「そう言えばさぁ」
 学校。
「今日、転校生が来るんだってさ」
 夕べ見た印象的な少年のことが忘れられなくて、シンジはケンスケの言葉に反応するのが遅れてしまった。
「なんや、なにぼうっとしとんねん?」
「あ、ごめん……」
「かーっ、また綾波か?」
「綾波の胸」
「綾波のふくらはぎ」
「「まさかシンジぃ!」」
「何考えてんだよ、二人とも!」
 シンジは鼻息の荒い二人を押し返した。
「そんなこと、出来るはずないじゃないか!」
「ほぉおおおお?、じゃあしたいってことは認めるんだな?」
「やらしいやっちゃなぁ」
「……どっちがだよ」
 シンジは溜め息を吐くと、また憂鬱そうに自分の世界へと入り込んだ。
 脳裏に浮かぶのは夕べ見た少年の微笑である。
 何故だろうか、転校生と聞いて、彼のことが思い浮かんだ。
 嘲り。
 シンジは何故だか惨めな気分に落ち込むのを感じて、自分自身に首を捻った。


「渚カヲルです」
 鋭い声だった。
 担任である葛城ミサトは非常に明るい事で有名で、彼女の息を呑むような唸り声など、皆初めて聞いた事だろう。
 明るく、感情が込められていないにも関わらず、彼の声には重く響くものがあったのだ。
 それは氷に近かった。
 涼を与えてくれる存在でありながら、触れ過ぎれば火傷を起こしてしまう様な……
 距離を保たなければならない、そんな気を起こさせる少年だった。
「あ、じゃあ……、渚君は」
 ミサトは気を取り直したように、彼の席を指差した。
(間違い無い……、よね?)
 シンジは席一つ挟んで向こうを歩く彼の冷笑に、容姿以上の確信を抱いた。
 渚カヲル。
 授業中、シンジは自分の欲望に必死に堪えることになってしまった。
(どうしてこんなに気になるんだろう……)
 かろうじて振り返るのを堪えていた。
 背中に視線を感じる。
 自分のこと、アスカのことで、人一倍人目を気にして来たシンジだから間違えようが無かった。
『彼は僕を見ている』
 確信だった。
(あの目、僕を知ってる目だった、でもどうして?)
 彼を見かける直前に見た父のことが脳裏を過った。
(父さんが?、でもどうして……)
 レイのこともある、だからシンジは繋がりを否定する気にはなれなかった。
(レイ……)
 シンジは救いを求めるように、目だけを動かして彼女を見た。
 そして後悔した。
(あ……)
 レイは彼を見ていた。
 無表情に彼を見ていた。
 それはある種の興味を持っている者の目だった、問いかける目であり、返事を待つ者の目であり、そして……
(そうなんだ……)
 親しい友人に向けられる類の瞳でもあった。
 この瞬間、彼と、彼女が、父によって繋がった気がした。
(そうなんだ……)
 込み上げる物を、吐きそうだった。


「おう、惣流、こっちや」
 トウジは屋上から、真下を盗み見るようにしていた。
「なによ、こんな所に呼び出して……」
 アスカは不機嫌そうに、トウジと、自分を引っ張って来たケンスケに言い放った。
「ヒカリが待ってるんだから、早くしてよね?」
「ええから、ちょっとこっち来いや」
「なによもう……」
 そう言いながら、アスカは無造作に近寄った。
「何か見えるわけ?」
「あんまり顔、出さない方がいいぞ?」
 ケンスケの忠告に従ってそっと覗く。
「!?」
 アスカは驚きに目を見開いた。
「な?」
 ケンスケの言葉がやけに響いた。
 真下は校舎裏にあたる場所で、日陰の木は元気が無く、雑木に近かった。
 そんな陰気な場所にレイが居た。
 彼女の前には渚カヲルが居た。
 ポケットに手を入れて、おかしそうにレイの話を聞いていた。
 レイの顔は見えなかった。
 だがカヲルの表情を見れば、決して険悪でないのが分かった。
 そこには確かに絆があった、垣間見えた。
 家族や、兄妹が持つような親しさがあった。
「やっぱシンジやとあかんのやろか?」
 トウジの台詞に、アスカは我に返った。
「どういう意味よ?」
「あれや、あれ」
 トウジは顎をしゃくって見せた。
「アルビノ言うんやろ?」
「あんた……」
「勘違いすなや?」
「そうそう、俺達は好きだぜ?、綾波って可愛いしさ」
「そやけど、お前かて覚えあるやろ」
 トウジの指摘は、アスカの胸をざっくりとえぐった。
「わかってるわよ……、けど!」
「俺達ってさぁ……」
 ケンスケはアスカの激昂を空かすように声を出した。
「惣流の髪の毛って珍しくてさ……、苛めたこと、あったろ?」
「……覚えてないわよ」
「俺達は覚えてるよ……、けどさ、シンジが怒って殴り付けてるのを見て、ああいけない事だったんだなって思って、やめたんだよ、な、そういうのをからかうのって……」
「そやけど綾波のあれて、惣流とはまた違うさかいになぁ……、惣流に慣れとるやつでも綾波には冷たかったし、そやけど、シンジはやっぱり気にしとらへんかったし」
「付き合うってことになってさ、悔しかったけど、まあシンジならいいかなって思ったんだよ、俺……」
「そやけど、あれは反則やで……」
 トウジは柵から離れた、下から見つからないようにするためだった。
「あないに露骨に……、シンジが気ぃつかへんわけ、あらへんやないか……」
「あたしに……、どうしろって言うのよ」
 アスカもトウジに習って、柵から離れた。
「ちょっと……、気になってさ、シンジ、元気ないだろ?」
「あれはとどめやで、……このとおりや!」
 トウジはパンッと手を合わせた。
「シンジの様子、見といてもらえんか?」
「はぁ?」
「慰めてやってくれとか、そこまでは言わないからさ、……恐いんだよ、シンジの奴、何を隠そうとしてるのか知らないけど、すぐに護魔化すし」
 アスカはまた胸が痛くなるのを感じた。
 シンジが隠そうとしていること。
 それは自分とは無関係ではないからだ。
「……分かったわよ」
「すまん!」
「ごめん!」
 二人は勢い良く感謝を述べたが、アスカはそんな二人に嘆息するだけだった。
(あたしに断れるわけないじゃない)
 重苦しいものが心に生まれる。
 それが罪悪感であることは間違い無かった。


 奇妙な空気が生まれていた。
 明らかに渚カヲルを意識している綾波レイ。
 そんなレイは、シンジが彼女を置いて帰った事にも気が付かなかったし、アスカに至ってはあれだけ騒いでおきながら、結局シンジを軽んじている綾波レイに、軽蔑の目を向けていた。
 HRが終わり、立ち上がる。
 レイはそのまま鞄を机の上に立たせて、カヲルが出て行くのを目で追っていた。
 扉をくぐる直前に、カヲルの笑っているような目が、レイの視線と合わさった。
 ほんの数瞬、レイはその目を追いかけた。
 カヲルの姿が見えなくなって、レイは初めて何かを思い出したように慌てた。
(シンジ君……)
 いつも声を掛けてくれていたのに、そのお声がかからない。
 レイは教室を隅から隅まで見渡し、不安げな顔になって、もう一度探した。
「……シンジなら帰ったわよ」
 驚くように振り返る。
「忙しそうだから、声を掛けるのはやめたんでしょ」
「忙しい?」
「ええ」
 アスカの目は冷たかった。
「シンジよりあの子の方が気になるんでしょ?」
 アスカの物言いに初めて気がついたのか、レイははっとしたような表情を浮かべたが、遅過ぎた。


 シンジの思考は停止していた。
 ショックとか、悲しいとか、そんなことは何もなかった。
 ただ億劫で、考える事をやめていた。
 あれほどそうしようと思っても出来なかった事が、今は考えもしないのに行えていた。
「ただいま……」
 買い物も、寄り道も、なにも思い付かず、ただ日常をくり返すように、無意識の内に帰宅の途を終えていた。
 誰も居ない家、人の空気のない部屋。
 空虚な寒さに、ついつい温もりを思い出す。
(アスカ……、暖かかったな)
 瞬時にシンジは、嫌な想像が過って胸を掻きむしった。
(レイが、あの子と!)
『抱き合うなんて!』
 そしてそれを止められない自分がいる。
 見ているだけの自分が居る。
(そんなの嫌だよ……)
 彼は父と何故一緒に居たのだろうか?
 何を話していたのだろうか?
『いらない子供』
 何度もくり返して来たフレーズが蘇ってきた。
 では彼は必要な子供なのかもしれない。
『僕がいらないから?、情けないから?』
 レイを思って引き取った父が、レイのためを思って少年を連れて来る。
 それをあり得ないことだなどと、どうして笑い飛ばすことができるだろうか?
 シンジにはとても否定できなかった。
「そんなの、嫌だ、嫌だよぉ……」
 シンジは自室に辿り着くなり、崩れ落ちた。
「うっ、ぐ……」
 その場にうずくまって、嗚咽を漏らす。
「うっ、あ、ぐ……」
 しかしそれでも、最後の理性がシンジの心に楔を掛けていた。
 漏れ出る声を噛み殺し、誰にも聞こえないようにと制止させていた。
 辛さが凝り固まって、暗い塊になるのを自覚しながらも……
(これでいいんだ……)
 シンジは圧し潰されていく感情を喜んで歓迎した。
(これで僕は、うまくやっていけるさ……)
 だがその前に、一つだけ儀式を済まさなければならないと感じる。
 それは父に言葉を貰う事だった。
 甘い言葉ではない。
 決別するための一言だ。
 絶対的な排他を頂く事で、いらない子供から赤の他人にならなければならない。
 死んでも、他人事で済まされてしまう様な、だから……
 シンジはもう一度だけ、声を漏らさず、激しく泣いた。







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