休み時間に入ると、彼女の奇妙さは際立った。
それはいつも一緒に居る彼女が、今日は近付けない事からも見て取れた。
「アスカ……、碇君、家出って……」
ヒカリであった、仲の良い友人ならではだからだろう、アスカは無視せずに反応した。
「大丈夫よ、ちゃんと何処に行ったのか分かってるから」
「そうなの?」
「そうなの」
アスカはやや面倒臭げに答えて、またおしゃべりの輪へと戻った。
いつも以上に明るく、気楽にしているように見受けられる。
その様子をカメラに収めていた少年は、覗くのを止めて、呟いた。
「やっぱなぁ……」
「なんや?」
「惣流だよ、ああ言ったけどさ、やっぱそうだったのかなってさ」
鼻白むトウジだ。
「そりゃいくら兄妹同然や言うても、他人は他人っちゅうこっちゃろ」
「心配ならさ、一度ぐらいシンジの席を見ても良いと思わないか?、それにさぁ、シンジが居る時だって、嫌ならそこに居なきゃ良いのにって目でシンジを見てたんだよな」
「そうやないやろ?」
「そうか?」
「居られると鬱陶しいさかいに、見たないっちゅうこっちゃろ」
ケンスケは天井を振り仰いだ。
「そうかもしれないなぁ……」
寂しげだった。
「嫌いって事は無いだろうけど、好きってわけでも無かったのかなぁ」
「気持ち悪いだの、ウジウジしとるやの、散々バカにしとったんは惣流やで……、アホでもあれだけ言われたら、そんな目ぇで見んようになるわな」
「だな……」
ケンスケはつと、綾波レイに視線を向けた。
「あっちはどうなんだろうな?」
「そう言うたら、渚、来とらへんな?」
座席が空いてしまっている。
「綾波はどないやねん?」
「流石にシンジの席を見てるな……、後は時々惣流を睨んでる」
「睨む?、なんでや……」
「許せないんじゃないのか?、シンジを心配してないのが……」
再びカメラを構えて見ると、言葉通り、レイはアスカに非難するような目を向けていた。
項垂れながら、シンジは座り込んでいた。
駅のホームのベンチだ、その角を埋めて、微動だにせず、膝の間から見える地面を薄目を開いて見つめていた。
駅員が見回りにでも来れば、少しは様子がおかしいと思っただろうが、生憎と改札口からは階段を上るために見える事も無く、シンジはもう、三十分に一本の電車を四本も乗り過ごしていた。
(帰ってどうするんだよ)
考えているのはそんな事だった。
(家に帰って、アスカは怒ってくれるかな?、いつもみたいにごめんって謝って、早くご飯を作れって……、違う、レイが居る、レイが作ってくれるから、僕はすることがない、アスカは……、鬱陶しいから、部屋に引っ込んでいろって言うのかな?)
身にならない思考をひたすらくり返してしまっていた。
全ては日常をくり返すための心積りだった。
練習し、その通りに過ごす事で、波風を立てないように……
(無理だよ、そんなの……)
既に涙は枯れている、それでも腫れぼったくなっている目の縁が、シンジの慟哭を表していた。
(レイには……、好きになるようにって、なれるように頑張るって言ったけど、でも)
今は、もう……
(アスカは……、側に居てくれって、側に居てくれるって、けど)
居たってしょうがない……
(渚カヲル……、あの子はどうなんだろう?、やっぱり父さんはレイに……、アスカに引き合わせるのかな?、カッコ良かったし……、勉強も出来るんだろうな、父さんが気に入るくらいなんだから)
自分はどうであるのか?
(もう嫌だ、死にたい……)
顔を上げる、目の前に電車が滑り込んで来た。
ブレーキの音、戸が開き、人がぱらぱらと下りていく。
シンジはぼうっと見つめて、扉が閉じるのを待って、また項垂れた。
(これ以上迷惑を掛けてどうするんだよ)
考えたのはそんな事だった。
線路に飛び込む、電車に引かれる。
運行が止まる事で迷惑する人達が出る、潰れた死体の後始末に困る人達が出る、死体の身元を調べる人、それら全てに謝罪を代行する人間、揚げ句遺体は埋葬されるとして、火葬と、墓と、一体どれだけの人間に、貴重な時間と、お金と、労力を提供させる事になるのか?
(父さんの呆れ顔が見えるよな……)
『手間を掛けさせるな』
墓前で冷たく言い放つ父の目が突き刺さるようで、ただの想像であるのにシンジは目をギュッとつむった。
(誰もいないところって、何処なんだろう……)
シンジは再び、愚にもつかない世界へ落ちた。
『あらあら、アスカちゃん、シンジともう仲良くなったのね?』
茶色い、短い髪の女性は、身を屈めるようにして彼女の頭を優しく撫でた。
『シンジ?、アスカちゃんと仲良くするのよ?』
そう言ってその人は背を向けた。
(待って!)
アスカは手を伸ばした。
(待って、待って!、行っちゃダメ!)
だが彼女は止まらない。
一歩ごとに、暑い夏の陽射しに溶け込んでいく。
(おばさん!)
アスカは椅子を蹴って立ち上がると、蒼白な顔で荒い息を吐いた。
無意識の内に左の胸に手を当てる。
鼓動で心臓が破裂しそうになっていた。
ポタポタと汗が顎先から机に落ちる。
(今頃、どうして……)
「惣流さん?」
授業をしていた老いた教師が、怪訝そうに問いかけた。
「顔が青いですよ?、気分でも……」
アスカはゆっくりと顔を上げると、ここがどこかも分かっていない様な、そんな表情で呟いた。
「……シンジ」
「はい?」
「早退、します……」
アスカは鞄も持たずに席を離れた。
「僕は……、いらない子供なんだ」
改めて呟く事で、シンジはようやく決心を固めていた。
もう項垂れることはやめていた、その代わり、真上を向いて顎を上げていたが。
すでに日は暮れかけている、オレンジを通り越した空は、気持ち悪く揺れていた。
(後一年ちょっとで卒業できるじゃないか……、二年でアルバイトができるようになる、どうせ高校なんて、行かなくても何も言われないさ、始めから諦められてるんだから、働こう……、働いて、家を出よう、アスカ……、裏切るみたいだけど、ずっと一緒にって……、いいよね?、今更、嫌われても……、レイには……、父さんが居る、だから、大丈夫、僕が欠けても、大丈夫……)
先程までなら、このような考えにも胸が酷く疼いていたと言うのに。
シンジの心は、驚くほど平穏なままだった。
平坦であり過ぎた。
だが、それを許さない者が居た。
ふと視線を感じて隣を見る。
「!?」
「やあ」
なぜここに、どうして、君が。
言葉が堰を切って溢れる、しかし喉で詰まって声にならない。
白い髪、赤い瞳、いつもの嘲笑。
青い肌に紅い唇が、異様な妖艶さを放っていた。
「本当は、お墓で見かけたんだけどね、……君に見つかりたくないと思って隠れていたのさ」
「え……」
「帰るならここから電車に乗らなくちゃいけない、でも君がここでじっとしているから、帰るに帰れなかったのさ」
「あ、ごめん……」
「謝ることはないよ、そう、君だって僕と会いたくなかった、話したくなかった、違うかい?」
図星だったので黙り込む。
「だろう?、なら、お互い様だよ」
シンジは足の間に置いていた手を震わせた、震わせてから……、握り込んだ。
「あの、渚、君」
「なんだい?」
「どうして、ここに……」
「墓参りだよ、君と同じさ」
「え……」
「君のお母さんにね?」
脳裏にいくつものシーンが蘇る、父と彼、レイと彼。
シンジは顔を伏せた。
「君は……、知らないの?」
「何を?」
「あそこには、母さんは居ないんだ」
数秒の間の後にカヲルは答えた。
「知っているよ」
「!?」
「知っているけど、僕はここへ来た」
微笑を浮かべるカヲルと、脅えた顔をするシンジは対照的だった。
「お腹、空かないかい?」
「え……」
シンジは唐突な申し出にキョトンとした。
「お腹だよ、ずっとこうしていただろう?」
「……うん」
シンジが頷くと、彼は立ち上がった。
「行こう」
「え?」
「僕に、聞きたい事があるんじゃないのかい?」
戸惑いに襲われる、身がすくむように動かなくなる。
それを突き動かしたのは、返事を待たずに歩き出した、彼の無造作な態度であった。
「何を……、しているの?」
定刻通りに買い物を終えて返って来たレイは、家長の部屋を家捜ししているアスカに目を細めた。
「この間の書類を探してるのよ!」
「なぜ?」
「何故?、決まってるじゃない!」
アスカは探索の手を休めてレイを睨み付けた。
「確かめるのよ!」
「確かめる?」
「あんたには分かんないでしょうね」
ぐっと唇を噛み締める。
「何をしたって上手くいかない、誰も見てくれ無い、誉めてもくれない、喜んでもくれない、それどころかみんな裏切る、笑って、けなして、そんな人間が、どんな気持ちになるかなんて」
「あなたは、知ってるの?」
「知ってるわ」
唸るように言う。
「知ってるわよ!、ええっ、だって!、あたしのママは、ママはね!、シンジみたいに追い詰められて死んじゃったんだから!」
ポロポロと涙がこぼれる。
「シンジが死んだら、あんたのせいよ!」
「死ぬ?、シンジ君が……」
「そうよ!」
レイの顔を見ないで叫んだ。
見れなかったのかもしれない。
『お願い、死んでちょうだい』
台所、テーブル、疲れ切った母、項垂れて両手で顔を被っていた。
邪魔なのは誰?、それは自分、自分が居たから母親をやめられなかった、過去の呪縛から逃げ出せなかった。
追い詰めたのは誰?、それも自分、自分が泣いて縋ったから、あの人は遠い所へ逝ってしまった。
逃げ出すために。
「もう嫌なのよ!、誰かが死ぬのも、死んじゃうのも!、どうして?、あたしはもう子供じゃない!、自分で考えて、自分で生きられる!、邪魔なら邪魔だって言えば良いじゃない!、あたし一人で生きてってやるわよ、なのに、なのに!」
泣き叫ぶ。
「どうしてあんた達は!、シンジを大事にしてやんないのよ!」
大上段から斬り付ける言葉、それでもレイは答えない、無言。
いつものように。
それがレイの、レイなりの。
逃げる術であったから。
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