──この感覚。
 彼の意識は混濁していた。


「ん?」
 街中、振り返ったシンジにつられて、マナもまた振り返った。
「どうしたの?」
「いや、あれ……」
 シンジが示したのは、街頭にあるテレビだった、ニュースが速報で流れている。
「ジオフロントで……、事故?」
「まさか……、S機関の実験で?」
 不安を煽られて、嫌な予感を覚えてしまう。
「大丈夫かなぁ、アスカ……、レイも」
 マナはちょっとだけ吹き出した。
「女の子の心配だけするんだ」
 かなり狼狽えたシンジであった。


 歪む映像、映される偶像。
『妹を泣かす奴は、ワシがパチキかましたる!』
 なんでなんやと、彼は泣く。
『お兄ちゃんなんか嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、大ッ嫌い!』
 つまらないことだった、ただ、『大阪弁』を笑われた、それだけの……
 笑われたくなくて、標準語に直した妹、それで事は治まるはずだったのに。
(ワシが悪いんか?)
 いつでもそうだ。
 綾波レイ。
 惣流アスカ。
 いつだってそうだ。
(黙ってられるわけ、あらへんやないか……)
 なんとかしてやりたいと思うって。
 なんとかしたいと思うのに。
 どんな風にもできなくて……
 嫌われる事ばかりになると言うのに。
(なんでなんや)
 ──碇シンジ。
(なんでお前ばっかり、上手くいくんや!)


 彼の妬心を理解できるものはいなかった。
 碇シンジ。
 力を持ちながら、使わない者。
 守る力がありながら、自ら動かず、見ているだけ。
 そんな風でありながら、皆に好かれて、何もかもを上手く繋げて……
 こんなにも自分が、世の中上手くいくように、荒そうとする者を、暴れようとする者を、押さえつけ、戦って、頑張って来たのに。
 何もかもが上手くいかず、いつも責められて、馬鹿にされて。
(なんでなんや……)
 それはきっと、きっとこの手にあるものが、半端であるから。
 S機関。
 それは彼にとっての、救世主。
「な、なによ……」
 アスカは僅かに恐れを抱いた。
 3号機は正面で動きを止めている、弐号機を睨み付けて、肩を揺らして呼吸をしている、動きを徐々に落ち着かせていく。
 ぎらつく目は相変わらずアスカを見据えていた、何を思うのか、狂気が収まり、知性が見え始めたように、アスカには感じられた。
「鈴原、なの?」
 ──しかし。
「ぎゃあああああ!」
 アスカは突如襲いかかって来た激痛に、喉から悲鳴を絞り上げた。
 右腕が、捩れて、絞られていく、自分の腕じゃないなどと考える余裕も無く、激痛の全てを味わってしまった。
 ──ボキン!
 折れた、現実に、アスカの目が限界にまで見開かれる、瞳孔は収縮し、白目も毛細血管を弾かせた。
 3号機だった。
 いや、これは……


「さ、3号機……」
 マヤは嘘だと思いながら報告した。
「空間、数値……、湾曲を示して」
 やったのだ。
 3号機が。
 パイロットのものであるはずの、『力』を使って。
「パイロットを取り込んだか?」
「いや、同化ではなく、精神汚染によるものだろう」
「パイロットの洗脳か」
「ああ」
 トップの二人は、誰にも聞かれないように密談する。


「くっ、くああ、あ……」
 アスカはぷらんと垂れた右腕を掴みながら、涙目で3号機を見上げた、怖い、恐ろしい、感情が溢れて出して止まらない。
 ──逃げ出したい。
 おおよそ初めての感情だった、恐怖、アスカは確かにそれを感じていた。
 人間はあまりにも恐ろしい局面に出逢った時、泣きたくても喚きたくても、それができないものなのだと初めて知った、引き金さえも引けないのだ、激情がこんなにも内側に沸き起こっているというのに、放出できない。
 ──破裂しそうな予感。
 死神は新たな力に目覚めようとしていた、両腕の先が揺らいでいる、暗黒を纏って、没していく。
『アス……、カ』
 聞こえた声に、アスカは喜びを浮かべた。
「レイ!?、どこ!」
 打ち捨てられた零号機の姿が見えた、3号機の向こうに。
『逃……、げて』
「がっ!」
 アスカは額を押さえて体を折った、腕の痛みを忘れるほどの苦痛にみまわれる。
 流れ込んで来るイメージ、いや、レイからのATフィールドを用いた『転写』だった。
 物質が、クオーク単位で崩壊し、エネルギー『以下』のものへと還元されていく。
 ──魂ですらも。
(これって!)
 ──視える光景。
『人類』の希望たるエヴァンゲリオンを封じるためのウイルス兵器。
『乗っ取り』のために作られた使徒、『バルディエル』。
 機体本来の性能を発揮して、エヴァンゲリオンを駆逐していく同系機。
『最後』の戦いにおいては、唯一使徒の陣営に……、そして。
 そして使徒をその身に宿したままで、眠りへと……
 トウジとの出逢いがもたらした偶然の結果なのか、あるいはトウジを得た事による変異であるのか?
 バルディエルは、エヴァをそうしたように、トウジの能力を最大限に引き出して……
 エヴァンゲリオンを、『あらゆる使徒』を破滅へと追いやる、『災厄』の存在へと昇華していく。
(アタシ、死ぬの?)
 レイの叫びは、ただただアスカに、絶望をもたらしただけだった。
 誰も助けられない、誰にも、何もできない。
『このままじゃアスカちゃんが!』
 うるさい。
『3号機周辺の空間が破壊されていきます!』
 そんなこと分かってる。
『重力異常が』
 黙ってて。
 誰か助けて、助けてよ。
 トウジ、加持、カヲル、ミサト、リツコ、レイ、シンジ……、パパと、二人のママの顔が見えた。
 走馬灯とは……
 ──激震。
『くあああああ!』
 通信機からの悲鳴にマヤは泣きそうになる、画面では弐号機が、『触れられないまま』に投げ飛ばされて、壁に激突していた。
 触れもしないで、3号機は弐号機を振り回したのだ、サイコキネシスではない、途中の空間を圧縮することによって、元に戻ろうとする空間の流れに弐号機を巻き込んだのだ。
 無防備な状態でカタパルトに乗せられた弐号機は、有無を言わせず射出され、壁面に激突、隔壁をぶち抜いて、隣の施設に飛び抜けた。
 痛みにアスカは転げ回る。
「ダメです!、もうこれ以上は!」
 司令塔最上段を振り仰いでマヤは後悔した、もう?、もうなんだと言うのだろうか?
 ぎろりと睨み返された、そう、もう命令は下されている、返って来る返事など決まっている。
 ──ならば早く、自爆させろ。
 子供を殺せと、上司は言う。
 司令の手元からでは操作は出来ない、唯一、それが出来る端末はここにある。
 ──自分が指を置いている、コンソールだけがそれを成せる。
「誰か助けて……、助けて先輩、助けて」
 縋り付く、しかしそんな祈りでさえも、虚しいものに過ぎなかった。
 ──アスカの悲鳴が耳を傷める。


 鈴原トウジは、まどろみの中で微笑みを浮かべていた、なんやなさけないなぁ、そんな呟きをぽつりと漏らす。
(やっぱり、わしがおらんと、あかんやないか)
 言いたかった一言、言わせて貰えなかった一言。
 決して言ってもらえなかった言葉。
 ──やっぱり、お兄ちゃんが居ないとね。
 沸き上がる歓喜、感情が肥大化し、広がった分だけ淡くなる。
 そして現実の鈴原トウジは。
「……」
 白い粘菌に絡まれて、心穏やかに眠り続ける。


 ──フォオオオオ!
 吼えるエヴァンゲリオン、身を沈めて、跳躍する、左手を振るう、飛ばされた球体が壁を穿つ、大きくかき消す。
 壁に大きな穴を作って、その向こうへと身を躍らせた、隣の区画へ突入する、そこにいるのは弐号機だ、腹を踏み付けて、向こう側へ下り立った。
 ──アスカの悲鳴。
 内臓が破裂したのかもしれない、腹を押さえてアスカは転がった、弐号機が目も当てられぬ様子を見せる。
(なんで、どうして?、なんでなのよ!)
 アスカは泣きながら訴えた。
(どうしてアタシが、こんな目に!)
 その理由なんて……
(みんなシンジが悪いんじゃない!)
 そのシンジはどこに居るのか?
 ──きっと今頃、呑気に上の街で、楽しんで。
 顔を上げる、笑っている、3号機が、エヴァが、使徒が笑っている、嘲っている。
 どうや?、見たか、わしの力が分かったか?
 そんな声が聞こえた気がした。
 分かった、分かりました、だからもう許して……、くじけそうになる、平伏ひれふしてしまいそうになる、服従してしまいそうになる。
 だがそれはできない、何故だろう?
 まだ『理解ろう』としない弐号機の様子に焦れたのか、3号機は、トウジはとどめを刺すために歩み寄った。
 理解ろうとしないものなど、いらないからだ。
(これからは、わし一人でええ……、他のエヴァなんぞ、いらんのや)
 弐号機の影に、もっとも腹立たしい顔が見える。
(どうや!、これでわしが!)


 ジオフロント、森林。
 地下とは言え、これほど巨大な空間であれば、気圧は生まれる、風は吹く。
 以前シンジが寝そべっていた場所に、洞木コダマが立っていた。
 立って、足元を見つめていた。
 ズンと、『黒き月』全体に、悲しみの波動が広がった。
 彼女には見えていた、鈴原トウジの気持ちの推移が。
 憧れは容易く妬みへと歪み、そして妬みは憎しみに変異する。
 ──誰かがくすくすと笑ってる。
「黒き月、か」
 彼女は呟く。
「『だから』、『黒』なの?」
 誰かがくすくすと笑ってる。
 見通しの利かぬ闇が、広がる。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。