その日の朝は、瞼越しの朝日によって、深い眠りから覚まされた。
(誰?)
薄ぼんやりとした光の中に人影を見つける。
『シンジ』
(母さん?)
まどろみの中にいくつもの記憶が蘇る。
『頑張って頑張って、シンジに出来る精一杯のことを……』
(そうだね……)
『頑張る事が大切なのよ?』
(そうだったんだね)
余りにシンプルで、それ故に複雑さの前には簡単にくじけてしまう言葉。
だけれど、だからこそ。
(母さん)
『もう良いの?』
(うん、もう……、良いんだ)
他に言いようがあったかもしれない、言えば良いはずのことがあったかもしれない。
だがそれ以上の言葉は不要だった、何より、もう口にする必要は無いはずだから。
(ありがとう、母さん……)
シンジは手をさ迷わせた。
夢の中の母はその手を、優しく掴み、握ってくれた。
握って……、くれたような気がした。
したのだが、しかし。
−むにゅ−
っと変な感触だった。
好きと言う、言葉と共に
「むにゅ?」
シンジは寝ぼけ眼を開いた。
ぼんやりとした視界にアスカの姿が写り込む。
「ようやくお目覚めね、馬鹿シンジ」
何故だか怒っているようだった。
こめかみが酷く引きつっている。
「なんだアスカか……、もう少し寝かせて」
「それが人の胸掴んどいて言う言葉かぁ!」
「わぁ!」
敷布団を引き抜かれ、転がされてしまった。
「いってぇ……、何するんだよ!」
「それはこっちの台詞でしょ!、まったく、レイにばっかりやらせて、見てみなさいよ!」
「レ、レイ!?」
何故だか部屋の入り口でさめざめと泣いていた。
エプロンの裾を噛んで。
「レイ、何泣いてるの!」
「だって、シンジ君……」
上目遣い。
「アスカの胸、触った」
「へ?」
「わたしのも……、触ったことないのに」
「だぁ!、そう言う事言ってんじゃないでしょ!」
「そ、そうだよっ、寝ぼけてただけで、事故!、そう、事故だよこんなの!、別に触りたくて触ったわけじゃ!」
「ってそれどういう意味よぉ!」
「なんだよぉ!、そのままの意味だろう!?」
「何を騒いでいる」
「あ、おじ様!」
ゲンドウは三人をそれぞれに見比べて、深く重く、溜め息を吐いた後で口にした。
「レイ」
「はい」
「文句があるなら二人きりの時にしなさい、アスカ君が居ては妥協されるだけだからな」
「なっ!?」
「はい、そうします」
「じゃなくて、おじさま!」
ニヤリと笑うゲンドウだ。
「それより味噌汁が煮えているぞ」
「あっ!」
慌ててバタバタと走っていく。
「レイ……、嘘泣き」
「余計な事を覚えたもんね」
アスカもシンジ同様に溜め息を吐いた。
あれから一ヶ月が過ぎ去った。
最初こそまだぎこちなく様子を窺っていた関係も、隠し事が無くなれば緊張する理由など見当たらない。
それぞれがそれぞれの定位置に収まっていた。
ちなみにシンジは、料理掃除洗濯と言った家事全般を、今ではレイに譲り渡していた。
「まったくもう!、おじ様、性格変わったんじゃないの?」
三人遅刻寸前で、全力疾走中である。
「変な手帳見てにやにや笑っちゃってさ、何書いてるのかと思ったら、その日からかった事全部記入してんのよ?、何考えてんだか」
「なにって……」
「その内……、ユイ母さんに報告するって、言ってた」
げぇっと声。
「まさかあれ朗読しようってんじゃないでしょうねぇ?」
シンジはそれがお墓か病院かどちらか考えて嫌な顔をした。
どちらにしても大して差が無いような気がしたからだ。
病院では人が聞くだろうし、墓では恐らく自分達が付き合わされる事になるだろう。
「なんとかしなくちゃ、なんとか……」
しかし反対する声が上げられた。
「それはだめ」
「レイ?」
「だって……、今はこれだけが楽しみだからって、言ってたから」
「言ってたって言っても……」
(そう言う楽しみは……)
「あーーー!」
「な、なに!?」
「楽しみで思い出した!、シンジ、あんたパパに何言ったのよ!」
「なにって、何が……」
アスカは逆に問われてうっと唸った。
それはレイとシンジと自分が、ようやく揃った日の一週間後のことだった。
「パパ?」
『ああ、元気か?』
「え?、あ、うん……、元気」
受話器を手に、アスカは硬直していた。
今更、どうして。
まさか連れ戻そうと言うのだろうか?
ラングレーグループ会長の令嬢。
自分の立場が分からないほど疎くは無い。
嫌な予感が過る。
数秒の沈黙に想像が募っていく。
向こうも同じく気まずいだけなのだが、アスカにはそれに気が付く余裕もなかった。
「あの!」
『シンジ君に会ったよ』
「え!?」
出鼻をくじいて彼は続けた。
『俺は……、多分お前に言わなきゃいけない事があると思う、思ってな、済まないとか、そんな言葉じゃなく』
震えている声を怪訝に思った。
「パパ?」
『すまない、言葉が上手く並べられないんだ、だから今まで逃げて来たし、いや、お前を突き放した時もそうだった、顔を見る度に、口を開く度に言ってはいけない事を言いそうで恐かったんだ、話す事が苦痛でしかなかった、自分のことで精一杯だったからな、……お前が傷つくと言う事までは考えずに』
「パパ……」
『でもな、シンジ君に怒られてようやく分かったよ、お前の喜ぶ顔を見る方法なんて、凄く簡単な事だったのに』
一拍の間。
『愛しているよ』
「!?」
『そう告げる資格は失ってしまったかもしれない、ただの自己満足かもしれない、嫌われてもいい、いや、嫌ってくれて構わない、それでも言わなければ、言わなくちゃ伝わらない事もあるし、伝えなくてはいけない事もある、そう感じたよ』
アスカは話せなかった、何も言えなかった。
嗚咽を堪えるので必死だったからだ。
「パ、パ……」
『許してくれなくて構わない、それでも話したい事があるんだ、沢山話しておきたい事があるんだ……、いつか、いつになってもいいから会ってはもらえないだろうか』
返事はしゃくりあげる声と混ざってしまった。
「う、ん、パ……、パ、うん」
『そうか……、良かった、愛していたし、愛してもいるよ?、今はそれを言うだけで精一杯だけれど、もし許してくれるのなら……、その時は一緒に暮らそう』
「え!?、で、でも……」
『分かっているさ、シンジ君達のことだろう?』
「うん……」
『今すぐにとは言わないよ、そうだな……』
笑ったような気がした。
『シンジ君を捕まえてからで良い、それぐらいは待つさ』
「ちょっ、パパ!?」
『じゃあな、また電話するよ』
最後は確かに笑っていた、笑いを含んだ言葉であった。
シンジとレイはキョトンとした顔で、赤くなったままぼうっと走るアスカを見ていた。
「どうしちゃったのかな?」
「さあ?」
「アスカっ、アスカってば!」
「え?、あ、何よ!」
「何よじゃないよ、何だよ急に黙り込んで」
「あ、な、なんでもないわよ!」
(ったく!)
そっぽを向く。
(愛してる……、愛してるって言ってくれた、パパが)
この長い時間で、それは一番聞きたかった言葉だった。
(シンジ……、やっぱり変わった、ううん、変わったと思う)
具体的に何処がとは言えないのだが。
(守ってくれてる、見てくれてる……、それだけじゃない)
こんな風に、周りを変えてくれるのだ。
シンジが。
(嬉しい……)
喜びのベクトルが変わっていく。
そしてはたと気が付く。
(シンジって、レイのことが好きなのよねぇ……)
はぁっと溜め息。
全力疾走中の息切れ状態から吐くのだから器用なものだ。
それはともかくとして、むんっと気合いを入れ直す。
いつしか父のことは隅に追いやられてしまっていた。
そう、一ヶ月前までであれば、父の言葉は一番欲しかった言葉であろう、一緒に暮らそうと告げられたなら、迷わず越していただろう、しかし、今は。
アスカの青い目にはシンジだけが写り込んでしまっていた。
父がくれた言葉でも、シンジが与えてくれたものなのだとすり変わってしまっていた。
遠い場所でポイントを上げたと思い込み、舞い上がっている彼女の父は、多少憐れかも知れなかった。
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