──僕なんて、生まれてこなきゃ良かったんだ。
 西暦、二千一年。
 某所にある研究所、その実験室という、とても『お産』には似合わない場所に産声が上がった。
 それが碇シンジの誕生だった。


「生まれてこなければ良かった、なんて、言わせはしません」
 彼女はその時、碇ゲンドウと二人きりだった。
 ネルフ本部、後に総司令執務室と呼ばれることになる、まだ何もかものが作りかけの場所で。
 その腕には、幼いシンジが抱かれていた、安らかに眠っている。
 ふふっとユイは微笑むと、指でその頬をつついて遊んだ、赤子はむずがるとその指を掴まえ、そのまま口に咥えて吸い付くようにした。
 ユイはさらに顔を崩した、可愛いと。
「この子には、幸せになってもらいます、どうしても……」
「だが、それは護魔化しにすぎないだろう?」
「そうでしょうか……」
「君が心配しているのは君自身のことだ、君は己の生まれを不安に思っている、君の子として生まれたことを後悔されてはたまらないからと、そうならぬように仕組もうとしている、そう、全てはシンジのためではなく、自身のためた」
「はい……」
 ユイはシンジから指を奪い返した。
 まるで汚らしい物を取り上げるように。
「そうかもしれません」
「そうだ」
 酷く傷つける言葉を吐く。
「その自覚なくして、シンジの幸せなどを語るものではない、それでは嫌悪感が滲むだけだ」
「はい」
「言っているわたしも、お前と変わらんがな」
「あなた……」
 ユイは隣に立つ男の顔を見上げ、切なげに呟いた。
 この不器用な男は、いつも見返りを期待していると悪ぶって、他人にとても優しく振る舞う、あるいは確信犯を装って、何かしらのごまかしをくれる。
 ユイは彼がそうすることで、ようやく心のバランスを計っていることを知っていた。
 素直に人を信じられない、素直に人を受け入れられない、そして素直に人に見せられないから、本当の自分を演技であると形付けている。
 本当の姿は一番表にあるというのに、誰もが彼の真の姿は、その奥に隠されているのだと思い込んでいる。
 そう騙すことによって、彼は自分を晒している、そしてそうしなければ、そう見せなければ、世に脅えるだけで、臆病に居竦むだけで、彼は何もできない自分を知っている。
 碇ゲンドウという人は、ユイからすれば、痛々しかった。


 そんな碇ゲンドウを見ていて、彼女は一つだけ大きな不安を抱えていた。
 それはシンジの将来だった、性格が遺伝することはありえないだろうが、性質がうつることは十分にあり得ると。
 子は親の真似をして、己の母体とするものだ。
 幼少期において、素直に感情を表現し、そしてそれを受け入れてもらえる、ごく当たり前の体験を経なければ、人は彼女の夫のように、内向的な性癖へと落ち込んでいく。
 笑った時に馬鹿にされれば笑わなくなるし、泣いた時に慰めてもらえなければ泣かなくなる。
 他人に求めることをやめるのだ。
「ユイの心配は、分かるけどね」
 ──西暦二千五年。
 箱根某所にある研究所、その一角のラウンジで、ユイと、一人の女性が向かい合っていた。
「もう、キョウコってば……」
 ユイは拗ねるようにして、両手に持ったカップで顔を隠した。
 そんな様子を微笑んでやる。
 ──惣流キョウコ。
 彼女は、アスカの産みの母である。
 今、二人の子供は初顔合わせを経て、他の研究員の子供たちと一緒に、敷地内の芝生の上で遊んでいる。
 このラウンジからは、その様子が良く見えた。
「ほら、手、振ってる」
 ユイは言われて、軽く振り返してやった、するとはしゃいで赤い髪の女の子のもとへと、報告に走っていった。
「あの子は……」
 顔に手を当てて唸ったのはキョウコである、鬱陶しいとアスカが邪険にしているのがよくわかったからだ。
 ユイのジト目にあって、うっと唸る。
「だ、大丈夫よぉ、ほら、シンジ君人懐っこいから、めげてないじゃない」
「アスカちゃんのせいで、人格に傷が入ったらどうしてくれるの?」
「その時は……、責任とって、お婿にでもなんでも貰わせるわ」
「ほんとに?」
「……」
「返事はぁ?」
「はいはい」
「……今度弁護士連れてくからね」
「な、なんでよ!?」
「もちろん、誓約書に名前を書いてもらうためよ」
「せいやくしょ!?」
「うん」
 さらっとユイ。
「シンジとアスカちゃんの、結婚誓約書」


 ──どうかシンジ君が、強くたくましく育ちますようにと、キョウコが祈ったのは言うまでもないことだった。
(母さん……)
 シンジは徐々に、忘れていたものを取り返しかけていた、その中にはとてもたくさんの想い出があった。
 母の言葉通りだった、魂と呼ばれる殻、その中に詰め込まれていく心と記憶、その核となったものは、父と母が授けてくれた、強い希望の光だった。
 忘れてしまった形を取り戻していく、赤ん坊のシンジが、歳をとり、大きくなっていく。
(母さん)
 その体を、優しい光が抱きしめる。


 ──十日目。
 そのころになって、ようやく何もかもが一段落をつけはじめていた。
 興奮が抜けて、余裕が生まれ出している、そうなると人は暇を持て余し、今度は噂話に華を咲かせるようになっていた。
「聞いたか?」
「01だろ?、エヴァンゲリオンと碇」
「ああ、行方不明だってさ」
 変だよなと、皆が囁く。
「ナンバーズの『目』とか『耳』でも見つからないんだって?」
「本部のどこかに、誰にも覗けない場所があるんだってさ、立ち入り禁止で、そこじゃないかって話だけどな」
「でも碇もあれだよな」
「あれってなんだよ?」
「ほら、あれだよ、あいつ、力失したなんて言って」
 彼らはアスカを見付けると、言葉を切って気まずげに体を小さくした。
 冷たい視線を向けて、アスカはそのまま通り過ぎた、もう嫌になるほど耳にした憶測だからだ。
 あの、黒い影の使徒、あれに飲み込まれた碇シンジは戦いに脅えて、アスカ達を置いて逃げ出した。
 そして力を失くしたように装い、暮らしていた。
 ──もう戦わないで済むように。
 勝手なことを言うなと、本当なら怒鳴りつけてやりたかったが、それはできなかった、なぜならまたも悪いのは自分だからだ、後一度だけなら、シンジが乗れることを、憶測ながら感付いていた。
 それを隠し、見張るような、観察するような真似をしたのは、していたのは誰なのか、自分である。
 それを棚に上げて、自分は知っていたなどと、今更口にできるはずがない。
 ──そんな手先のような真似をしていたなどと。
(やだな)
 冷淡な表情とは裏腹に、その心は真に脅えていた。
(アタシまた、シンジのことより、自分のことを心配してる)


 何よりもシンジが大事なら、その中傷から救ってやるべきなのだ、それを今はシンジがここに居ないから、先延ばしにするなどと、自分自身に言い訳を講じて……
 最低だった。
 だが、アスカが腐っているのには、無理のない事情もまた存在していた、それを押し付けたのは……、ミサトであった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。