(シンジ……)
 シンジが変わった。
 そう感じたのは気のせいでは無かった。
 誰が見てもいつも通りに見える。
 だがアスカだけが気が付いていた。
 友達に囲まれながら、そっとシンジの様子を盗み見ると、憂鬱そうに俯き、一人の世界に閉じ篭ってしまっている。
(あんたも来れば良いじゃない……)
 ここにと考えて、それが出来るシンジでは無いとアスカは思い至ってしまった。
(きっとシンジは、間が持たなくて)
 話に着いていけなくなって、居たたまれなくなって……
(シンジ……)
 表面上はあくまでいつものアスカを装いながら、心では彼のことを考えていた。
(シンジはきっと……)
 余計に傷つく。
 アスカも思い出していた、シンジの誕生日を企画したあの時のことを。
 目前のケーキを壁に叩きつけ、悔しそうにしていたシンジの姿を。
 ……それを叱った、養父の事を。
(シンジ……)
 何処が変わってしまったのか。
 アスカには明確に見えていた。
(嫌なのね……、あたしが、レイが、他の奴と楽しそうにしているのが、話すのが、自分が必要ないみたいで)
 だから他には誰も居ない所でないと、二人きりでないと、シンジは意識を向けようとしない。
 してくれない。
 無視すらする始末だ、あるいは、無視してくれと閉じこもる。
(シンジぃ……)
 アスカは先日のことを思い浮かべた。
 青木のせいで、途端に中傷された時の事をだ。
 自分の容姿が、周りとは違う事が、どんなに不利なのかは分かっているつもりであった。
 面白がって、無責任な噂を広げて、傷つける。
 いま一緒に話している友達も、あの時には何を口にしていたのか?
 本当に大事にすべきはどちらなのか?
 大切にするべきはシンジであるはずなのに。
(なのにあたしは……)
 こうして人に紛れる事を選んでいる。
 それは落ちつくから、人の温もりに触れていられるから。
 安心できるから。
 シンジが寂しがっている。
 それが分かっていると言うのに。
 シンジに側に居てと喚いたくせに。
(最低ね、あたし……)
 アスカはちらりと、レイの様子も窺った。
 彼女が何を考えているのかは、付き合いの浅いアスカには分からない。
 だがアスカには、レイが肌でシンジを意識していると……
 何故だか読み取る事が出来てしまった。


(シンジ君……)
 いつも一人きりでいるのは、寄り付き難い雰囲気を振りまいているからなのだが、それでも注意深く見ることが出来たなら、彼女の様子もおかしいことに気が付けただろう。
 手にしているのは文庫本、しかし活字を追っているはずの瞳は全く動いていない。
 思い出したように項をめくる動きはとても緩慢で、異常な程に時間がかかってしまっていた。
 レイは先程から二人の視線を感じていた。
 感じていて、それが何を意味しているのかが分からないでいた。
(わたしに、何を求めているの?)
 あるいは何を探っているのか?
(わたしが、好き?)
 不安が過る。
(わたしは、好き……)
『好きになるようにするよ』
 ズキンと胸が傷んでしまう。
 告白を受けた時、あれほど喜んでくれたと言うのに……
 あの時、シンジは純粋に好きと言う感情を向けてくれていたと言うのに。
(それを壊したのは、わたし……)
 隠す必要は無かった、隠しておく必要も無かった。
 ただ、彼がそれを知った時のことは、考えて然るべき問題だったのだ。
(一人は、嫌……)
 本当に、シンジとのことがあったから養女の話を受けたのだろうか?
 喜んで受けたのは間違い無い、しかし。
(そうでなくても、受けていた?)
 果たしてゲンドウの申し出を断ることなど出来たのだろうか?
 家族の絆が欲しかった。
 何も無いよりはいい、孤独であるよりはましだから。
 抗えない魅力がそこにはあった、あの寂しい部屋で、震えているよりは余程良いから。
 だが……
(こんなに苦しくなるなんて、思わなかった……)
 レイは胸の疼きに、わずかに頬を引きつらせた。
(アスカさん……)
 シンジの気持ちが彼女に傾いていることには気が付いていた。
 またそれが、自分の与えた傷のせいだということにもだ。
 シンジの傷が癒せるのは、彼女だろうか?
(あの人は違う、違うと思う……)
 シンジが言っていたように、レイもアスカが、どこか自分に似ている事に気が付き始めていた。
 自分が本に逃げ込んでいるように、彼女も人の輪に逃げ込んでいる。
 それがシンジを孤独に追い込んでいると分かっていても、自分にはどうしても捨てられない。
(何故?)
 それもまた自分と同じ理由であろうと想像が付く。
(もし……、家と同じようなことをここでくり返したら、わたし達は)
 もうダメになる。
 あのような葛藤は、人の目に晒されないからこそ、こうして隠しておけるからこそ、今はまだ逃げ場が在るからこそ堪えられる。
 ここは逃避の場所であるのだ。
 だがここであれをくり返したのなら。
(きっと居たたまれなくて……、堪えられない)
 人の口にどのように話が上るのか?
 レイは知っていた、先日のアスカの騒ぎで知ってしまっていた。
 面白ければ平然と傷つける事も厭わない、人の性質と言うものを。
(恐いのね、わたし……)
 レイは本を閉じた、それは答えが見つかったからではなかった。
 緊張を解いて溜め息を漏らす。
 レイは予鈴に、次の授業の用意を始めた。


 アスカに来る手紙の量は、日増しに以前の量に近付いていた。
 友達関係も、ぎくしゃくしたものから角が取れ始めていた。
 それはとてもいい事だから、シンジはアスカと帰るのは諦めることにした。
 少なくとも自分では諦めたつもりでいた。
 だから今日も昨日のように、レイと一緒に買い物を済ませて帰宅した。


(父さん……、か)
「認めるしか無いんだよな、結局は」
 自分と父と、どちらが彼女達に必要なのか。
 シンジはその力関係を、痛烈な程に自覚し始めていた。
 嫉妬で突っかかっても意味などはないのだと。
 要は二人が、寂しがらなければいいのだから……
(そのために、僕は僕の出来る事だけしていればいいんだ)
 邪魔にならない様に距離を置いて。
 彼女達が満足する程度に関わっていればいい。
 それがシンジの出した結論だった。
 そうやって温もりのおこぼれをあずかっているのが一番だと、シンジは心の何処かで諦めていた。
 諦めについては、自覚にはまだ遠かったのだが。
 しかし行動には現れてしまっていた、例えば彼女達が父と食卓を囲んでいる時には、決まって自分の部屋に閉じこもるか、家の外にふらつきに出ていた。
(これじゃだめだって分かってる、けど……)
 シンジは未練がましい自分が嫌になっていた。
 まだどこかで、父が自分の父親なのだと甘い夢を抱いている。
 父親もそう考えてくれていると幻想を抱いていた。
 そんなことはもうない、自分はいらない子供だと、可愛くない子供だと十分態度で示されているのに、まだ認められないでいる。
 そんな自分が、嫌で嫌で堪らない。
(僕はバカだ)
 そんな自分への自己嫌悪から、父から逃げ回ってしまっている。
 今日もシンジは夕食の仕度を手伝ってから、「つまみ食いしちゃったから」と理由を付けて家を出ていた。
 行く宛は無い、思い付きもしない。
 レイが包丁を持つようになってから、食費などを出す財布は彼女に預けてしまっていた。
 だから持ち合わせも無く、店にも入れない。
 人ごみが孤独感を増すようで、シンジは路地へ路地へと向かって歩いていた。
 人気の無さが心地良かった、何も考えないで、夜風の涼しさに身を当てる。
 心の何処かに浮かぶ絶望が、このまま家に帰らないで、消え去りはしないかと甘い誘いを掛けて来る。
 シンジの口元には、いつしか暗い笑みが浮かんでしまっていた。
(どうせ死んだって)
 パズルのピースにさえなれない自分を感じてしまった。
 沢山ある中の絶対の一つではない、せいぜいが積み木のブロック程度であった。
 同じ形をした、代わりが山ほどある存在……
 それが自分だ。
(僕が居なくなれば山は崩れちゃうかもしれないけど……、でもしょせんは積み木だ、僕の代わりのブロックが二人を支える、そうして新しい山を積み上げればいいだけで……)
 シンジはぐしっと鼻をすすり、涙を腕でぐいと拭った。
(好きって……、好きって言ったけど、でも)
『好きになってもらえたけど』
 それが碇シンジでなければならないと言う理由にはならないのだ。
(僕よりもっと二人を大切に出来る人が現われたら、僕は)
 涙で滲んだ視界に映り込んだ人物に、シンジはその場に立ちすくんでしまった。
(父さん?)
 先の十字路を横切っていったのは父だった、その腕には大判の封筒を抱えていた。
(どうして、こんな所に……)
 今頃夕食を取っているはずの父が何故?
 気にはなったが、シンジは背を向けた。
 逃げることを選びたかったのだ。
 だが未練が数瞬、目を逸らせるのを遅らせた。
 ゲンドウの後から歩いて来た少年が居た。
 白い肌、白い髪、赤い瞳。
 レイに似ていると感じたのは気のせいだろうか?
 容姿ではない。
 纏っている雰囲気がどこか似ていた。
 彼は右手に……、シンジとは逆方向に曲がっていく。
(笑った?)
 彼はシンジを見付けたのか、口元に微笑を浮かべた。
 浮かべたような気がした。
 シンジは再び立ち尽くしてしまった。
 逃げる事など忘れてしまっていた。
 まるで魅入られてしまったかの様に、シンジは見えなくなるまで少年の背を見送ってしまっていた。







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