コウゾウはリョウジと共に廊下を歩きながら、ぶつくさと愚痴っていた。
「同じユイ君の意思に触れた者として尊重して来たが、それは間違いだったかもしれんな」
……しかも嫌味ったらしい。
ユイは言っていた、幸せはこの手で作り上げていくものだと、コウゾウには彼が自分の想いだけを成し遂げようと、勝手に振る舞っているように見えたのだ。
他人を犠牲にしても、なんとも思わず、自己の快楽のみを追求する、身勝手な人間に。
「君はユイ君の教えを、何か誤解しているんじゃないのかね」
それともと傷つける。
「それがセカンドインパクト時代の、少年の感性というやつかね」
加持の口元に、苦笑いのようなものが浮かび上がった。
──2002年。
この時、加持リョウジは、飢えをしのぐために盗みと恐喝を行っていた。
もう、守るべきものなど何も無かった、ただ地面の上を這っていた。
病気で、あるいは奪い合いの果てに、兄弟にも近しかった仲間たちは、皆死んだ。
(どうして、俺だけ)
生き残っているんだろう?
そんな疑問を張り付けて、殴り倒され、転がっていた。
──その時に、通りがかったのが、彼女だった。
「腫れは、しばらく引かないでしょうね」
翌朝。
こんな時勢だ、見ず知らずの者を家に泊めれば、どうなるか。
なにをされるか分からない。
なのに彼女は信用してくれた、無条件に。
それが居心地の悪さとなって、気付かれぬように抜け出そうとしたのだが、無理だった。
彼女の手が、紫色に変色している頬を撫でる、冷んやりとしていて、心地好い。
ああ、と思った、股間が猛りそうになる、今まで自分一人で生きて来たから、他人など馬鹿にして来たから、女など感じたことは一度も無かった。
意識したことなどなかった、なのに。
抱きしめてしまいそうになる、けれど、奥から赤ん坊の泣き声がして、苦笑してしまった。
他人の幸せを、幸せな他人を、自分の勝手で引き裂くことなどできはしないと。
その時、唐突に悟ったのだ。
(これが、そういうことなのかな……)
マンションを見上げて、くすねて来た煙草に火を点けた、幸せは自らの手で、手のひらを太陽に透かしてみせる。
眩しさに目を細める。
今、確かに幸せな気分だった、あの幸せそうな人の笑顔を守るために、ほんのちょっとだけ誇らしげな態度が取れた。
自分らしくなく、格好をつけた。
浮かれてしまう自分がいる。
(どこで、狂ったのかな……)
眩しかった、光よりも、手が。
何かを掴むように、ぎゅうっと握り込む、確かに今、一つ積み上げるためのものを手にしていた。
他人からいくら奪い取っても、それは積み上がることなく、山の頂にかければかけるだけ、さらりと流れて、崩れてしまった。
なのに、こんなにも簡単に……
(幸せに、浸ってる)
ただ……
あまりにも鮮烈だった。
介抱してもらった、優しい手つきで、手当てをしてもらった、好い香りがした、暫く忘れていた、腐ったような臭いとは正反対の、お日さまの香りだった。
落ち着いて眠れた、人の家で、女性の傍で。
その感覚を忘れられなくて……
「……」
──葛城ミサトは、いま話すべきかどうか、迷っていた。
救助された二人の様子は芳しくない、碇シンジや鈴原トウジほどではないにしても、かなりの衰弱が確認されていた。
表面上は、普通の人間と変わらぬ元気さであるが、医者の目は護魔化せない。
エヴァの発現にはかかせないイマジネーション、そして集中力。
その両方が欠けている、それはすなわち、疲弊している証拠であった。
(こういうのは、加持が得意なのよね……)
溜め息を吐く、その心は、遠い大学時代の頃にまで飛んでいた。
「この子、『あの』葛城教授の娘さんなの、ねぇ?」
コンパでの事だった。
唐突にそんな紹介の仕方をされた。
ミサトが顔をしかめたのは当然だった、なに勝手に人のことばらしてるの、そう思ったのだ。
どうだ、有名人の友達だ、凄いでしょう?
そんな馬鹿さが鼻についた。
察しなさいよと、なんで言い出さないのかと。
だから居酒屋を抜け出した、これ以上ダシにされては堪らないと、空を見上げて溜め息を吐く。
──雨が降っていた。
月は出ている、星も見える、けれど真っ黒な雲も流れていた。
「すぐにやむんじゃないか?」
声を掛けられて驚いた、隣を向けば見た顔の人が居た。
「あ、加持さん」
「帰るのかい?」
顎をしゃくったのは、中の連中のことを示したのだ。
「付き合ってられなくなった?」
「そんな……」
「いや、俺も同じでね」
さすがにこの時には、無精髭は剃っていた。
「ああいう、呑気な連中が相手だと、疲れてさ」
「呑気って……」
「幸せそうだからな」
それではいけないのだろうかと、ミサトは首を傾げて問い返した。
「良いじゃない、苦しいよりは」
翳を見せる、それに対して加持は謝った。
「悪い」
「あ、別に……」
「いや」
照れて、口元を右手で覆い、目を合わせないようにした。
──頬が赤くなっていた。
「俺、君みたいなの、ツボなんだよな」
「え……」
「どっか、呑みにいかないか?、二人でさ?」
……それから、腐れ縁が始まった。
ミサトは、本当の加持リョウジを知らないままに、別れていた。
リョウジがミサトに惚れたのは、彼女にユイに感じた憧れのようなものを思い出したからだった。
正確には、都合の好い、偶像を。
──甘えられる誰かが欲しかった。
いちゃつける誰かでも良い、ただ、甘く過ごせる相手が欲しかった、それと同時に……
碇ユイ。
彼女のような人に好かれたかった、そして支えてみたかった、そして甘えてもらいたかった。
それが叶わない夢だとしても。
忘れていた夢、そんな時に現れた葛城ミサトという女は、食指をそそられる翳を背負った女だった。
望みのままだった、辛い経験なら、自分の方が山ほどしていると、分かった振りをして、相手の言葉に頷いてやって、じゃれ合って……
好き合って。
暗い話などしたくはない、ただ今を貪って、明るい自分で在り続けたい。
影に囚われたくはない。
気分的には分かる話だった、だから合わせやすかった、それをミサトが優しさだと勘違いしたのは、しかたのないことだったのかもしれない。
「好きな人ができたの」
ミサトはそう言って加持と別れた。
あまりにも分かってくれて、あまりにも融通してくれて、あまりもかまってくれるから。
このまま溺れてしまいそうで……
そんな時に思い出したのが、父の最後の顔だった。
笑っていた、死ぬというのに、笑っていたのだ。
もう、駄目だった、今の幸せが足元から崩れ始めた、必死に掻いて、砂山の上にふりかけた。
だが、砂は山の表面を滑って、また足元に戻って来るのだ。
足を取る幸せの残照に、ミサトは泣きそうになって、恐れから逃げた。
踏み散らかすことができなかった、恐かった。
堪えられなかった。
もし、彼女が本心を明かしていたなら、、加持はユイの言葉を与えていたかもしれない。
幸せは、自分の手で作り上げていくものだと、ミサトは自分で気付いてしまったのだ、人に与えてもらった物では、その下にある、本当のものを隠し切ることはできないのだと。
山の下から顕になったものは、ミサトを脅えさせるには十分過ぎた。
幸せであればあるほど、心は柔くなっていく、そして幸せによって隠してきたものを、直視できなくしていくのだ。
だから、幸せから逃げ出した。
そのミサトが、ネルフに、いや、その前身であるゲヒルンに入ったのは、まさしく幸せになるためだった。
真実から目を逸らさず、この手がどれだけ傷つこうとも、堪えて見せる。
その先にあるはずの『場所』へ辿り着くために。
──決意は立派であったのだが。
「シンジに会えないって、どういうことよ!」
心は、確実に傷ついていく。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。