THY TEMPTATION 1

 カチャカチャと言う音が聞こえて来る。
「ん……」
 シンジは身じろぎをした。
「なんだろう?」
 左半身が重い。
 寝ぼけまなこを横へと向ける。
 綾な……むぐ!?
「!?」
 唇を塞がれた。
 シンジの頭を抱き込み、唇にむさぼり吸い付く。
 シンジの目は点になっていた。
「おっはよー、バカシン……ジ」
 エプロン姿で、ご機嫌な表情から一気に固まるアスカ。
「あ、あ、あ、あんたなにやってんのよ!」
 レイはアスカの叫びを無視して、ただシンジの瞳を見つめていた。


「いい?、じゃああたしは向こうに戻って来るけど、夕方には戻って来るからね!」
 ぷりぷりと怒っているアスカ。
 シンジは首をすくめて、小さくなる。
「アスカ、行っちゃうの?」
 まったくもうっと、頭を掻く。
「大丈夫よ、ほら、早く食べないと冷めちゃうわよ?」
 シンジはアスカの炒めてくれたポークウィンナーを口にしながら悲しそうにした。
「アスカ、今日は学校に行かないんだ……」
 がっかりとするシンジ。
「なによもう!、ファーストだっているでしょ?、そんな情けない顔すんじゃないわよ!」
 言葉は怒っているが、顔はほころんでしまっている。
 シンジはフォークを置いた。
「……学校、今日はいいや」
「だめよ!、ファースト、ちゃんとシンジを見張ってなさい!」
 二マッと口元を歪めるレイ。
「わかったわ……」
「あ、ちょっと待って、あんたじゃ危ないわ!」
 その笑みに即座に反応する。
「アスカが行かないんなら、行っても……」
「学校へ行くのはあんたのためでしょ!、そりゃまああたしが居なくって、寂しいのはわかるけど……」
 半分腰を浮かせて、テーブルごしに身を乗り出す。
 ちゅ☆っと、アスカはシンジの頬にキスをした。


「それじゃ、行ってきます!」
 マンションの前でアスカと別れる。
 アスカはそのまま、黒塗りの車に乗り込んでいった。
「……顔も見えないや」
 車の姿はそこにあるのに、シールドが黒くて中は見えない。
 アスカ、こっちを見てくれてるのかな?
 ほんの少しの期待が持ち上がる。
 その瞬間、シンジの目に幻が映った。
 車の中で、ようやくほっとひと心地ついてるアスカの姿だ。
 ズキンと胸が激しく傷んだ。
 アスカは面倒臭い相手が居なくなったと、くつろいでいる。
「碇君?」
 シンジはびくっと震え上がった。
「綾波……」
「さ、行きましょう」
「うん……」
 シンジはレイと共に、学校へ向かって歩き出した。
 何度も何度も、振り返りながら。


 先日の事もあってか、シンジの周りにはさらに人が近寄らなくなっていた。
 アスカとレイの座席は、シンジを囲む様に移動している。
 シンジの隣はレイで、正面がアスカの席だ。
 教室に入ると、緊張が走るのがわかった。
 空気が変わる。
 みな一斉にシンジから目を反らした。
 人間じゃないと脅えていた。
 だがクラス外の人間には漏らしていない。
 信じてもらえないなどという当たり前の考えではなく、ただ得体の知れないシンジが恐かったからだ。
 いいんだ、それでも。
 シンジは目を伏せ、体を小さくした。
 アスカさえ、居てくれれば。
 この日もシンジは、そこ居ないかの様に振る舞った。


「はぁああああ、疲れたぁ」
 とんとんと肩を叩いているアスカを、レイは『宇宙の神秘』と言う妖しげな雑誌ごしにじっと見ていた。
「いっくらお努めだからって、第三新東京市とこっちの往復じゃあねぇ?」
 アスカとレイは同居している。
 理由のほとんどは、アスカが同棲を認めなかったと言う事につきる。
「…………」
「シンジはシンジで、アスカ、アスカ、アスカだしぃ」
 ちらりと横目でレイを見やる。
「本当は嬉しいくせに……」
「当ったり前じゃない!」
 聞きたかった言葉が聞けて、アスカは腰に手を当ててふんぞり返った。
「簡単なもんよねぇ、シンジってばすっかりあたしの虜って感じ?、って、あら?」
 レイに自慢していたアスカは、部屋の入り口で立ち尽くしているシンジを見付けた。
「シンジ?」
 シンジは泣きそうな顔をしていた。
「どうしたのよ?、一体」
 シンジはお鍋を持っていた、何かを作って来たのだろう。
 その手が小刻みに震えている。
「ごめ……、ごめん……」
 シンジの腕からちからが抜ける。
 顔を伏せる、前髪が表情を隠してしまう。
「ちょっと危ないわよ!」
 アスカは慌てて、シンジの手から鍋を取り上げた。
「あ、これ肉じゃがじゃない☆、じゃなくて、どうしたのよ!」
 シンジの髪を軽くかきわける。
 シンジは瞼をギュッと閉じていた。
「シンジ?」
 シンジは呻くように訴えた。
「ぼ、僕嬉しかったんだ……、アスカが僕に優しくしてくれるから嬉しかったんだ」
「ええ……」
 素直に喜べないアスカ。
「でも迷惑だったなんて考えなかった、当たり前だったのに!」
 シンジは両手で顔を隠した。
「ちょ、シンジ!?」
 その手首をつかんで顔を開かせる。
 だがシンジは暴れて逃れた。
「もう、こっちに来ないよ!、暇な時だけでいいよ、だから相手してよっ、僕を捨てないで!」
「こら!」
 アスカは逃げていきそうなシンジの手を引っ張った。
「なに勘違いしてんのよ!」
 アスカをその胸に抱え込む。
「アスカ!?」
 シンジはアスカのふくよかな胸の谷間から見上げた。
 アスカは表情を堅くしている。
「あたしだって恐いのよ……」
 胸に抱いたまま、アスカはゆっくりと座らせた。
「恐い?」
「そう」
 ぺたんと座る、さすがに胸に抱くには姿勢が辛くなったのか?、アスカはシンジと頬を擦り合わせた。
「……あの街には、あたしを待ってくれてる人達がいるの」
 シンジの首に腕を回していく。
「じゃあ、やっぱり僕なんかがアスカを……」
 シンジは口を閉ざした。
 何を言おうとしてるんだよ、僕は……
 独り占め?、そんな、身勝手な。
 シンジは何も感じないように心を閉ざそうとする。
 アスカはそれを感じた。
「いいのよ?」
 ぎゅっと、腕に強く力をこめる。
「あたしはあんたがここに居るから帰って来るんだから……」
 アスカはいったん離れ、真正面から微笑んだ。
「みんなチルドレンに会いに来るの、恐いの、捨てられるのが、いらないって言われるのが、だから……」
「会いに行くの?」
 シンジは怖々と尋ねた。
「ええ、あたしはまだ必要なんだって確認するためにね?」
 シンジの額にキスをする。
「なら、アスカに必要なのは……」
「それはシンジよ?」
 もう一度、今度は背に腕を回して抱きしめにかかった。
「でも、僕は、何も……」
「シンジに笑ってもらいたいの、取り戻したいのよ、あの頃を……」
「あの頃?」
「そう……」
 アスカは懐かしげに言葉を吐いた。
「辛かった毎日だったけど、楽しい時もあったでしょ?」
 楽しい?
 しかしシンジには思い出せない。
 嫌だよ……
 嫌い、バカ、内罰的!
 罵られた事ばかりが思い浮かぶ。
「僕は……、アスカにこれ以上嫌われないようにしようって……、それしか覚えていない」
 なんだろう?
 訝しむ。
 アスカの体から、知らない人の匂いがする。
 それがシンジに、加持と言うアスカの中に住む別の男性のことを思い浮かばせた。
「あたしはチルドレンなの、でもチルドレン以外のあたしを求めてくれるのはあんたなの、だからあんたの元に帰って来るの、シンジだけがチルドレンじゃないって目であたしを見てくれるから……」
 アスカの気持ちは本当だった。
 でも、アスカは嘘をついている……
 しかしシンジは、それを信じきる事ができないでいる。
 僕は……
 シンジが視線を漂わせると、じっと口をつぐんでいたレイがいた。


 シン……と静まり返っているシンジの部屋。
 ベランダへの戸を開け、ぼうっと座り込んでしまっているシンジが居た。
 月明かりが、シンジを幽鬼の様に浮かび上がらせてしまっている。
 まるで今にも消えてしまいそうな雰囲気に息を飲む。
「碇君……」
 レイは暗がりになっている奥から出てきた。
「綾波……」
 シンジはレイを見とめてから、もう一度膝を抱え込んで体を丸めた。
 へたっと、その隣に座り込むレイ。
「辛いのね?」
 シンジは素直に、コクンとはっきり頷いた。
「辛ければ、甘えればいいわ……」
 そっとシンジの背を撫でる。
 優しい触れ方、しかしそれがシンジに恐怖を呼び起こさせる。
「違う、辛いのはアスカだ!」
 レイの手の動きが止まった。
「こんな僕にかまわなきゃいけないアスカだ!、アスカの優しさにつけ込んでる僕なんだ!、アスカは、綾波だって、本当は……」
 シンジはひっくとしゃくりあげた。
「本当は、僕さえいなければ、あの街で……」
 ひっく、ぐしゅっと、シンジの泣く声が室内を埋め始める。
「……碇君は、悪く無いわ」
 シンジは膝にこすり付けるように首を振った。
「同じチルドレンなのに、僕だけが疎外されてるって……、そんな姿を見せて同情を誘ってる僕が悪いんだ」
 違うわ。
 レイは指先で頬に触れた。
 綾波?
 シンジの両頬に手を当てて、多少強引に顔を上げさせる。
「碇君は、わたしの前から姿を消したわ?」
 シンジは視線を反らせようとしたのだが、もう一度レイに引き戻された。
「手がかりも残さず……、そう、あの偶然がなければ、わたし達は二度と会えなかったかもしれないわ……」
 レイの赤い瞳が覗きこんで来る。
 冷たいようで、嘘のない目だ。
「もし、碇君にズルさがあるのなら……、きっと追いかけてもらえるようにしてくれていたはずだから……」
 二度と会えないような去り方をするはずがないわ。
 そうかもしれない……
 シンジは認めた。
 今思えば、最初にエヴァから逃げた時、シンジは第三新東京市の中をうろついていた。
 見つけてもらえる事を、心の何処かで期待して。
 レイの言葉は途切れていた。
「綾波……」
 すっと立ち上がるレイ。
「彼女が、来るわ」
 シンジはやはりびくっと脅えた。
 再び顔を伏せてしまう。
「逃げては、いけないわ」
 シンジを見ずに呟くレイ。
 意識したものでは無かったが、シンジはその言葉に過剰なまでの反応を示してしまった。
 ドクン、ドクン、ドクン……
 鼓動が異様な勢いで跳ね上がっていく。
 逃げてはいかんぞ?
 誰かの言葉と背中を思い出すシンジ。
 逃げては……
 うわあああああああ!
「シンジ!?」
 驚き、呆然とするレイと、飛び込んで来たアスカを押しのけ、シンジはマンションの外へと逃げ出していった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。