綾波レイは鬱屈していた。
 なんて嫌な仕事なんだろうと気分をとても悪くしていた。
 諜報部と言えば仕事は覗きだ、聞き耳を立て、噂を広い集め、報告する。
 時には人の悪口を、時には人の素行を調査し、それを文書に纏め、記録する。
 記録されたものはMAGIの中へ、そして永久に保存されるのだ。
(こんなの……)
 まともな神経を持つ人間のすることではないと感じる。
 そんなレイに指導されているものだから、他の子供達も今ひとつこの仕事に興味を覚える事が出来ないでいた、嫌悪ばかりが目立つのだ。
 人が最も噂話をするのはどこか?、給湯室?、あるいは化粧室?
 トイレのついたて越しに何を話しているのか?、見える者は覗き、聞ける者は耳を立てる、場合によっては盗聴器と監視カメラも利用する。
 それは日常的にどれだけ監視されているかを知る作業でもあった、まともな神経では堪えられない。
 女の子は酷過ぎると泣き出し、少年でも気分を悪くして吐こうとする、
 脱落者が続出するこの環境で、気丈に堪えているレイの姿に、皆は強い同情を抱いて哀れみの目を向けていた。
 ここに集められている者の大半は、レイと同じ覗き屋としての能力を備えている、それだけにしていい事といけないことの境界線を己の中に引いていた。
 自分なりの倫理観を作り上げている者達ばかりだ、その枠を越えた仕事を強要されて反発しないわけがない。
 よくレイは堪えているなと思っていたのだ、好んでいないのは表情を見れば分かるし、第一、力に目覚めた彼らが規範としたのは、既に存在していた綾波レイと言う覗き屋であったのだから。
 だが……、これは試験であった、それを知る者は試験官のみである。
 情報を扱う仕事には非常に強い倫理観と道徳観念が求められる、でなければあまりにも危険だからだ。
 口の軽い者ならば世間話としてこぼすだろう、その内容いかんによってはどのようなことになるか知れない。
 あるいは脅迫を行う者が出るかもしれない、業務内容に相反するが、それこそ正義感無くしては立ちいかない職種なのである。
 興味津々と楽しんでいる者は、逆に危険人物として登録され、監視対象になる、これはそういう試験なのだ。
 そんな思惑に巻き込まれてしまって、レイは何も考えられない状況へと追いやられてしまっていた。


「やっと終わった……」
 全身疲労の塊と化しているアスカである。
 やっと解放されて、もう夜の九時だ。
「絶対訴えてやる」
 確か日本の法律に引っ掛かってるはずと意趣返しを企んでみる。
 高校生はこんな時間にまで働いてはいけないのだ。
 ただし国際公務員には国際法が適用されるのでその限りではない、それを分かっていての冗談である。
(お腹空いたなぁ……)
 くぅと可愛らしい音が鳴る。
 それを気にせずにいると、くすくすと忍び笑いが耳に障った、誰かと主を探してマナを見付ける。
「あんた……、まだ居たの?」
 別に嫌味ではない、時間が時間だから、それだけだ。
「まあね、まだ4号機の調整がね」
「調整って」
 驚く。
「あれって、まだ使うの?」
「使うことは使うみたいだけど」
「なによ?」
「アメリカに持ってくみたい」
「アメリカぁ!?」
 仰天する。
「まさか、戦争にでも使う気ぃ?」
「……どっからそんな発想が出て来るの?」
「だってアメリカでしょ?、あそこって今軍事開発が凄い勢いで進んでるじゃない」
「SDF関連でやってるだけでしょ?、ネルフがやってる宇宙船建造計画にも関係してるって……」
「だからって4号機はさ……」
 カヲルの機体だ、そう言いかけてアスカは口を噤む。
「う〜ん」
 マナはその間を誤解した。
「確かにねぇ、4号機って色々とマズイもの積んでるし」
「まずいもの?」
「エンジンだけでも永久機関だし、駆動系の人工筋肉だってね、細部の設計を流用すればもっと小型のマンマシーンが実用化出来るって話だし、本部の製品が戦争の道具として発売されるのはまずいんじゃないかなぁ?」
 う〜んと首を捻る。
 そしてはたと気がつく。
「アスカこそなにやってんの?、こんな時間に」
「こんな時間になったのよ!、延々訓練に付き合わされてね」
「エヴァの?」
「保安部の!、まったくしつこいったら……」
 またくぅっと鳴った。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……食堂、行く?」
「うん」
 そして場所を移動する。


「なるほどねぇ」
 マナは聞いた話に相槌を打った。
 アスカはと言えば二つ目のオムライスをぱくついている、相当エネルギーを消耗していたらしい。
「全員の相手しなきゃなんないってのは確かに辛いか」
「当たり前よ!」
 口まわりにはケチャップが付いている。
「慣れてる奴が相手なら加減しなくて良いからってさ」
「疲れた?」
「そりゃあね、使徒の相手をするのとはわけが違うもの」
 どんな風にと訊ねるマナにアスカは教えた。
「今言った文句と一緒よ、使徒が相手なら手加減なんて考えなくていいでしょう?、とにかく全力でぶつかれる、けどアイツラが相手だとそうもいかないから……」
「……アスカってそんなに強いの?」
「強いって言うか……、ね」
 顔をしかめる。
「やり過ぎると殺しちゃうとか、そういうことじゃないのよ」
「?」
「力ってのは現象なの、自分の力を引き出すとかじゃなくて、想像した物を現実の現象として顕在化させるの、だから集中力と想像力さえあればどんなことだって可能に出来るわ」
「凄いね……、それって」
「そうよ、けど反面、集中しなくちゃいけないから神経にストレスが掛かり過ぎちゃうのよね、疲れてへとへとになるのはそのせいなの、やり過ぎとかじゃないってのは、相手に降参させる程度の力を発生させるって、そんな微妙な調整は出来ないって話になるのよ」
「そっか……、使徒が相手なら倒せばいいんだから、一番威力のあるのを思い描いてどっかんどっかんやれば良いわけだ」
「そう、でもそれを人相手にやったら?」
「どうなるの?」
「人によるけどね、あたしの場合は消し炭すら残さず蒸発させる事になっちゃうんじゃないかな?、それこそATフィールドでも持ってる人が相手でないと」
「碇君のような?」
 そこに話が行ってしまって、アスカは奇妙に顔を歪めた。
「あれ?、何か……、まずいこと言った?」
 そんなアスカの変化に戸惑う。
「碇君、そう言えば最近一緒に居るとこ見ないけど……」
「あいつは……」
「良い、遠慮しとく」
「なによぉ」
「のろけ話ってつまんないから」
「のろけ話じゃないのに……」
「そう思ってるだけなんじゃないのぉ?、どう喧嘩しちゃってて気まずいとか、そんな感じなんでしょ?」
 ぐっとつまるアスカであるが、それは実際どうだろうかというところまでは考え至らなかった。
 シンジには喧嘩しているつもりは無いのだし、第一、何故アスカとレイの二人が妙によそよそしくなっているのか、正確な所は把握していなかったのだ。


「なんだかなぁ」
 いつもの調子で、シンジは初号機を格納庫へと戻していた。
『お疲れ様、お姫様が来てるぞ』
 そう声が掛けられる、見ればレイが待っている。
 それだけだ。
 シンジはいつもと同じ調子でいるつもりだった、レイやアスカと気まずくなるのもいつものことだ、これまでも時折あったが、そう大した事ではないといつもうやむやとなっていた。
 必要以上に接近するつもりは無い、それは『いつかの日』の後に、彼女達に問題を残す事になってしまうから。
 だが同じくらい、必要以上に疎遠になるつもりも無かった、それはそれで後に遺恨を残すからだ。
(うまくやってるつもりなんだけどな……)
 シンジはアスカとカヲルの親密さを知らなかった、接近した二人が何を交わしたか、それを想像もしていなかった。
 惹かれ合う二人から身を引いた、その程度の認識を持っているだけで、何故二人が近しくなったのか?、その原因が自分にあるとは思っていない。
 ──エヴァから降りる。
「お疲れ様」
「うん」
 レイの手からタオルを受け取る。
 シンジは顔の粘液を落とし、髪を掻き上げ、撫で付けた。
「早くシャワー浴びたいよ」
「……」
 少々赤くなるレイである。
(妙に恥ずかしいんだけど、そのセリフ)
 狙っているのなら誘っていると受け取れるのだが、シンジにはそんなつもりはないんだろうなと……
 思っていて、顔を覗き込まれてドキリとした。
「な、なに!?」
「ううん……、なんだか顔色悪いなと思って」
「そ、そう?」
「なにかあったの?」
「……ちょっとね」
「なに?」
「……あんまり聞かれたくない」
「……ごめん」
「あ……」
 しまった、そんな風に顔を歪める。
 肩にタオルを掛けてシンジは先に行ってしまった、顔を背ける時の表情、それはレイに苦しみを与えた。
 胸が疼く。
 言い方を考えるべきだったと反省する、確かに面白くない話だった、試験の結果とテストの趣旨の説明を一番最後に受けたのだが、それで気が晴れるほど単純な話ではなかったのだから。
 せっかくシンジクンの顔を見て気分を治そうと思ってたのに、そんな気持ちだったから思い出させるようなことは言ってもらいたくなかった。
 だからきつい口調になってしまった。
 ──その全てが言い訳にすぎないから、レイは言葉を無くしてしまう。
 きっとシンジは……、それはいつもの悪い癖だった、そう、もう良いよ、そう言って許してくれると同時に、もう辛い顔をしてるからと言って気遣うような真似は控えるようになるんだろうな、また何かあったんだろうなと見守るようにして、もう決して慰めてはくれないだろうな。
 そんな風に想像を付けてしまっていた。
 嫌な事は回避しようとする性格を持つシンジであるから、そのような面倒ごとは避けようとするようになるだろう、それは学ばせては行けない事だったのだと反省するが、もう遅い。
 レイは何と告げればその失敗を償えるのか分からなかった、何を言えばそんなつもりじゃなかったと分かってもらえるのか想像出来なくて、だからこそ動けなかった。
 そして一分一秒の遅れがどれほど嫌な想像を膨らませるのか?、結論を強固にするのか知ってもいる。
 そんなレイだからこそ、悪循環にはまり込んで、彼女はシンジを放置してしまった。
 彼の寂しそうな表情と、肩を落とした姿に苦痛を感じて。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。