爽やかな風が吹くのだが、服にこびりついてしまった匂いが、とても不快で気持ち悪かった。
「落ち着いたかい?」
「うん……」
 二人は病院の屋上に移っていた。
 白いシーツが何枚も干されている、洗剤の匂いがどこか心を落ち着けた。
「レイはね……」
 カヲルは公園で見せた、あの手紙をもう一度取り出した。
「こうして、病院に報告していたのさ」
「報告?」
「そう、だって好意で治療を続けてもらっていたわけじゃないからね」
 柵に腕を置いて髪をなびかせる。
 まるでポーズが違うのに、シンジはそこにレイに通じる物を見た。
「全ては新薬の開発のためさ、僕達は実験台なんだよ、……ユイ母さんも含めてね?」
「そんな……」
「でもそれが約束だった……、引き換えだったんだよ、全ては、そう、全てはラングレー会長とのね」
「ラ!?」
「惣流・アスカ・ラングレー」
 皮肉を交えてその名を呟く。
「彼女は、そう、会長の娘さんだそうだね」
「うん……、そうだけど、そうだけど!」
「碇さんは僕達を、正しくはユイさんの愛した僕達を救おうとした、でもそのためにはユイさんの遺体が必要だった、遺体を腐蝕させず、保存させ続ける方法がね?、でも冷凍保存は出来ない、だって必要なのは抗体だ、抗体を培養するためにユイさんの体が必要だった」
「それが、あの機械……」
「そう、腐蝕と崩壊を押し止め、細胞のみを培養する、あの液体はもはや生命のスープさ、ユイさんと言うね?、苗床なんだよ、でも使用された液体は当時開発されたばかりのもので、とても表に出せる物では無かったし、機械だって、維持費も含めて莫大な金額が必要だった」
「だから……、アスカのお父さんと」
「新薬開発の為の提供と引き換えに奥さんを売ったのさ」
 身も蓋もない言い方だった。
「それは悪魔に魂を売るに等しい行為だった、それでも救いたい人物が居た、それが僕達だった、だからレイも、僕も、碇さんをとても慕っているし、信じてもいるんだよ」
 シンジは目を閉じて、何かを思い出そうとした。
 結局思い出したのは、カルテを見付けた時のレイの慌てぶりと、父の冷たい顔だけだったが。
「父さん……」
 今なら分かる、その顔は、態度は、レイと同じものだったのだ。
 言うべき言葉を見付けられず、何も言うわけにはいかず、だから黙するしか無い歯痒い姿。
(僕は、それに気が付いたはずだったのに)
「そう話せるわけがないさ、余所の子共のために妻を売ったなんてね、それも同じ家に居る子の父親に売ったなんてこと、どうやって話せばいいんだろうね?、この手紙には、そのことが切々と書いてあったよ、とても優しい、良い人だと思ったのに、彼の家に上がり込んだ途端、とても息苦しい事になってしまったとね」
 シンジは慟哭し、天を仰いだ。
「やっぱり……、僕が」
「そう、僕も最初はそう思った」
 カヲルはシンジの考えを否定した。
「だからこそ君を嫌った、でもレイと話している内にそれは誤解だと知った、手紙はこの病院の担当の人間が目を通すからね、余り詳しくは書けなかったのさ」
 いかに不自由な立場であるのか思い知らされる。
「綾波は……」
「母親だけでなく、父親まで自分が奪ってしまっていた事を知った、半分は仕事だったとしても、君と僕達では圧倒的に僕達の方が一緒に居る時間は長かったんだからね……、レイは、それを知られたくなかったんだろうね、君に嫌われる事が恐かった、でも」
 見つめる。
「……君は知ってしまった」
「うん……」
「それでも語れなかった、君のお母さんがあんな状態である事を彼女には語れなかった、僕と違って彼女は恐がりだからね、ただ嫌われるだけならいい……、でも、それを知った君が自分をどんな風に見るのか、どんな目で見られるか、恐かったんだろうね」
「そんな……」
「色々な事があり過ぎた、みんな色々な人のことを考え過ぎた、そしてそれぞれの想いがあり過ぎた……、だから不和を抱いて、距離を取り合うしか無かった、それはとてもとても悲しい事なのに」
 シンジは呻くように答えた。
「そうかもしれない、けど」
 項垂れる。
「僕は綾波に、どう謝ればいいんだろう……」


「綾波……」
 その声にびくりと脅え、レイは素早く目元を拭った。
「誰……」
「わしや」
 柵に左手を置いたまま振り返る。
「鈴原……、君」
「おお」
 歯切れが悪いのはレイの瞼の腫れに気が付いたからだった。
 だがトウジはそれを感じさせないように、気が付かない振りをした。
「先生が探しとったで?、どこ行ったんや言うてな」
 ちっと舌打ちする、自分の下手な演技に嫌気が差したのかもしれない。
「そないに嫌なんか?」
「……なにが?」
「友達になるんが」
 トウジの言葉に脅えてしまう。
「……なに?」
「なにて……」
 一言一言の間に、必ず重い沈黙が挟まれる。
「友達……」
 レイは考え込むように目を閉じた。
「……碇君が、好き」
 聞こえるかどうかの呟きだった。
「アスカさんも……、でも」
 その二人は。
「わたしは、いらない」
「んなことあらへんやろ!」
 激昂するトウジ。
「シンジがいらん言うたんか!」
 首を振る。
「ほならなんで信じたらへんのや!」
 まだ首を振る。
「……壊れた、もの」
 現実に。
 関係が。
「そやかて……」
「もう、いい」
 トウジは唇を噛み、拳を握った。
『アホが!』
 レイのあまりに細く、小さな肩が震えている。
 俯いた顔の奥で、無表情なままに泣いている、心で。
 それを見るだけで、何も出来ない自分。
 何もしてやれない自分が居る
 歯痒過ぎた。
「お前らの間に何があったんかは知らん……、知らんけどなぁ」
 ひねり出すように言う。
「そやけど、そないに辛そうにして……」
「してないわ」
「しとるやないか!、なに泣くん我慢しとんのや!」
「泣、く?」
 ピクリと反応する。
「シンジか惣流かは知らん!、なんや言われたんやったら言うてみぃ!、わしがパチキかましたるわ!」
 気づかってくれているのはわかる。
 だがそれはレイの理解力を越えていた。
「どうして……」
「最近……、よう笑ろとったやないか……」
 レイよりも辛そうに吐き出す。
「シンジに告白させた時になぁ、わし、ほんまは断る思とったんや」
 まるで人形のようだったから。
「この頃な、ずっと思とったんや、なんでわし、こないに笑う奴が断る思とったんやろって……」
 それは偏見を持っていたからだ。
 人形であると。
「そやから応援しとったんや!、シンジ……、ちゃう!、綾波が笑えるんやったら、わしも手伝ったろ思てな!」
「そ……」
「そや!、そやから……」
「ごめんなさい……」
「綾波……」
「わたしはもう、沢山のものを得たから……」
「何を言うとんのや、綾波……」
「わたしは、そう……、沢山のものを得たの、家も、家族も……」
 その代わり。
「失ってしまっただけ」
 一番、大切に思えた物を。
 一番大切な、中心にあったはずのものを。
「綾波ぃ……」
 だが何も知らないトウジには、その事はさっぱり分からなかった。


 ガン!
 苛立ち紛れに机を蹴る。
(なんであかんのや!)
 夕日が真っ赤に染める教室で、トウジは一人ふてくされていた。
(わしかてなぁ!)
 ケンスケの影響かもしれない。
 ただなんとなく眺めていた。
 笑うようになったレイを。
 以前より遥かに。
 良いと思って。
(なんやっちゅうねん!)
 それがどうしてあれ程変わってしまうのか?
 辛そうに陰ってしまったのか?
(わしら友達とちごたんかい!)
 レイだけではなく、シンジにもむかつく。
(なんでなんも言わんかったんや!)
 何も言わないで、一人で消えてしまったのか?
 憤りを表すように、どかっと机の上に脚を乗せて、ふんぞり返るように椅子にもたれた。
「鈴原……」
 そんな様子を、じっと見ていた少女が居た。
 ヒカリだ。
(アスカ……、碇君も)
 ヒカリはきゅっと唇を引き結んだ。
(なにがあったの?)
 ヒカリもトウジと同じことで悩んでいた、トウジが自分と同じ悩みを抱えていると感じた。
(そうよね、鈴原だって、碇君のことが心配で)
 そう思ったから、思い切ってヒカリはトウジに話しかけた。
「鈴原」
「……委員長」
 おずおずと側に寄るヒカリだ。
「……惣流か?」
「うん、いつの間にか、帰っちゃって」
 自然とヒカリの視線はレイの机へと向かっていた。
「綾波さんは……」
「あの通りや、なんやもうむっ茶腹立つわ!」
「鈴原?」
「綾波もな?、シンジと付き合う様になった変わったんや」
「うん……」
「よう笑うようになったし、可愛なったわ」
(え?)
 ドキッとする。
 トウジがそんな風に女子を見る人間だとは思っていなかったからだ。
「ほんまの少しやけどな?、わしらとも話すようにもなったし……、それがなんや?、なんやあってもわしら関係あらへんのか?、なんも言わんと、なに聞いたかてなんも答えへん、わしらそんなんか?、友達ちごたんか!」
「鈴原……」
 レイのことを思っていっているのだと思うと胸が痛くなる。
「鈴原……、優しいね?」
「そんなんとちゃうわ……、アホぉ」
 ヒカリは胸を病んだ。
(アスカのことよりも、鈴原に妬いてるあたしって、酷いよね……)
 別にトウジが好きなわけではない。
 だがこんな風に心配してくれる人が居る、そのこと自体が羨ましくて……
 口を閉ざした二人の心を表すように。
 夕日は静かに沈んでいった。







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