トクン、トクンと、鼓動が聞こえる。

 それは命が刻む、穏やかなリズム……

 胸に抱かれて、聞いた音。


「血の涙を流してる……」
 呆然とするミサト、そしてリツコ。
 だが問題は……
「いかん!」
 ゲンドウの喚きにこそあった。


 まだ使徒は生きている、その前で、いきなり棒立ちの姿を晒したのだ。
 バオン!、爆炎、まともに腹に受けて、01はゆっくりと倒れ込んだ。
 ズゥウウウンと床が揺れる。
「シンジクン!」
 レイは呼び掛けたが、01に反応はなかった、ただひたすらに、こんこんと溢れ続ける血の涙を流している、顎ががくがくとしているのは、喘いでいるのだろう。
 使徒はその正面へと、ゆっくりと進んでいった、再びの閃光。
 爆発、01の胸部装甲が禿げる、そこにあるのはあの赤い玉だ。
 使徒は両腕の帯を持ち上げ、交互に玉を突きだした。
 ガン、ガン、ガン、一撃ごとに赤い色が黒くなる、正面が欠けはじめた、ヒビも走り始める。
 だが、レイにはどうすることもできなかった。


「シンジ」
「母さん」
 シンジは母の胸に抱かれていた。
「いいのよ、もう良いの、なにも考えなくていいの」
「でも」
「辛かったわね、でももう大丈夫」
「そう……、なのかな?」
 ええと彼女は微笑んだ。
「もうなんの心配もないのよ?、後はわたしがして上げるから」
「うん……」
「お還りなさい、わたしのシンジ」
 その瞬間。
 強烈な違和感が二人を弾いた。


 ──死に体だったエヴァの右腕が持ち上がった。
 使徒の帯をからめとる、その体を引き倒して、エヴァは面を付き合わせた。
 グルルと唸って、次に蹴飛ばす、01は使徒の帯を一本ねじきり、己のものとした。
 失われた左腕の根元に継ぎ足す、帯だったものに気泡が浮かんで、膨らみ、それはやがて、エヴァの腕となって、形を整えた。
 ──猛り狂った怒りを上げる。
「シンジクン、なの?」


「シンジ?」
 ユイは首を傾げて不思議そうにした。
「どうしたの?」
「違う……」
 シンジは呻いた。
「違う、そうじゃない、違う!」
「シンジ……」
 困った子ねと、彼女が困る。
「もう良いのよ?、楽になっていいの」
「でも、僕が謝らなきゃいけないんだっ、僕が」
「でも辛いんでしょう?」
「だけど!」
「安心なさい?、わたしが、ちゃんとして上げるから」
「でも!」
「あなたは何も心配することなんてないの、あなたはわたしの言う通りにしていれば良いの」
「なんで……」
「子供は大人しく、大人の言う通りにしていれば、間違いはないのよ」
 ああ、とシンジは絶望的な声を発した。
 どうして、どうして、どうして?
 シンジは耳を塞ぎたくなり、歯を食いしばった。
 この人の言うことが分からない。
 この人の言うことが分かってしまう。
 人任せにしていいことと、悪いことがあるはずなのに、どうして分かってくれないのだろう?
 ちゃんとした人間になれなかったから、この人は僕に失望しているのだと、どうして分かってしまうのだろう。
 だから、任せろとこの人は言うのだ。
 今のあなたは、見ていたくないと。
 母の見る夢、描く夢……、そこにある希望、期待、願いに沿った姿。
 そこから外れている、今の自分は……
「でも」
 母は満足したいのだろう、けれど、この『戦い』は、自分のものだ、自分で選んで、結末へと辿り着かなければ。
 ──僕が満足できないじゃないか。
 二人の感情が衝突し合う。
 強制された理想像から、シンジは外れる。
「僕は……、僕は母さんの証明に付き合わされるためだけに、生まれたんじゃない!」
 自分には、確かに心があるという、愛情や、慕情を確認するための対象として、生産された子供なのか?
 飢餓感が、狂おしいほどの愛情が、渇望するものが多ければ多いほど。
 心を感じられるから。
 飢えが心を自覚させてくれるから。
「そのためだけに、僕を!」
 産んで、育てたの?
「そんなのってないよぉ」
 うっ、あっと、泣いてしまう、嗚咽を堪え切れなかった。
 ──加持リョウジの言葉を思い出す。
『中途半端なんだよ、君は』
 やはり甘えていたのかもしれない、自分は、だから期待していたのかもしれない、他人に対して。
 ──だけど。
 逃げ出したくせにと、彼女は言った。
 逃げ回っていたくせにと、彼女は責めた。
 こんなにも期待して産んであげたのに。
 そんなにも情けなくなってしまって。
 だがそんな嘆きは勝手だと思う。
(そうだ、僕はケリをつけたくて、もう一度エヴァに入ったんだ)
 決して、母に良いようにされるためではなく。
 良いようにさせてあげるためでもなく。
「なのに、なんだよ」
 涙がこぼれる。
「僕は……、母さんの、道具なの?」
 幸せになるための。
「そんなことのために、作られたの?」
 答えてよっと、シンジは叫んだ。


 駆け出し、使徒の顔面を手で掴み、叩き伏せる、拳を振るい、血を弾かせて、時には噛付き、引き千切った。
 その様は、まさに野獣のそれだった、過去の清廉な姿は見る影もなく踏みにじられてしまっていた。
 誰もが動けなかった、動けない中で、ひたすら初号機だけが動き続ける、ぐちゃ、びちゃ、肉が潰れてミンチとなり、拳に付着し、剥がれて、音を立てる。
 ──!
 断末魔の行動か、使徒は上半身を起こそうとした、かろうじて原形を留めている仮面の窪みから、光を発しようとする。
 ゴシャ!、それすらも初号機は粉砕した、行き場を失い使徒の中で暴発をする、ボム、一瞬使徒の体が膨らんだ。
 シンジは泣いていた、泣きながら『母』を蹂躪していた。
 殴り、潰し、引き裂いた、それでも飽き足らずに、蹴飛ばした。
 エヴァは泣いていた、泣きながら『同胞はらから』を挽き肉にした、殴り、潰し、引き裂き、蹴った。
 僕の心は僕のものだとシンジは泣いた、最初は母のものだったのかもしれない、けれどもここまで育てたのは僕だと、僕の心には母さんがくれた想い出だけが詰まっているわけじゃないと。
 アスカのこと、レイとのこと、沢山の、みんなとの想い出、記憶。
 それらが形となって、今の僕を作り上げているんだと。
 だから僕は僕だと嘆いた。
 そこには辛いことも、悲しいこともあるけど、楽しいことだっていっぱい詰まっているんだと。
 勝手なこと言わないでよと。
 勝手になんてさせないと、でも。
 シンジは憤りを、暴力として叩き続けた、悲しみながら。
 ちらりと横目に、レイが見えた、アスカもだ、どうやら二人とも、エヴァを捨てたらしい、肩を貸し合って、立っていた。
 シンジには、その姿を直視することができなかった。
 母はまだ喚いている。
「やめて、シンジ、やめて!」
「……」
「わたしを壊さないで、わたしの夢を壊さないで!」
「母さん……」
「あの子が悪いの?、あの子たちが悪いの?、あなたはわたしの子供でしょう?」
 なら。
「あなたは母さんと、あの子たちと、どっちを取るの!」
 胸が疼いた、空虚な穴が生まれ出た。
 母親を想う情はある、それでも大事なものもある、どちらも選べないのなら、どちらかを選ぶしかないのだと『あの人』は言った、これがそういうことなのだろうか?
 こうまでして、大切な人をないがしろにしてまで、取らなければならないものある、本当に?、答えは見えない、それでも、今は……
 シンジは、大切なものを、自らの手を血まみれにして、壊しながら、喚き続けた。
 ──ごめん、アスカ、レイ……、僕はもう、幸せにはなれない!


「シンジ……」
「シンジクン……」
 アスカとレイには、エヴァの動きが、悲痛に見えて仕方がなかった。
 自分を守るために、彼は大切なものを自らの手で壊したのだ、その罪悪感は、後悔の念は、一生つきまとうことだろう、それこそ、幸せに触れる度に、自分にはと、憧れて。


 そして、そんな初号機の姿をモニターしながら、一人の男が、煙草に火を点け、薄く笑っていた。
「エヴァンゲリオンの完全なる覚醒と解放、これで全ての証明はなったな、いやはや、どう上に報告するつもりだか、碇司令は」
 首筋に腕を回して、ピンと尻尾髪を親指で弾く。
 彼は思った通りに取り込まれたシンジに対して、苦笑に似た嘲笑のようなものを浮かべていた。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。