彼の首に腕を回した。
「どうしたのさ?」
抱きついて来たアスカの肩に、恐る恐る手をかける。
「……あいつとも、こんなことしてるの?」
硬直する。
「やめてよ」
シンジはアスカを押し離した。
「シンジ……」
「やめてよ……」
『試したりしないで』
シンジの声の震えにアスカは詫びた。
「ごめんなさい……」
しおらしく俯き謝る。
「でも、あたしは……」
「こんなこと、出来るわけないじゃないか……」
「なんでよ?」
落ち込んだ表情に苦笑が浮かんでいた。
「自信が無いんだ……」
「なんの?」
「ねぇ?」
シンジは疑問に対して問い返した。
「レイって……、なにがあるのかな?」
「なによ、それ……」
「レイには、僕よりも何も無いような気がする、そんな感じがするんだ……」
「じゃあ……、あたしには、なにかあるってわけ?」
「……アスカは、勉強も、運動もできるし、友達も、さ?、いっぱい色んなものを持ってるじゃないか」
ギュッとピンク色の唇が噛みしめられた。
「……が、う」
「え?」
「誰も……、誰も一緒に居てくれないもの!」
「アスカ?」
「ずっとずっと一緒に、一緒に居て……」
「ごめん、アスカ……、ごめん……」
「謝るんじゃ……、ないわよぉ……」
しがみついたシンジの胸の中で、ひっくと堪え切れない嗚咽を漏らす。
手は首から、シンジの胸に移っていた。
シンジはアスカの背を撫でながら、どうして奪い合いになってしまうのか苦しんだ。
(みんな……、一人で居たくないだけなのに、どうして……)
みんながみんな、同じ物を欲しがっている。
それを求められているのは自分なのだと思うことは、自惚れなのだろうか?
(僕はどうすればいいの?)
諦めるしか無いのかもしれない。
何かを与えたいのなら。
与える側に回るのなら。
でも。
(そんなの、僕に出来るわけ、ないじゃないか……)
人を支える何てこと、と……
シンジは慰めはしても、アスカを強く抱きしめることは出来なかった。
翌日の学校である。
いつものように三人で登校し、いつものように三人、それぞれの世界に閉じこもって行く。
シンジは頬杖を突いて、二人の様子を盗み見ていた。
(レイ……)
彼女は一人の世界に閉じこもって、さっそく本を読んでいた。
(アスカは……)
皆と喋っていた、男の子と女の子、沢山の笑いがアスカを中心に生まれていた。
(でも……)
シンジは夕べのアスカの泣き言が堪えていた。
アスカがクォーターでなかったら、青い目と赤い髪じゃなかったら?、さらに言えば可愛くなかったら……、物珍しくなかったとしたら。
(それがアスカの言いたかった事なんだろうけど、でも、それでも話し相手もいないレイに比べたら……)
『バカ!』
そんな罵声が聞こえた気がした。
(何考えてんだよ僕は!、綾波だってアスカと同じぐらいに人気があったじゃないか、……僕だってその一人だった、だから好きだなんて言ったんだろ?、独りだから何とかして上げたい?、そんなことを考える資格が僕にあるの?)
シンジは手を組み合わせると、その上に額を落とし、机の木目を見つめた。
(そうだ、そうだよ、アスカはそんな人間は嫌だって言った、綾波もそうなのかな?、そうだとしたら、僕は……)
父の顔が思い浮かんだ。
(アスカはレイに、自分の居場所が奪われるんじゃないかって脅えてる、それは僕も同じだけど、でも、僕にはその不安を解消してあげられない、でも父さんは違う……、父さんはレイの寂しさを取り払うために引き取ったんだ、引き取って、家族にした、アスカも引き取った、父さんにはそれが出来るんだ、でも僕には何も出来ない、何もしてあげられない……、アスカ、本当に僕は必要なの?、居ていいの?、レイ、僕が居なくてもレイの寂しさって父さんが埋めてくれるんじゃないの?、僕に遠慮してるだけなんじゃないの?)
夕食の当番を譲ってくれると言ったレイの顔が思い浮かんだ。
(レイは気付いてない……、『あの家』での立場はもう、レイの方が上なんだってことに、僕に気を遣ってくれるのは嬉しいけど、それはレイにある余裕の現われなんだよね、……って、僻んだって、仕方ないのに)
『タエラレナイ!』
誰かが悲鳴を上げていた。
『誰か僕に優しくしてよ!』
そう叫ぶ一方で声がする。
『お前は誰かに優しくしてるの?』
心がばらばらになっていく。
悲しいこと、辛いこと、楽しいこと、嬉しいこと。
(大丈夫、僕は上手くやっているさ……)
今はまだ、諦めれば済むような、そんな居場所を持っているから。
『そうすれば、おこぼれにあずかれる?』
(二人とも優しくしてくれるから……)
ギュッと閉じた瞼の力が強過ぎたのか、涙が滲み出してきた。
少なくともシンジは、それが心から溢れ出したものだとは考えなかった。
無意識の内に、心を封じる作業をしていた。
実子であると言うイニシアチブを、申し訳なさにすり替えていた。
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