−−綾波は何処から来たの?
 わからない。
 −−綾波には僕が必要なの?
 不可欠ではない。
 −−僕が僕である必要って、なに?
(だから僕でなくてもいいんだ)
 情けないから。
 何も出来ないから。
 優しくされたいだけのお荷物だから、だから……
 必死になって自分を卑しめる。
 そうでなければ、これから起こる事に堪えられないと思ったからだ。
 いや、起こす事にかもしれない……
 シンジは息を止めて、その戸口に手をかけた。
 そこは父の部屋だった。
 二人の娘と夕食を済ませたのは、台所を見て確認していた。
 アスカやレイの前で、こんな話をするほどの勇気は持てなかった。
 この中には父が居る。
 それだけでシンジは圧し潰されそうな重圧を感じていた。
 父と話す。
 たったそれだけのことなのに。
「父さん、入るよ」
 シンジは思い切って戸を開けた。
 勢いを付けなければ、尻込みしてしまいそうだったからだ。
「父さ……」
 シンジは顔を上げて……、気が抜けた。
「いないのか……」
 溜めこんでいた息を吐く。
「お風呂……、かな?」
 久々に覗いた父の部屋は、雑然の一歩手前で整理されていた。
 掃除の時もこの部屋だけは避けてきた。
 なのに塵が積ってないのは、父以外の誰かが掃除をしたと言うことだ。
 以前覗いた時には、埃にまみれた本が積んであったと言うのに。
 アスカであるはずが無い、なら残る人は一人だけだ。
(レイって、こんなところも掃除してるんだな……)
 勝手に触ると怒られてしまうのではないか……
 そんな不安を少女は父に抱いていない。
 こんなところにも、信頼の差が現れていた。
「しょうがない、か……」
 シンジはほっとして、逃げ出せると考えた事に嫌悪した。
(だめだよ、もう、これ以上は……)
 先延ばしにしても、辛い気持ちになるだけだから。
「待とう……」
 今外に出たら、再び戻って来る勇気は持てない。
 そんな強迫観念にかられて、シンジは恐怖心を護魔化し、踏みとどまった。
 物珍しく、父の書籍に目を通す。
 レイの本棚と物の置き方が似ているのは気のせいだろうか?
 と、シンジは机の上に投げ出された、大判の封筒に目を止めた。
「これって……」
 忘れられるはずが無かった。
 カヲルを初めて見たあの晩、父が持っていた封筒だった。
 と、同時に、そこに父とカヲルの秘密が匂った気がした。
 見てはいけないと言う想いが過る。
 引き返せなくなる、何かが壊れる。
(怒られる?)
 シンジはその考えを鼻で笑った。
(捨てられるために、来たんじゃないか!)
 シンジは封筒を手に取った。
 そして張り付けられていたタグの表記に、シンジは鼓動は、全ての音を排他した。
 急速に視界が狭くなり、その文字だけが大きく見えた。
「Y.Ikari?」
 ドクン、ドクン、ドクン……
 ぶれる様に視界が揺れた。
 ドクン、ドクン、ドクン……
 持ち上げる、目を凝らす、イカリユイ、間違い無かった。
 ドクン、ドクン、ドクン……
 何も聞こえなくなる、ただ鼓動だけがうるさかった。
 震える手で、封筒の中の書類を抜き出す。
 やけに枚数が多かった、何処の国の言葉なのか分からない文字が羅列されていた。
 だが肺の絵やメモのような但し書き、注意書が、診療記録なのだと読み取らせた。
 次の一枚は腹部、脳もある、沢山の数字が日にちに分けてチェックされ、グラフとして描かれていた。
 大した差が無いことがわかった、安定しているのか、進展が無いのかは分からないが、だがそれでも、シンジでさえも分かる事が一つだけあった。
「どうして……」
 その日付。
「どうして!」
「……何をしている」
「父さん!?」
 振り返る。
 ゲンドウはシンジの手の内にある書類に気がつき、軽く目を細めた。
 その反応を見逃さない。
「なんだよこれ」
「質問に答えろ」
「どういうことだよ!」
「お前には関係無い」
「これ、母さんのじゃないか!」
「ユイは死んだ」
「嘘だ!」
「用が無いのなら出て行け」
「父さん!」
「ちょっと、何騒いでるのよ!」
「シンジ君」
 シンジは二人のことになど気にもしなかった、今までにないほど、いや、一度もしてこなかった事をしていた。
 父と、真正面から睨み合う。
 最も恐れていた事を、激しい憤りも手伝って、真っ向から行っていた。
 その異常さには、アスカだからこそ気が付けたのだろう。
「シンジ……」
 ゴクリと唾を飲み込み、アスカは手をだしあぐねて戸惑った。
(何があったってのよ?)
 ややあって、その答えはシンジが漏らした。
「母さんは……、生きてるんだね?」
「え!?」
 アスカは驚き、シンジが突きつけた書類を横から奪った。
「治療経過??」
「なんで……、黙ってたのさ」
 シンジはアスカなど無視してゲンドウに問いただした。
 今までの臆病さの反動のように、獣性が酷く高まっていた。
 つかみ掛りかねないほどの激しさが見える。
 いつ殴りかかってもおかしくない雰囲気があった。
「何とか言ったらどうなんだよ!」
「シンジ君、だめ!」
 とっさにレイは抱きついた。
「離せ、離せよ!」
「ユイさんは、回復する見込みが……」
「レイ!」
 ゲンドウの叱咤にレイは口をつぐんだ。
「でも……」
 睨み付けられ、レイは身を縮めるようにすくみ上がった。
「シンジ……、く、ん?」
 助けを乞うように、思いとどまるようシンジに目を向ける。
 レイは一瞬、気配の変化が理解できずにキョトンとしてしまった。
 シンジは目を見開いていた。
 ゲンドウにではない。
 レイに対してだった。
「知って……、たの?」
 レイははっとした。
「シンジく……」
 言葉を続けられない。
 精気の抜け切った顔、真っ白になり、血の気が引き切っていた。
「シンジ!」
 アスカはよろけるように後ずさったシンジを抱きとめた。
「シンジ……」
 小刻みに震えているのは、どうしてだろうか?
 アスカは哀れみを含んで、ゆっくりと瞼を閉じた。
(シンジ……)
 そしてキッと、怒りを含んで見開いた。
 射殺すような殺気を込めて、アスカは睨んだ。
 たじろいだレイが後ずさる。
 その背後に居るのはゲンドウだ。
 その立ち位置、構図が、ゲンドウの保護が、加護が、誰にあるかを表しているようで、アスカは反吐が出るような吐き気を覚えた。
 自分もああして甘えていたのかと思うと、胸を掻きむしって心臓をえぐり出してしまいそうだった。
「行くわよ、シンジ……」
 アスカはシンジの肩を抱いたまま、誘導するように背を向けさせた。
「シンジ君……」
 レイははっとして手を伸ばした。
 連れ添おうとして、……できなかった。
 シンジの目が死んでいたから。
 振り向いてくれない、写してもくれなかったから、いや……
 何も写さなくなっていたから。
 殴られても、罵られてもいい。
 無視されてもいい。
 レイは彼の背に縋り付こうとした。
 だがそれすらもできなかった。
 一度だけ振り返ったからだ。
 アスカが。
 冷たい目だった。
 その目はレイを酷く批難していた。
(また裏切ったのね……)
 レイは動けなかった。
(いいえ、全部嘘だったのね)
 ただ立ちすくんでしまった。
 決定的だった。
 シンジは、外に対しての反応を止めた。
 絶望の淵を踏み出してしまった。
 何も無い、暗闇の世界へ落ちていってしまった。
 突き落としたのは……、自分だった。
(シンジ君!)
 レイは心の中で、なんとか叫んだ。
 悪いのは自分なのに。
 騙していたのは自分なのに。
『どうして!』
 傷ついているのは彼なのだろうか?
 何故、シンジが何もかもを失わなければならないのか。
 分からなかった、本当に。
(悪いのは、わたしなのに……)
 背中にゲンドウの、人の気配を、温もりを感じる。
 これを手にしようとしたのは自分、そして手にしているのも自分だ。
 いつから?
 ずっと前から。
 その間シンジは?
 寂しさに震えていた。
 そして今。
 父親だけでなく、母親のことについても裏切っていた。
 それがさらけ出されてしまった。
「シンジ君……」
 レイは縋るように呻いた。
 それでも踏み出すことは出来なかった。
 自分はゲンドウの側の人間であるから。
 ……シンジを騙していた負い目があるから。
 レイは言い訳すらもできなかった。



続く







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