結果から言えばトウジのやっかみは必要であった。
 彼が引き止めなければシンジへの想いが思い詰めるほどに膨らむことは無かったのだから。
 感情は抑圧され、引き絞られるほどに爆発力を増して溢れ出す、それは暴発に似通っているのだが、指向性を持たされている、別物だ。
 レイは授業中で、誰も居ない廊下を駆け走った。
 それこそ必死の形相で、だ。
 これまで彼女は人目を気にしようとしなかった。
 それは気になっていない振りをしていた、演技であった、複雑で、辛過ぎる過去を背負っている故に、嘲笑と排斥を恐れての逃避を計っていただけなのだが、今は違う。
 人の目など気にもならなかった、今大事なのはシンジの事だけだった。
 真の意味で、人目など全く気にしなかった。
 廊下を曲がる度に、階段を降りる度に、その先に彼の姿があるような気がした。
 それだけが意識の全てを支配していた。
 現実から言えば彼はもうこの学校を去ってしまっている、自分はもうそれを知っている、知っているはずなのに……
 レイは、校門に立つと左右を見比べた、精神的には必要だったトウジとの折衝も、レイにとっては邪魔以外の何物としても捉える事が出来なかった。
 苛立ちが募って叫びとなる。
(シンジ君!)
 心で呼び掛ける、しかし当然のごとく、……あれだけ時間を無駄にしたのだ。
 姿が見えるはずも無い。
「シンジ君」
(どこ?)
 必死に呼ぶのだが彼からの返事はなかった。
 だが内側から噴き出した物があった、それは記憶だった。
 好きと告白された時の。
 初めて待ち合わせした時の。
 そしてデートした公園の風景。
 ベッドの上で所在無げにしていたこと。
 手を繋いでくれた時の微笑み。
 一番嬉しかった言葉。
 止めど無く、際限無く。
 楽しかった、嬉しかった事ばかりがくり返される。
(どこ!?)
 レイは彼が一体何処へ向かったのか探り当てようとして愕然とした。
(わたし、は……)
 そう、シンジの事など何も分かっていなかった。
 何も知らなかった。
 彼の趣味も、遊び場も、想い出の場所も。
 こんな時、何処に行くのか分からなかった。
(わたしは……、わたしは)
 知ろうともしなかった自分に気が付く。
 求めることばかりで……
 与えようとした……、喜んでもらおうとした事もまた。
(愛してもらいたかったから)
 立ち竦む、だがそれでも足を前に出す。
(だめ……、ダメ!)
 このままでは、また同じになるから。
『自分が都合悪くならないなら、それで良い』
 今考えるべきは自分のことなどではなく。
(シンジ君の事だから)
 とにかくレイはと目的地を定めた。
 それは単純に、シンジの、碇と言う表札の家であった。


 グルグルと世界が回っていた。
 鮮やかな色が混ざり合い、吐き気を催すサイケデリックな色彩を、渦潮のように演出していた。
 足元が定まらない、踏んでいる地面の感触すらも分からなくなっていた。
 まるで波に揉まれているかのようだった。
 シンジは……、何かを考えようとして必死になっていた。
 しかしその課題さえ纏まらないままでいた。
(どうすればいいんだよ)
 レイのためには……、ここを去るしかないと思える、しかしだ、しかし現実としては、そうもいかないのが自分の立場だ。
(子供なんだな)
 どこまでも。
 ポケットの中には財布がある、そこには父親が作ってくれた家族用のカードがある。
 これを使えばそれなりに食べていけるだろう。
(家は……、借りられないよな、保証人なんて居ないし、バイトってどうなんだろう?、履歴書とかいるんだろうな)
 連絡先や身元を調べられてはどうしようもない、それに第一、自分が高校生に見えるとは思えない。
 ではホームレス同様に野宿でもするか?、そうなると補導が恐い。
 捕まる事がではなく、そのために誰が迷惑を被る事になるのかと言えば、それは親となるからだ。
(父さんは……、きっと分かってくれるくれると思う)
 そうだろうか?
(甘えてるんじゃない、それがレイのためになるならそうしたんだってこと、きっと理解してくれると思う)
 けれど。
(レイは……、きっと、きっと)
 わずらわしげに……
(そうじゃないだろ!)
 まだ護魔化しをくれようとする自分を叱咤する。
(本当はレイが悲しんでくれれば良いなって思ってる、寂しくなって探してくれれば良いなって、そんなことあるはず無いのに!)
 そしてアスカをどうすれば良いのか。
(アスカは僕のことを考えてくれてる)
 もう疑わない、疑ったりしないと心に命じる。
(何度も言ってたじゃないか!、一人にするなって、置いてくなって!、じゃあ僕は何処に居ればいいだろう?、何処に居れば……)
 自分の立ち位置が分からない。
(みんなに心配をかけちゃいけないんだ、迷惑を掛けてもいけないんだ、もう大丈夫なんだなって、気にしなくなって、誰も……、誰も)
 見なくなり、見なくなる。
 そんな記憶の片隅に置かれてしまう様な存在に。
(なるためには、どうしたらいいんだよ、僕は)
 だがそれが出来なかったのではなかっただろうか?
 必死になっても。
「どうしよう……」
 そんなシンジの前に現われたのは。
「碇、シンジ君だね?」
 金髪で、やたらと背の高い、ダークスーツの男性だった。


 気が付けばとぼとぼと帰り道を歩いていただけだった。
 隣に停まっていたのは黒塗りの車だった、一目で高級車だと分かるフォルムと光沢をしていた。
 そこから降りて来たらしい男性は父と同年代に見えた、いや、それ以上に自分はその男を知っている事に気が付いた。
「アスカの……」
「覚えていてくれたか」
 ほっとした様子を見せる。
「会ったのは随分と前の事だったからね、知らない人だと警戒されたらどうしようかと思ったよ」
 だがそんな考えは杞憂にすぎない、シンジにとっては忘れられるはずが無い人であったのだから。
 いつも……、いつも羨ましく思って見ていたのだから。
 父と母に連れられて帰る女の子を、その家族の形を。
「でも……、どうして」
「ああ、実は……、君に頼みたい事があってね」
「僕に?」
「アスカと一緒に、アメリカに来てくれないかな?、わたしの家に」
 シンジは驚きに目を丸くした。
「ど、して……」
「わたしはね」
 ふうと溜め息を吐いて気持ちを吐露する。
「キョウコには……、あの子が、アスカが必要だと思ったんだよ」
「アスカが?」
「そうさ、キョウコは人に認められなければ生きていけない女だった、その中でも最も認めていたわたしと結婚したわけだが、家庭に入れば自分を見てくれる者など居なくなる、自分の頑張りを、働きをね」
 シンジはその考えに驚きを覚えた、自分も家事をこなして来たからだが、認めて貰うためでは無かったはずだった。
「だったらしなければ良い?、家政婦を雇っても良かったよ、だがそうなればアスカはどうなる?」
「アスカは……」
「あの子は人一倍寂しがり屋だったからね、家族が居ると思った」
『一人にしないで!』
 アスカの悲鳴が聞こえた気がした。
「でも、おじさんは……」
「キョウコがあそこまで思い詰めるとは思わなかった、それでアスカには恨まれてしまった、……今更遅いかもしれないが、君と一緒ならアスカも」
 葛藤が渦巻く。
(どうしよう)
 普段の自分であれば、そんな事は無いと言い切れたかもしれない、いや、少し前までの自分であれば。
 だが今ではアスカの悲しみを知っている、苦しみを知っている、依存心にも気が付いている。
 そしてレイの事がある。
 また目の前の男の姿が自分の父にも重なってしまう。
 自分の思いを、願いをさらけ出し、上手く伝え合えない所などが。
 どうなのだろうか?
 レイを思えば立ち去るべきなのかもしれない、この男の元でなら、誰もが安心するだろう。
(そうだ、そうだよ)
 自分がほんのちょっとだけ我慢すればいいのだ。
 それだけの事だ。
 それだけの事なのだが……
(我慢?)
 シンジははたと感じた。
(我慢って、なんだよ?)
 そしてこの男は、どうして自分などに話すのだろうか?
 それは……
「シンジ君、どうだろうか?」
 はたと我に返る。
「あの……」
「今すぐにとは言わない、だが君が了承してくれれば話しはし易くなるからね」
(し易い?)
 それもまた引っ掛かった。
(違う……)
「違う、違う」
 歯を食いしばるようにして言葉を発する。
 まるで自分を叱るように。
「それは違う、……違います、違うと思います」
「違う?、何が……」
「だって、違うと、思うから……」
 シンジは混乱し、絡まる思考を整理しようとした。
 しなければいけないと感じた。
 父、ゲンドウが背中越しに語った言葉、アスカの、レイの、カヲルの。
 そして自分が感じた、体験したすれ違いを。
 そこから学んで来たものを。
 カヲルは言ったのだ。
『距離を取り合うしか無かった、それはとてもとても悲しい事なのに』、と。
 ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「アスカは……、アスカは言ってました、寂しいのは嫌だって、言ってました、だからここに居るって、でも」
 そう、求めていたのは父と母親だけれど。
「僕が居たら……、アスカは平気だって、そんなのおかしいですよ、じゃあおじさんは自分が傍に居なくても、僕が居れば何とかなるって言うんですか?、最初からアスカをまた一人にするつもりなんですか?」
 捨てられるんだと言う思いは。
 もう二度と嫌なのに。
「そんなの……、そんなの酷過ぎますよ!」
「しかしね」
 彼は口にする。
「わたしも仕事がある……、この忙しさは君には分からないだろうが」
「じゃあまたアスカを傷つけるって言うんですか!、傷つけるために連れ戻すって」
「だからこそ君に頼んで居るんじゃないか、アスカを守ってくれと……」
「たまに合うだけなら、ずっと一緒に居ないなら!」
 中途半端に触れ合うくらいなら。
「本当に大事なら!、守りたいなら!、助けたいなら!、何があっても傍に居るべきなんだ!」
 何よりも。
「おじさんの代わりなんて、お父さんの代わりなんて誰にも出来るはずないじゃないですか!」
「シンジ君……」
 シンジは肩で息をした後で、項垂れるようにして謝った。
「すみません……」
 自分で放った言葉が痛い。
「でも、僕もそうだったから……、寂しかったから」
「君も、か」
「だから僕はアスカが居てくれて嬉しかったんです、アスカも……、気が紛れるって言ってました」
「アスカが……」
「僕は、おじさん達の代わりでした、ただそれだけでした……、僕はまだ、子供で」
 泣き言を言う。
「アスカを守るとか、助けるとか、何も言えません、だって、何も出来ないから、どうすればいいのか分からないし、どうしたくても、力なんて、ないから」
 余りにも脆弱で、貧弱で、でも。
「おじさんには、それがあるのに」
 惰弱ではいけないのだ。
「僕は子供だから、おじさんの立場なんて分かりません、話したくないこととか、話せない事があるのかもしれません、でもそれじゃ僕は納得できないから……、きっとアスカも納得しないから、だから」
 頭を下げる。
「ごめんなさい」
「シンジ君……」
「友達が……、大事な人がこう言ってたって聞きました、幸せが何処にあるのかは分からないけど、でも自分で動かなくちゃ……、望まなくちゃ手に入れる事も、作り出す事も出来ないんじゃないかって」
「シンジ君……」
 これは目の前の男が発した言葉では無かった。
「レイ?」
 きょとんと振り返った所で、レイが両手で口を隠してぼろぼろと涙をこぼしていた。
 その特徴ある容姿に彼も目を丸くする。
「君は……、そうか、そう言う事か」
 次いで彼は微笑みを浮かべた。
「シンジ君」
「はい」
「これだけは言わせてくれ……、君は子供ではないよ、子供では」
「え……」
「立派な……、そう、もう立派な『男』だ」
 苦笑し、車に消えようとする。
「あの!」
「俺はね」
 機先を制す。
「恐かったんだな、恐かったんだと思うよ、アスカが……、最初はキョウコだった、どうして俺の気遣いを分かってくれないんだと思った、その内煩わしくなってね、喧嘩が堪えないようになって、もう駄目だと思った」
 それが離婚の原因になった。
「俺達が喧嘩している横ではいつもアスカが泣いていた……、耳障りだったよ、邪魔でしようが無かった……、でも一番嫌なのは自分だった、そんな事を平気で考えてしまう自分が、いつかアスカをどうにかしてしまいそうで恐かった、言ってはいけない事を口走ってしまいそうで……」
「おじさん」
「そう思うと、もう正直に話す事も出来なくなっていた」
 その結果。
「俺がもっとしっかりしていれば、俺が、俺が……、そう思ってこうして迎えに来るまでに十年が掛かったよ、アスカを思っていたつもりだった、アスカを守ってやるつもりだった、今度こそ……、そう決意して来たつもりだったのに」
 二人を見る……、シンジは泣きじゃくるレイを、頭を抱えるように支えていた。
「罪悪感に脅えて、思い詰めて来ただけだったんだな、俺は」
「そんな……」
「君に叱られてようやく分かったよ、俺は確かに、まだアスカを見守れる男じゃない」
 彼は車に乗り込むと、戸が閉じられるのを待って呟いた。
「アスカも大変だな」
 そして目を横向ける。
「こうなるのが分かっていたのか?」
「さあな」
 ゲンドウが座っていた。
「だが良いのか?、アスカ君の見合いの話しは」
「あんなものは言い訳に過ぎない、お前が一番良く分かっているだろう?」
 ブスッくれて頬杖を突く。
「シンジ君の言う通りさ、傍に来てくれれば贖罪が出来る、シンジ君が居てくれればきっと見合いには反発する、断る理由も出来る……、当てにし過ぎだ」
「そうだな」
「落ち着いたら……、アスカに謝りに行くさ、それまでは、頼む」
「ああ、その言葉を聞きたかった」
 十年前には、奪い取るようにしてしまったために、聞けなかった言葉だった。
「だがな」
 彼は付け足した。
「アスカはやらんからな」
 フッと笑う。
「シナリオ通りだ」
「嘘を吐け」
 車はそんな二人を乗せて、シンジ達の元から離れて行った。







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