翌日になってもアスカの機嫌は最悪だった。
 いや、むしろ機嫌の悪さは増していた。
 それも加速度的に上がるのではなく、ねっとりと、どろどろと、不快感を増すように。
 今朝は誰よりも早く起きて抜け出していた。
 洗顔もせず、髪もブラシを掛けただけで済ませてしまっていた。
 誰にも会いたくなかった、反吐が出るから。
 教室、昨日と一転して近寄り難い雰囲気を周囲に放っていた。
 無神経な集団と隔絶したくて、自分一人の世界に閉じ篭っていた。
「なんやぁ、今日も休みかいな?」
 それでも無視を出来ない相手はいるものだ、彼などはシンジを大切に思ってくれている人だから。
「分かってるなら、聞かないで」
 苛立ち交じりに言ってしまう、一人にしておいて欲しいのに、と。
「家出て……、ほんまなんか?」
「まあね……」
「かぁあああああ、ほんまに、何があったんや?」
「いいじゃない、そんなこと……」
「そやけどなぁ……」
 トウジはちらりとレイを見やった。
「……シンジ焚き付けたんわしらやし」
「そうね……」
 頬を染める、恥じらう、そんなわずかな仕草であっても、微笑みを覚えていたはずの綾波レイが……
(なんやあれは?)
 まるで人形のようだった、前以上の人形的な姿に戻ってしまっていた。
 相棒のケンスケを見ると、こちらもカメラを下ろして溜め息を吐いていた。
「酷いな、あれは」
「そやなぁ」
「……前はさ?、無関心って顔してたのに」
 今は無理に関係を絶とうとしている、閉じ篭っている。
「なんでや?」
「シンジだろ?」
 見つめ合うこと数秒の後に、二人はそろって溜め息を吐いた。


互いの心を覗かずに


 トウジとケンスケがアスカに話しかけるのは当然だった。
 自分達でアスカに助けを求めたのだから、その結果も知りたかったのだろう。
 だからしてアスカの変調の原因は分かっていたし、変容についても納得出来ていたし、その態度を受け入れも出来ていた。
 しかしそれが出来ない人間も居た。
(アスカ……)
 ヒカリである。
 アスカの友人と言うにはもっと近く、むしろ親友と言っても良い。
 先日、アスカが中傷された時、女子でただ一人アスカに付いた人物と言っても過言ではない。
 それだからアスカを心配するのは当然だった、当然なのだが。
(アスカ、どうしちゃったの……)
 昨日、今日、いや、この頃ずっとだ、アスカの機嫌の変化に着いていけないでいた。
 理由を知らないのだから当然だろうが。
 もし他の皆のように、ただの友達であったなら、ヒカリも頓着せずに聞き出す事が出来ただろう。
 しかし親友故に、傷つける事が恐くて、この間の泣いた姿が痛ましくて、ヒカリには触れる事が出来ないでいた。
(綾波さん……)
 泣かしてしまう事が恐くて、そんな理由から、ヒカリは彼女に目を付けた。
「……綾波、さん」
「なに?」
「碇君……、来てないの」
 剣呑な声に気圧されつつも訊ねるヒカリだ。
「あの……、風邪?」
 瞼を閉じて、顔を逸らすレイ。
「……知らない」
「え?」
「知らない、昨日から、居ないもの」
「居ないって……」
 ガタン……
 苛立ちを表すかの様に、乱雑な音を立てて席を立つ。
「……どいてくれる?」
 レイは言うと同時に押しのけた。
「あ、綾波さん……」
 ヒカリは呆然と押された胸元に手を当てた、多少の痛みが疼きに変わって、ずきずきとした。


 レイが教室を出て、すぐに授業は始まった。
 静かな屋上に、一人立つレイ。
 その姿はかなり目立つ。
 レイは風になびく髪に手櫛を入れて、ふと思った。
(こうして、待っていた)
 誰を?
(彼を)
 何故?
(分からない)
 情けない事に、本当に分からなかった。
(違う、あの時は、わたしは何も知らなかったから……)
 まさか自分のようなものが、人から好かれる事があるなどと。
(でも)
 きゅっと唇を噛む。
(シンジ君、アスカさん……、きっと本当のことを知ったら許してくれない、許してくれるはずが無い)
 レイは俯くと笑った、口元に笑みを浮かべた。
 しかしいくら取り繕って隠そうとしても、頬を流れる涙だけは隠し切る事が出来なかった。


 一定のリズムを保って、静寂の中に奇妙な音が響いていた。
 −ピ……、ピ……、ピ……−
 真っ白な壁、はめ殺しの窓、その向こうの無菌室に人が一人寝かされていた。
 病院だ。
 しかし普通の病院にしては余りにも厳重過ぎる病室だった、窓も、壁も異様に厚く、そして固い。
 入り口も普通のドアでは無かった、気圧式の気密ロックが採用されている、その先に滅菌室があり、それからようやく部屋の中には入り込めるようになっていた。
 もっとも、シンジに許されるのは、窓の外から眺める事だけだったのだが。
「母さん……」
 人が寝かされているのはベッドでは無かった、棺桶のような箱だった、生命維持装置が組み込まれた保管箱だった。
 治療ベッドではない、治療は既に放棄されていた。
 四角い小さな小窓から顔が覗けるようになっていた、しかしそこから見えるものは、溶けて、とろけた顔だけだった。
 ケロイド状になり、焦げてもいる。
 シンジがそれを確認できたのは、覗いている窓の傍にあったモニターに、医療ボックスの中の患者の顔が映し出しされていたからだった。
 髪も抜けて肉は削げて、頭骨が見えているようだった。
 体中、おそらくは全身がそのような状態なのだろう。
「母さん……」
「そう、彼女が碇ユイ……、君のお母さんだよ」
 崩れ落ちかけるシンジに残酷な宣告を行ったのは彼だった。
 渚カヲル。
 シンジを連れ込んだのも彼だった。
「カヲル君……、母さんは」
「死んでいるよ、医学的には生きているけどね」
 説明していく。
「ほら、あの中は液体によって満たされているだろう?、何だと思う?」
「何って……」
「全身が重度の火傷によって皮膚呼吸できなくなっている、それだけじゃない、内臓なんて何一つ正常に機能してない、あれはね、腐蝕を抑え、細胞に直接酸素と栄養を与えるための溶液なのさ」
 がくがくと膝が震え始める。
「死んで……、るんだね」
「そう、死んでいるよ、脳も、心臓も、……心もね」
「どうして、こんな……」
「言ったろう?、僕達を助けるためさ」
「助け……、病気?」
「そう」
 目を閉じて、笑みを消す。
 それはまるで黙祷だった。
「碇ユイは……、科学者であり医学者でもあったんだ、そして自分の持つ特殊な抗体がどれほど有益なものなのかを知っていた、僕はこの人からよく夢を聞かされたよ」
「うっ、げ……」
 シンジはしゃがみ込んでしまっていた、しゃがみ込み、手で口元を押さたのだが、結局それでも堪え切れずに吐いてしまった。
 指の隙間から戻された物がべちゃべちゃとこぼれる。
「最初は偶然だったのさ、それでも自分の持つ可能性が僕達を救う事になるのならと、自らを提供して新薬の開発に取り組んでくれたんだ、いつかその薬が僕達を救う事になる、自分の抗体が適合する人間は僕とレイ、たった二人だけだけど、沢山の人を救う事になるってね」
 聞いているのか、シンジは咳をくり返している。
 えずいてもいた。
「僕とレイは、あの人をお母さんと呼んでいたよ、週に二度やって来て、血を分け与えてくれる、あの人をね……、でもそれは突然だった」
 事故。
「何の事故だったのかは僕は知らない、教えてももらえなかった、でも分かった事もあった、本当は、君のお母さんはそのまま息を引き取るはずだったのさ」
 げほっと大きく咳をして気道を確保する。
「でも……」
「そう、僕達のことがあった、彼女の持つ抗体のこともあった、碇ゲンドウ、あの人はユイ母さんがどれ程僕達のことを愛していたかを知っていた」
「愛して……」
「そうさ、でも僕は羨ましかったよ、そんな人に愛されて育った、碇シンジと言う子がね」
 シンジは最初に見た時のカヲルの目を思い出した、あの笑みを。
「僕は……」
「最初はいい気味だと思っていた、僕達だけの母さんになったんだからね、親もいない、身内もいない僕達にとっては同じなのさ、生きていても、死んでいても、ここにこうして居てくれる事が、僕達への愛の証しであるんだから」
「そんな……」
「歪んでる、でも愛してくれたのは、優しくしてくれたのはユイさんだけだったからね、でもレイと話してようやく分かったよ」
 優しく微笑む。
「僕達は幸せだった、母さんはこうしていつも傍に居てくれたから、いつも誰かが居てくれたから……、碇ゲンドウ、あの人も優しくしてくれたから」
 シンジは脅えた目をしていた、浮かべるべき感情を見付けられないで。
「カヲル君……」
「まがりなりにも僕達は愛情を与えてもらった、だからこそ君を嫉妬の目で見て、憎んだ、ところが、君は……」
 憐憫が浮かぶ。
「僕達のように求めることに必死だった、なのに人を羨んだり、憎んだり、嫉妬せずに与えること選ぼうとした、選ぼうとして、壊れてしまった」
 シンジは項垂れて床の上に手を突いた。
 吐いた物がぐにゃりと気持ち悪かった。
「僕は……、僕は」
「気にすることはないさ」
「でも僕は!」
 勢いのままに顔を上げる。
「綾波を傷つけた、傷つけたんだ!」
「でも裏切られたと知ってまで彼女に当たろうとしなかった、何故だい?」
「だって、それは……」
「自分が何を求めても、誰もそれを与えてくれないから?、だったらレイだけでもと思った、違うのかい?」
「違う、違うんだ、だって僕はいらない人間だから、僕が居なければ、僕が、僕が!」
 カヲルは嘔吐物で汚れたシンジの頬に手を這わせた。
「ほらまたそうやって、自分だけが傷つけば良いと思ってる、それで皆が幸せになれると信じている、……臆病なんだね、悲しいくらいに」
 ハンカチを取り出し、拭ってやる。
「笑った顔で護魔化して、曖昧にして、それは自分を追い詰めるだけなのに、それでも他人の幸せを、幸福を願う、その優しさは、好意に値するよ」
「好意?」
「好きって事さ」
 さあ、とカヲルは手を貸した。







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