碇邸宅、その一番奥の部屋は、いつか来る誰かのためにずっと空けられていた部屋だった。
 本棚に並べられた本、埋まり始めた衣装箪笥。
 だがベッドのシーツは剥がされて、その上にきちんと畳まれていた。
 月の青い光に、とても寒々しい姿を晒している。
 誰かが住んで居た。
 そう過去形が相応しかった。
 人の香りは残っているのに、気配は拭い去られてしまっていた。
「うん、うん、ごめんなさい、じゃあ……」
 外からアスカの声がした。
 廊下にしゃがみ込んで、アスカは腿を台にするようにして生徒名簿を立てていた。
 受話器のボタンを一つ押し、接続を切って次の相手の番号を押す。
 くり返される呼び出し音。
(お願いだから)
 次の家に居てと願う。
「綾波、何処行っちゃったのよ……」
 アスカは居なくなってしまったレイを探して、クラスメートの家に電話していた。


優しさは月の光


「なんや、今日はえらい静かやないか」
 トウジの言葉に答えたのはケンスケだった。
「綾波だよ、お前んとこ、電話無かったのか?」
「惣流やったら掛けて来おったけど」
 トウジはざっと見渡して、皆がちらちらと様子を窺っている人物を見やった。
「おるやないか」
「だからだろ、どうなってんだか」
 クラス中の視線を追えばそれは一点に集まっていた。
 窓際の席だ。
 青い髪、白い肌。
 綾波レイ。
 アスカの必死さからかなりの事態だと皆察していたのだろう。
 しかしこうして、ここに居る。
「どないなっとんねん?」
「さあ?、でもさ」
 言い澱む。
「今朝……、違う方向から来たんだよな」
「違うって、どっから」
「前に住んでたとこじゃないかな?、そっちの方から来たんだよ、シンジの家の方じゃなくてな」
「ほな昨日、結局帰っとらへんのか」
「そうなるよな」
 トウジは苛立ち紛れに荒々しく机を蹴った。
「何やっとんじゃ!、あいつら」
「探してんじゃないの?、まだ」
「シンジは?」
「帰って来たらしいよ」
「んで代わりに綾波が家出っちゅう訳か?」
「事情までは知らないよ、だけどさ、いま委員長が電話しに行ってる、惣流に知らせるんだって」
 トウジはちっと舌打ちをした。
 恐らくは当事者でありながら、全く関われない事にであった。


「はぁはぁはぁ!」
 バタバタと廊下を走って駆け込んで来た二人に、別クラスの人間までもが驚き、目を丸くし、次いで興味ありげに様子を窺った。
 開きっぱなしの入り口に姿を見せるシンジとアスカだ、人の目を集めてしまった理由の大半は、アスカとシンジの組み合わせだからではなく、その恰好に集中していた。
 私服なために、酷く浮いてしまっているのだ。
 シンジは……、好奇の視線に曝されながらも、それでも後ずさりはしなかった。
 いつものような逃げ腰にもならずに、彼女の……、レイの席へと目をやった。
 視界が狭まる、特徴のある髪の色、その後ろ頭を髪の房、いや、跳ねている毛の一本が見えるほどに注視した。
 レイは窓際の席にぽつんと座っていた、アスカの電話が原因なのか、皆避ける様にして遠ざかり、様子を窺っていた。
 レイもまたレイで、気付いているだろうに、窓を見たままこちらを見ようともしないのだ。
「シンジ」
「分かってる」
 シンジは唇を噛み締め、汗ばむ手を握り込んだ。
 ポケットの中にはくしゃくしゃになった紙が入っている、それはレイの置き手紙だった。
『さよなら』
 たったそれだけ。
 何処に行ったのか分からなかった、一晩中探した、ヒカリからの電話で、ようやくレイが学校に居ると分かったのだ。
「行って来る」
 行こう、じゃなく、行って来ると言った。
 だからアスカはその場に残った。
 一人歩み寄ろうとするシンジに、周囲から怪訝そうな、それでいて好奇の目が向けられる。
 挫けそうになる、それでもシンジはレイの席まで真っ直ぐに進んだ。
「綾波」
 ピクリと、本当にかすかな反応があった。
「父さんが、心配してる」
 ゆっくりと振り向く顔に拒絶を見て取る。
(僕じゃ駄目なのか、もう)
 その考えが頭をもたげる。
「ごめん……」
 それでも逃げるわけにはいかないのだ。
「僕はもう……、綾波の望むような物は持って無いし、上げる事も出来ない、けど」
 がたんと立ち上がり、レイは押しのけるようにして逃げた。
「綾波!」
 追いすがろうとする、そんなシンジの肩を掴んだのは。
「ええから、面貸せや」
 トウジであった。


 −バキ!−
 カヲルとレイが逢い引きをしていた校舎裏のあの場所に、とても痛そうな、それでいて首をすくめてしまう音が鳴り響いた。
 実際、ケンスケは目を閉じてしまっていた。
 転がされたのはシンジ、殴ったのはトウジであった。
「悪いなぁ、シンジぃ、そやけどわしはお前を殴らなあかん、あかんのじゃ!」
 こうなった原因はレイとのやり取りの中にあった。
 シンジには分からなくても、トウジの中には十分な理由があった。
 シンジは余りの痛みに丸くなって呻いた。
「うっ、く……」
「わかっとるやろなぁ?」
 胸倉を掴んで引き上げる。
「お前らの間に何があったか知らん、そやけどなぁ!、泣かすぐらいやったら近寄んな!、なんも出来んのやったら放っとけ!」
 トウジは突き飛ばすようにしてシンジを転がし、去ろうとした。
「それでも」
 その耳に声が届く。
「僕は、綾波に謝らなくちゃいけないんだ」
 カッとなったトウジは振り返るなり、シンジの腹を蹴飛ばした。
「シンジ……」
 今度はケンスケだった。
「綾波に悪いことしたってんなら謝るのもいいけどさ」
 蔑む言葉。
「それで惣流と付き合うってんなら、俺、お前を軽蔑するからな」
 そして去っていく二人。
 仰向けになるとシンジは、腕で顔を覆って笑った。
 壊れたように笑った。
 込み上げて来る物を抑え切る事が出来なかった。
「そんなの!、分かってるさ」
 自分が最低だと言う事も。
 謝罪も結局は取り繕いでしかないと言う事も。
 それでもだ。
「僕は、僕は……」
「シンジ……」
 シンジは彼女の声に、溢れ出していた涙をそのまま拭い去った。
「シンジ、怪我……」
 軽く反動を付けて起き上がる。
「大丈夫だよ、こんなの……」
「でも」
「アスカ」
 シンジは悲しく、寂しげにかぶりを振った。
「お願いがあるんだ」
「なに?」
「綾波に、ごめんって、伝えてくれるかな」
「シンジ!」
「トウジの言う通りだ、何も出来ないなら何もしない方が良いのかもしれない、レイだけじゃない、アスカの時もそうだった、何も出来ないくせに、何かをしてあげなくちゃって思って、結局傷つけてる……」
『そんなことない!』
 そう叫ばせまいとシンジは続ける。
「父さんは……、父さんは、綾波に優しくして上げれば良いって言ったけど、僕はどうすればいいのか分からない、今だって、綾波が心配で、探してただけで、本気で謝ろうなんて……」
 その落ち込みようは余りに凄まじかった。
 切れたのかもしれない。
 何かが。
「僕が居なかったら、アスカはきっと綾波と仲良くしてたと思う、しようがないとか、仕方が無いって感じでも、きっと仲良くしてたと思うんだ……、今僕に出来る一番のことって」
「駄目!」
「……居なくなるなんて、言わない、けど綾波の前に出ない事かもしれない、目に入らないようにする事しか出来ないんだと思う、だから、ごめん」
 背中を震わせる。
「お願い……」
 一歩、踏み出す。
 シンジはそのままとぼとぼと去っていく、アスカは……
「っ!」
 我慢して、堪えて。
 シンジの伝言を伝えること、その使命を自分に課した。
 きっと今のシンジの想いだけは、伝えなくてはならないものの、はずだから。


 綾波レイは……、屋上に居た。
 屋上で一人黄昏ていた、無意識の内にだろうか?
 シンジに呼び出された時に、あの告白を聞いた場所を選んで立ってしまっていた。
『これで良いのね?』
 内なる声が聞こえくる。
 レイはその声に空を仰いだ。
(だってわたしが居ると、邪魔になるもの)
 人の関係に亀裂が入ってしまうから。
(だから、これで……)
『本当に良いのね?』
 ぎゅっと唇を噛む、桜色の唇が、鬱血してどす黒く変わるほどに噛み締めた。
(いっそ嫌われてしまいたい、そうすれば)
 どうなのだろうか?
 それが出来ない自分はどうなのだろうか?、こうして追って来てくれることを期待している自分は一体なんなのだろうか?
(寂しい?)
 そうかもしれない。
(でもだめ、駄目だって、決めたもの)
 シンジが現われてくれないから。
 レイはそうして時間を必死に潰そうとしていた。
 潰そうと……
 その目に、一人の人物が写り込む。
「シンジく……」
 項垂れて学校を出て行く。
(どうして……)
 そんなものは決まっている。
 自分が拒絶したからだ。
(なら、これできっと……)
 両手を柵に置いて項垂れる。
 そのまま慟哭から嗚咽を吐く。
 そんなレイに憤って、憤慨した声を彼女は掛けた。
「なに泣いてんのよ」
 アスカだった。
 口を引き結んで、じっとレイを見つめて。
 アスカは言った。
「シンジが、伝えてくれって言ったのよ」
 その名に顔を背けるレイだが。
「あんたに……、あんたが嫌がるみたいだから、もう、あんたに顔は見せないって」
 驚きから目を丸くする。
「なに?」
「ごめんなさいって、伝えてくれって頼まれたのよ」
「何故?」
「何故って……、あたしも、シンジも、あんたに酷い事をしたからよ」
 今度はアスカが顔を背ける番だった。
「憎まれて当然だから、もう何も言わないわ、あたしも……、シンジの言葉を伝えに来ただけだから」
「憎んでなんて……」
「嘘よ、そんなの……」
 これまでのような激情ではなく、淡々とした物言いがアスカの辛さを見せつけていた。
「じゃあどうして、シンジを無視したの?、しつこいからでしょ?、迷惑だからでしょ?、……いらないからでしょ?」
「違う……」
「いいのよ、もう、嘘吐かなくても」
「違う」
「シンジね、殴られたの、鈴原に、相田にも」
「え……」
「あんたを泣かせたからって、泣かせるくらいなら、何も出来ないなら謝るなって、もう近寄るなって……、知らなかった、あんたのこと思ってくれる奴って、シンジだけじゃなかったんだ」
「アスカさん……」
「だからもう良いの、シンジのことは考えなくて良いの、シンジも……、あたしも、もうあんたを傷つけないって決めたから、……他に方法なんて思い付かないから」
 かぶりを振る。
「シンジね、こうも言ったの、僕が居なかったら、きっとあたしとあんたって、友達になれたのにねって、あたしもそう思ったわ」
「アスカさん」
 アスカは微笑みを返した。
「ごめんね?、あたし、あんたのこと何も知らなかったから……、どれだけ辛かったかなんて考えもしないで、……言い訳よね、こんなの」
 レイは怪訝そうにした。
「何の、話し?」
「あんたの……、あんたの病気のこと、とか」
 すっと……
 レイの表情が変化した。
 目は鋭く細くなり、先程までの表情も消えた。
 それは正に、激変だった。
「それ、誰に聞いたの?」
「シンジよ」
「どうして……」
「僕が教えたからだよ」
 第三者の声に二人は同時に振り仰いだ。
「やあ」
 昇降口入り口の真上の端に、渚カヲル、彼が片膝を立てて座っていた。







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