LAST BREAK 4

 がらっとすりガラスを開ける。
「あ、綾波!?」
「碇君……」
 じーっと、溜まっていくお湯を見つめているレイが居た。
「ごめん!」
 前を隠して出て行こうとするシンジ。
 その手首をレイはつかんで引き止めた。
 ザーッと、言葉も無い二人の間に、蛇口から落ちるお湯の音だけが鳴り響く。
「……離してよ」
 きゅっと、シンジの言葉に逆に力がこめられた。
「どうして……」
「あなたの、心も体も温めてあげる」
 レイはシンジを引き寄せるように、背中から抱きしめた。
「そんなの嘘だ!」
 シンジの声が一瞬だけお湯の音を上回った。
 動揺に揺れるレイの瞳。
「信じてはくれないのね……」
「何を信じろって言うのさ!」
 吐き捨てる。
「僕を捨てたのはネルフのみんなじゃないか!、そうした方が良いってみんな言ったじゃないか!、綾波だって!」
 言ったんだ……
 アスカの時とは違い、レイには涙すら見せようとしない。
「僕は寂しかった」
 寂しかったんだ。
 シンジはサードインパクト以後の、ネルフでのことを思い出していた。


「シンジ君を、ですか?」
 その頃ネルフは、死んでしまったミサト達の代わりとして、リツコの代役にマヤ、ミサトの代わりにマコトが立てられ、維持運営に努められていた。
「他に適任者は居ないようだしな?」
「でもシンジ君は!」
「サードインパクトを起こした」
 日向は冷たく切り捨てた。
「でも碇君が居なければ、あなた達は消えて居たわ」
「しかし帰って来れなかった人達も居る、それは事実だ」
 レイの発言をも押さえこんでしまう。
「だからってシンジを大罪人にするつもり!?」
「僕はかまいません……」
「シンジ!?」
 アスカは目を剥いた。
「あんた何言ってるか分かってんの!?」
 ゆっくりと、無機質な瞳を向けるシンジ。
「かまわないよ、僕にはもう、何も無いから……」
 死ぬ事さえ奪われてしまったから。
 誰もがシンジから目を背ける。
「バカシンジ!」
 シンジの頬を叩くアスカ。
 レイは無言でその様子を見つめている。
 唇がきつく引き結ばれ、噛んでいる事に気がついた者はいなかった。
 シンジが消えたのは、翌日のことだった。


「僕は要らないと判断されたんだ、切り捨てられたんだよ!、なんだよいまさら優しい振りなんて!」
 シンジはレイを振り払った。
「よかったよね、人間らしくなれてさ?、みんな優しくしてくれるんでしょ?」
 シンジの顔が嫌な風に歪んでいく。
「今度はそうやって押し売りにくるんだ?、わたしは幸せって、僕を惨めにしたくて」
 へらっと、妙な笑いを浮かべるシンジ。
「どこまで僕の心を壊せば気がすむのさ?」
 シンジについての評価は二つあった。
 一つはレイとアスカの広めた「世界の英雄の一人」と言う称号。
 もう一つは家族や恋人を失った人達の鬱積した感情をぶつけるために用意されたスケープゴートとしての、サードチルドレンの名称だった。
「僕がチルドレンだってバレたらどうなるか知ってて来たんだ?、そんなに僕を消し去りたいんだっ、汚点だから!、嫌いだから!!、死んでもらいたいから!!!」
 がくっとシンジは膝をついた。
 冷たいタイルの感触が膝から体温を奪っていく。
 湯船から溢れたお湯が、シンジとレイの足を濡らした。
「何が不満なのさ……」
 シンジはうなだれたままで尋ねた。
「不満?」
「そう、不満……」
 声が再び落ちついている。
「わたしに不満は無いわ」
「当たり前だよね?」
 シンジの言葉を無視し、真正面に座り込む。
「綾波?、むぐ!」
 シンジは唇を奪われていた。
 ゆっくりと離れていく。
「……どうして」
 シンジは驚いていた。
「あなたが望んだから、わたしはここにいる」
「違う、帰って来たいと思ったから自分を取り戻せたんだ、僕は関係無い」
「でもそのきっかけを与えたのはあなたよ?、あなたが生きていく事を望んだ」
「だからこうして生きてるんじゃないか!、辛くても我慢してるじゃないか!」
 望んだのは自分なのに、その責任をどこかへ押し付けようとしてしまっている。
「辛いの?」
「辛いよ!」
「どうして?」
「独りだから……」
 シンジの両頬を優しく挟むレイ。
「あなたが望めば、わたしは側に居るわ……」
「でもそれは強制だ、逆らえない事を知っててするだけのことだ」
 真っ直ぐにレイを見る。
「ほんとの綾波の心じゃない、綾波が自分で思ってくれた事じゃない」
 レイは数秒うつむいた後に顔を上げた。
「わかったわ……」
 そしてしゅるっと、制服のリボンをほどく。
「綾波、なにを?」
 レイは胸もとのボタン、上の二つ目から四つめまでを外してはだけた。
「碇君……」
「あ……」
 シンジは手を取られていた。
 その手を自分の左胸に誘うレイ。
 侵食、される……
 かつてエヴァを通じて何度も体験した感覚が蘇って来た。
 フィードバックされていたそれと同じ。
 互いの壁を犯し、傷つけ、そして心を壊して来た。
 僕の心を壊すんだね?
 シンジはそう思い込んだ。
 それでもいい、生きるだけなら何も考えられない方が良い……
 シンジはレイの行為を受け入れた。
 ムニュ……
 レイの乳房が一瞬たわむ。
「ん……」
 艶のある声を出すレイ。
 だが次の瞬間、シンジの手に広がるはずだった感触は消えうせた。
 ずぶずぶとシンジの手がレイの中に埋まっていく。
「碇、く……」
 レイは恍惚とした表情で、呟きながらいざなった。
 シンジの手がレイの心臓に達する。
「心を、解放して……」
「嫌だ」
 レイの潤んだ瞳を見ても、シンジは何の感慨も抱こうとしない。
「また僕を傷つけるつもりなんだ……」
 シンジはレイを信用してない。
「碇君には……、わたしと同じことができるもの……」
 自分の中に埋まっているシンジの手の、手首を両手でつかむレイ。
「気にすることはないわ……、わたしにはなにもないもの」
「綾波?」
「この中にある物は一つだけ……、エヴァの時と同じ、ATフィールドを解放して、わたしの中に入って……」
 レイは懇願した。
「できないよ!、そんな恐いこと!!」
「なら、わたしがあなたに見せてあげる……」
 わたしの心を。
 レイはそっと、目を閉じた。


 何だこれ?、何だコレ?、なんだコレ!?
 シンジの中に何かが入って来る。
 それはレイの記憶だった。
 わたし、何をしているの?
 わからない。
 ただ目の前に並ぶ長蛇の列が、自分を見に来てくれているとはわかっていた。
 だからレイは一人一人と握手した。
「寂しかったんです!」
 言葉は違っていても、泣き出す瞬間の思いはみな同じであった。
「わかってくれる人が欲しかったんです!」
 それはわたしの心ではないわ……
 寂しさを誰よりも理解していた人物は既に居ない。
 恐い?、恐いのね……、失うのが。
 自分ではなく、シンジのことを伝えれば良かったと気がついた時には遅かった。
 恐いのね、わたし。
 いま口にすれば、この人達から何と罵られるか分からない。
 わからない、どうすればいいの?
 もし本当のことを伝えれば、レイは罵られ、組織ぐるみで嘘をばらまいたネルフは解体されてしまうだろう……
 想像にすぎない、でもそれは現実になる、いいえ、逃げているのね。
 レイは恐れを、迷惑をかけてしまうと言うごまかしに置き換えていた。
 しかしそんな自分を嫌悪できたのは、いきなり姿を消したシンジの存在があったからだ。
 碇君……
 満たされないと感じている。
 あなた達は、何が嬉しいの?
 レイには何が喜ばしいのか分からない。
 だめ……
 これ以上、「ありがとうございます」と礼を言われても嬉しくはなれない。
 当たり前ね……
 本当にその賛辞を受けるべきはシンジなのだから。
 嘘をついているのはわたし、嘘だと知っているのもわたし。
 だからこそ、自分自身はごまかせない。
 ごまかし続けて来た罪悪感は、限界にまで張り詰めてしまっていた。
 わたしの心は、誰が満たしてくれるの?
 寂しさは、誰が癒してくれるの?
 脳裏に思い浮かんだのはゲンドウの姿だ。
 わたしの向こうに誰かを見ていた人、あの人もわたしの様に悩んでいた?
 レイははっとした。
 信者とも言える人達の顔が、全て自分に見えたから。
 ポタっと落ちる涙。
 それにぎょっとする人達。
 これはわたし、わたし自身の心……
 レイは立ち上がった。
 嬉しさを伝えたいと願う、わたし自身の姿……
 そこに駆け込んで来るネルフ職員。
 アスカがシンジの元へ発ったと伝えに来たのだ。
 もう一度だけ、皆を見るレイ。
 戸惑いの表情を浮かべている人達。
 長蛇の列の遥かな先に、たった独りだけ背を向けている少年の姿が見えてしまった。
 ダメ……
 レイは歩き出した。
 列の先に、シンジが居るような気がしていた。
 だから待ち続けていた。
 でも、ダメ……
 しかしそれは幻想だった。
 シンジは列とは逆向きに歩いていったのだから。
 碇君……
 だからレイは、アスカの後を追って、シンジの元へとやって来ていた。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。