「シンジ君……」
夕食時。
レイは奥の部屋に何度も何度も目を向けていた。
まさに食事どころではないのだが、アスカは我関せずとばかりにパクついている。
「放っておきなさいよ」
「でも……」
はらはらとしている。
(こいつでも焦るんだ……)
ちょっとした感動をアスカは受けた。
今日はゲンドウは居ない。
少なかったシンジとの夕食。
その限りある一時。
夕べあんなことがあったとしても、それを期待してしまうのは悪いことではないだろう。
「……なによ?」
アスカはレイの、批難するような目に不機嫌に答えた。
「あなたは……」
「あたしは何もしてないわよ?」
『自分のことを棚に上げないでよね』
言外に含ませた言葉で、アスカはレイにやり返した。
「どうせ先生がつついたんでしょ、あたしの知らない所で何か言われたからって、あたしにはどうしようもないわよ」
レイに言い返すことはできない。
当事者だから。
資格も失っている。
消沈していくが、それでもアスカは冷たくする。
「あんたじゃ駄目なのよ……、あたしもだけど」
そう言って、アスカは先程のレイと同じように奥を見た。
アスカの席からは、角度の都合で見えはしないが……
辛いのはそんな事では無かった。
(何をやってるの?)
今までなら、一人でいるシンジなど想像するのは簡単だった。
どうせ音楽でも聞いているのだろうと……
だが今は不安が邪魔をする。
泣いてるの?
眠ってるの?
壁でも見つめているの?
テープを引き出して、千切っているの?
死のうとしてるの?
恐くて確認する事すらできはしない。
(だからって、誰かにあいつのことを任せようなんて思わないけど……)
自分ではいけないのだと、何かを自覚させられ、アスカは手を出せずにいた。
「あいつって、誰かを信じてるのかしらね?」
アスカは独り言のように呟いたが、それは自分では無いと言う、泣き言以外の何でもなかった。
一方、そのシンジであるが、アスカが考えるほどには落ち込んではいなかった。
布団に寝転び、ぼうっと天井を見上げていた。
「出ないや……、涙」
胸は痛いのに、苦しいのに、何も表現できない自分が居た。
(いらないんだ……、ミサト先生も)
何故だろう?、友達の顔が思い浮かばない。
今日話したのは誰だっただろうか?
シンジはごろりと転がった。
(僕が居なくても、都合なんて悪くならないもんな……)
それは自分が不必要であると言う証拠だろう。
めざわりだと口にされたというのに、さほどショックは受けなかった。
そのことにこそ、シンジは酷くうろたえていた。
(母さん……)
シンジはおぼろげながらに思い出せる姿に縋り付いた。
(母さん)
だがシンジには、思い出せるほどの記憶は無かった……
(僕は、どうすればいいと思う?)
アスカのために、レイのために、父に嫌われようとした。
なら今の状況は求めていたものだと言うのに。
だがそれは二人の心の隙間を埋められる存在になろうと思ったからだ。
『始めから!』
当てにはされていなかったのだと思い知らされてしまった。
結局、一人で思い上がって、舞い上がっていただけだったのだ。
何をしても、何をやっても、必要とされている確信など得られず、不必要であるとの証拠ばかりが浮き彫りになっていく。
だから、シンジの心は動かなかった。
動かなくなってしまっていた。
ただ、やっぱりと言う言葉と、またかと言う想いだけがくり返されてしまっていた。
朝が来るのが辛くなって来ていた。
それは一緒に登校するからだ、なら先に行けばいい、後からでも良い。
(そしてシンジを一人にするの?)
アスカは布団から跳ね上げた。
「馬鹿言わないで!」
起きると、そんな自分を叱咤した。
時計を見る、もう七時半だった。
(変ね?)
シンジが起こしに来ない、それがアスカにある種の予感を感じさせた。
まさかと言う思いに支配されつつも、アスカはシンジの部屋を訪ねた。
「……シンジ?」
いつもなら踏み込むというのに……
アスカはドア越しに声を掛けた。
「そろそろ起きないと、……遅刻するわよ?」
やはり人の気配は感じられなかった。
(前にシンジを起こしたのって、いつだったかしら?)
そんな事を考えながら、戸を開く。
一瞬の幻。
天井から人がぶら下がっていた。
アスカは反射的に閉じた目を、恐る恐る開いていった。
そしてほっと胸をなで下ろした。
「シンジ……、いないのね?」
それはそれで焦るべき事なのだが、最悪の状況では無かったのでアスカは安堵に身を委ねた。
「逃げた?」
アスカは、「しようのない奴」と敷居を跨いだ。
ベッドはきちんと片付けられていた。
皺の無さが、深夜の内に出かけたのだと想像させる。
「家出ってわけ?」
アスカは机の上に書き置きがあることに気が付いた。
だがその内容に顔をしかめる。
「墓参りって……」
母親の墓に行ったのだろう、しかし……
「生きてたって……、わかったってのに」
そんなところに行って何をするというのだろうか?
「違うわね」
アスカは小さくかぶりを振った。
「あいつも、あたしと同じなのね……」
何をどうしたいのか、何をどうすればいいのか、どうしていればいいのか、何も分からない、考えられない。
自分の立ち位置さえも見失ってしまっているのだろうと想像する。
「ま、いいわ」
アスカはシンジの行動を許容した。
それはシンジにも気晴らしが必要なのだと言う考えからであったのだが、羽が伸ばせる、気詰まりせずにすむと、意識の根底では考えてしまっていた。
そんな本心が心の奥底に巣食っていることを、アスカはまったく自覚していなかった。
「さあってと出欠を取るわよぉ?」
いつものざわつきを治めて、ミサトはニコニコと一通りの顔ぶれを確認した。
「お休みの人はぁ?」
面倒臭そうに手が上がった、それを見て、ミサトは怪訝そうな顔をした。
「アスカ?」
「シンジが休み」
「シンジ君が?」
「家出、いま行方不明中」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声が漏らされる。
「家出って……、あんた何かやったの?」
「そう思ってりゃいいわよ……」
あまりにも面倒臭そうな返事に、彼女は逆に慌ててしまった。
「ちょっとアスカ、どうしたのよ?」
「別に……」
「別にって……、あんたねぇ?、サボりは認められないわよ?」
「知らないわよ、……あいつ帰ってくればいいけど」
「へ?」
それ以上の言葉はない。
いくら待ってもアスカは続けない。
ミサトの顔色は悪くなった。
(あちゃ〜、失敗した?)
昨日の檄は逆効果だったかもしれない。
それを思い付いた時には遅かった。
全てが遅きに逸していた。
「はぁ……」
シンジはポケットからハンカチを取り出すと、額に滲んだ汗を拭い取った。
駅から歩くこと十五分。
何も無いと言うには民家がある、その程度の町だった。
山に向かって歩くと霊園が見え始める、シンジは石段を登りながら、手ぶらで来た事を申し訳なく思っている自分に苦笑した。
(ここには母さんは居ないのに)
掃除をする必要も何もないのに、手ぶらである事が落ちつかない。
(習慣って奴かな……)
先祖の墓ですらない。
(でも僕はここで母さんに話しかけてた、母さんは……、聞いてくれてたの?)
そう思って、かぶりを振った。
(父さんが、伝えてくれるわけがない)
邪険にされて来たのだから。
シンジは目的のお墓を見付けた。
同じような墓石が並ぶ一角である。
一つ息を吸って、シンジはその前に立った。
まるで選手が試合に臨むように、妙に気負った態度であった。
墓を見下ろし、シンジはその名前を見つめた。
碇ユイとあった。
「母さん……」
シンジは一度に溢れ出る記憶を整理した。
「何度もお参りに来てたのに……」
いつも背後には、見下ろすように父がいた。
「騙してたんだ……」
シンジはギュッと拳を握り締めた。
耳にいつかの会話が、幻聴として聞こえて来た。
『ホントに……、なにもかも捨てちゃったんだね?』
『人は想い出を忘れる事で生きていける、遺体も無い、この墓もただの飾りだ』
『写真とかも無いの?』
『全ては心の中にある、今はそれでいい……』
「なんでっ、どうして!」
シンジは吐き捨てた。
ぽたぽたと足元に雫が跳ねた。
「うっ、く……」
あれだけ泣けなかったというのに、食いしばっても溢れ出る涙を止められない。
「あ、ふっ……」
ここには誰も居やしない。
いつでも逢えるから写真なんていらない。
母が心配だから自分に構ってくれる時間が無かった?
(それならそう言ってくれれば良いじゃないか!)
なのに彼女達のための時間はあるのか?
(僕だって、僕だって父さんに迷惑かけたり、しないように!)
家事をして、遊びにも行かないで……
(邪魔だから!?)
そうなのかもしれない。
掃除をするのは自分が居るから。
家が汚れるのは自分が居るから。
自分が居なければ、あんな家は必要なかったのかもしれない。
(父さんは、ずっと母さんの側に居たかったの?)
こんな墓もいらなかったのかもしれない。
(もし僕が、母さんがどこかで生きているって、知っていたら……)
会いたい、会いに行きたいなんて我が侭を言ってごねたかもしれない。
それはアスカを刺激する?
(わかんない、わかんないよ……)
シンジは鼻をすすり上げた。
(父さん……、父さんは、アスカを、レイとどうしたいのさ?、母さんがそんなに大事なの?、じゃあ僕はどうすればいいの?、父さんにとって僕って何?、居ても、居なくても……、居ない方がいいの?、母さん、教えてよ……、母さん)
『ボクハ、ドウシテ、ココニイルノ?』
心が軋んでは悲鳴を上げる。
存在理由が見つからない。
生きていたい?、生きていたくない?
そんな単純なことも考えられない。
生きていても、いい事なんて何もなかった。
生きていても、いい事なんて、何も無い。
辛いだけで、だから……
『ボクハ、ココニイテモイイノ?』
それを肯定してくれたのはアスカだけだった、でも。
(アスカは、いつか行ってしまうから)
ずっと側には居てくれないから。
「誰か助けて……、助けてよ」
シンジはその場にうずくまった、立っていられなくなってしまった。
ぐるぐると世界が回っている気がした。
小さく丸く、自分の体を抱きしめ、震える。
だがそんなシンジの様子を、少し離れた場所から見つめている少年があった。
風にそよぐその髪は、色素の抜けた色をしている。
その少年の口元は、皮肉るような微笑では無く、苦笑によって彩られていた。
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