(シンジ……)
 彼の部屋には放り込めなかった。
 恐かったからだ、シンジがその空気の中に溶け込んでしまいそうで。
 だからアスカは、自分の部屋へと連れ込んだ。
 自分の香りが、温もりが、シンジに伝わればいいと、包み込めればいいと。
(お願いだから、わたしを見て……)
 アスカはシンジを抱きしめ、ベッドにゆっくりと座らせた。
(お願いだから、シンジ……)
 だがアスカの願いは通じない。
 シンジは虚ろな瞳をして、何も写そうとしなかった。
 このまま心を閉ざしてしまうのではないか?
 そんな危うさを感じさせる。
 アスカはシンジの頭を抱いた。
 無性に、そうしなければならないと感じての行為だった。
 母親がそうするように。
 慰めるように。
「シンジ……」
 アスカは声に出し、シンジの髪に頬をこすり付けた。
(!?)
 一瞬のことだった。
 胸が圧し潰されて呼吸が苦しくなった。
 気が付けば天井が見えていた。
 押し倒されたと気が付いて、アスカは身を堅くした。
 だがアスカの心配したような事にはならなかった。
(泣いてるの?)
 震えていた。
 シャツを握り締めて、その向こうの胸を潰してしまうくらい、拳を堅く堅く握り締めて……
 縋り付いて。
 犯すような勢いで抱きついておきながら、シンジはそれ以上動かなかった。
 動けなかったのかもしれない。
 歯を噛み締めて、全身に力を込めて、何かを堪えて、震えていた。
 声も出さず、涙も流さず、激情を堪えていた。
「バカ……」
 小刻みな震えに対して、アスカは力を抜いて、シンジの背に腕を回し、抱きしめた。
「泣いてもいいのに……」
 アスカの言葉に、シンジはぐっといっそう顎を引いた。
 何も漏らさずとも、シンジは確かに泣いていた。
(お願いだからシンジ)
 アスカはそんなシンジに、自分の心配が杞憂に終わる事を祈った。
 このまま何も感じなくなる何てことが……
 なにも気にせず、なにも見なくなる何てことが無いように……
(お願いだから、あたしを見て)
 だがアスカの願いは空しく……
 シンジが自分の殻から出て来るような事はなく、アスカの願いは、シンジの希望と同じように掠れていった。


終わり逝く世界


 翌朝。
「それじゃあ、行こう?」
 シンジは二人にとって、恐怖そのものの姿を取った。
 アスカの、レイの想いは通じず、二人を脅えさせるほど、シンジは普段のシンジに戻っていた。
 顔には微笑みを張り付かせていた。
 浮かべているのではない。
 それはまさに、張り付いているだけの仮面であった。
 言葉も、態度も、何も変わらない、変わっていない。
 それだけに二人の目には異様に写っていた。
(シンジ君……)
 レイには今の複雑な心境を、言葉にできるほどに整理し、噛み締めることは出来なかった。
 濁った瞳を、自分の罪そのものだと見つめ返し、「ええ」、と答えるので精一杯であった。
(裏切り、か……)
 アスカもまた、そんなシンジに脅えていた。
 そんなシンジが恐かった。
(泣けばいいのよ)
 騒げばいい。
 怒ればいい。
 シンジはそのどれもを放棄してしまっている。
 きっともうシンジは何も言わない。
(あたしが何をしても、この女が何をしてても……)
 何も言わない、何も感じようとはしないだろう。
 ただ淡々と、くり返しを続けていくだけ。
(恐いのよ……)
 アスカにはそれが恐かった。
 気がつけば死んでいそうな感じがしたから。
 それはまるで、母のように。
 いつもと同じ部屋。
 いつもと同じ空気。
 違っていたのは、母がだらんと下がっていたこと。
 生きる活力が感じられない。
 それは危うい脆さである。
 アスカは知っているからこそ脅えていた。
 今のシンジと死んだ母には、共通する雰囲気が感じられた。
 嫌っていた父親と初恋の少女が知り合いであった。
 その事実に圧し潰されそうになりながらも乗り越えたシンジ、なのに、結局はことごとく騙されていただけだった。
(そりゃあ、ね……)
 ショックよね、っとアスカは思った。
(お願いだからシンジ)
『怒って、こいつを』
 アスカは祈りに似た気持ちを抱いていた。
(そんなんじゃあたし、何もできないじゃない)
 感情を見せてくれれば、自分も一緒に憤ることができるから。
 涙を見せてくれれば、一緒に泣く事も出来るから。
 シンジの感情を、もっともっと溢れさせることができるから。
 だが今は批難すらできないのがアスカの立場であった。
 シンジがそれを望まない以上は……
(あたしに……、そんな権利はないし)
 なによりもシンジ自身が頼ろうとしないのだから。
 これではレイに当たっても、自分の鬱憤をぶつける事になるだけで……
(シンジがしてくれたように慰められない)
 それはシンジが優しさを求めてくれないから。
(何か言ってよ)
 救って欲しいと合図を出してと、彼の背中に訴える。
 しかしシンジは何も言わないし、何も見せない。
 何も発してはくれはしない……
 それが酷くショックな感じで。
 アスカもまた、いつもの覇気を失っていた。


 そんな三人の間柄が、腫れ物に触るような感じになってしまうのは仕方の無い事なのだろうか?
(なにかしらね?)
 ミサトは約三人に気を向け、様子を窺っていた。
 シンジ、レイ、アスカ。
 うち二人は、様子を窺うようにシンジを見ている。
 なのにシンジはなにも気が付いていないのか、ただ黒板の文字を書き写すのに夢中になっているように感じられる。
(ま、大体想像つくけどねぇ〜)
 彼女はどうせいつものことだろうと当たりをつけた。
 そうなると行動は、至極単純なものになる。
「アスカ〜、レイぃ?、いっくらシンちゃんのことが好きだからって、授業中に……」
 いつもなら最後までからかう所なのだが……
(なに?)
 ミサトの言葉は、途中で喉の奥へと引き返していった。
 アスカの殺意、レイは対象的に俯いてしまった。
 そして極め付きは、シンジの虚ろな瞳であろう。
 これ以上、一言でも口にすれば、三人はそれを意識して崩壊していく。
 ミサトにも、自分が引き金になってしまう事ぐらいは感じ取れた。
(これはやっぱり……)
 ミサトは原因の中心は、彼であろうとさっと見据えた。
 余計なお世話だとは思わない。
 何とかしてあげたい思ったら行動に移す。
 それが葛城ミサトと言う女性であった。


「で、なんですか?、呼び出しって……」
 シンジの声は、露骨に警戒を表していた。
 生徒指導室。
 あまり入りたいとは思わない場所だ。
 だがそれ以上に、シンジの声はうっとうしげに状況を毛嫌いしているのを窺わせた。
「あ〜、ちょっちねぇ」
 ミサトはそんなシンジに、ぼりぼりと頭を掻いた。
「アスカと……、レイもだけど、なにかあった?」
 覗き見るように、ミサトはシンジの目を観察した。
 そしてやはりと顔をしかめた。
 ハァッと深く溜め息を吐く。
 その名前に触れた瞬間、シンジの目が何も写さなくなってしまうのだ。
 これでは白状しているのと同じだろう。
 面倒はごめんだと思う、暗い雰囲気は苦手であるから。
 ミサトが見落とした点があるとすれば、それはシンジがその話し自体を避けようとしていたと言う事だろう。
(痴話喧嘩も大概にして欲しいわよ……)
 なのにミサトは、アスカとレイを避けようとしていると勘違いした。
 おざなりな声で言い諭しにかかってしまった。
「あんまり口出ししたくないけど、シンジ君、二人にも気をつかってあげなきゃ」
 シンジからの返答がなかったことで苛立ちが増した。
「レイちゃんと付き合ってるって?、でもアスカも女の子だからねぇ?」
「だからなんですか?」
 おっ、乗って来たなとミサトはほくそ笑んだ。
「やっぱりしっかりしてもらいたいのよ、男の子だしね?」
「だから、それがどうしたんですか?」
 ミサトのからかいは意味が無かった。
 いや、ある意味では意味があった。
 シンジはなんら感じていない。
 それが分かっただけでも意味はあった。
 ミサトはうろたえた声を出した。
「えっと……、なにかあったわけ?」
「先生には関係ありません」
 ミサトは絶句した。
 シンジらしくない物言いに言葉を失ってしまった。
 取り付く島も無いとはこのことだろう。
(どうしたっての?)
 そんなシンジを訝しむ。
 あまりにも違ってしまっていたからだ。
 いつもなら赤くなって、しどろもどろになるはずであった。
 なのに今日のシンジは思い詰めている。
 その原因すらも掴めないことが、ミサトの性格を刺激した。
「シンジ君……、話してくれない?」
「関係ないって言いました」
「先生はね?、心配してるの」
「心配される理由はありません」
「シンジ君!」
「なんですか?」
「あなたね!、人に心配かけておいてっ」
「僕が何かしましたか?」
 パン!
 頬が鳴った。
 ミサトは反射的に叩いてしまっていた。
「あんたねぇ!、だったら人に面倒かけるような態度、取るのをやめなさいよ!」
 シンジは無表情なままに、次第に痺れが増していく頬に手を当てた。
「強がって、手間かけられる方がっ、迷惑なのよ!」
 感情が先走ってしまっているミサトは、シンジの瞳が暗さを増したのに気が付かなかった。
 罵るだけ罵ってから、シンジが何も聞いていない事に気が付いた。
「あ……」
 ミサトは心が冷えるのを感じた、しかしその時にはもう、なにもかもが遅過ぎた。
「……気にするのは勝手ですけど、目障りだってことなんでしょ?、結局は」
 シンジが虚ろな目を向ける対象は、彼女達二人だけのはずだった。
 だがそれが今はミサトにも向けられていた。
 ミサトはその目で見られて始めて、背筋が凍るのを感じてゾッとした。
「し、シンジ……、くん?」
「失礼します」
 簡潔で簡素な答えであった。
 また同時に、シンジが自分に対して何も感じていないこと、何も思っていない事を感じさせるのに、十分過ぎる響きがあった。
 シンジの目は、言葉は、態度は。
 レイに向けられ、アスカに対したのと同じように。
 ミサトの全てを排し、決して受け入れないものを漂わせていた。







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