「天岩戸ですか」
「そうだな、それに近いな」
 ──1990年。
 幾人かの白衣姿の者達が、軽口を叩き合っていた。
「天岩戸と、踊り子に、大力の男、巨人の中から『彼女』を引き出すためには、気を引く物を用意して、浮上した自我意識を、強制的に確定してやる他ない」
「まだ彼女だと決まったわけじゃないでしょう?」
「いいや、彼女だ、そうに決まってる!、でないと何のロマンもないだろうが」
 はぁっと溜め息を吐いたのは女性だった。
「わたしはどちらかと言えば、美形の『少年』の方が萌えますわ、って、え?、引かないでくださいよ、冗談ですってばぁ!」
 決して表に出ることのない研究、それでも夢の段階であったからか、彼らの心はまだ軽かった。


 碇ユイ、彼女のサルベージについては、非常に偶然に頼ったところが多かった、そのために記憶の欠如や、幾つかの点において、非常に大きな問題を残すに至っていた。
 特に、記憶はサルベージに基づくものではなく、その後の処置にこそ問題があったことが発覚している。
 サルベージまでは良かったとしても、彼女の体は外気に触れるには脆弱だった。
 時代が違うこともあってか、抵抗力というものが桁違いに『足りなかった』のである、そのため、感染症や、ついには脳障害までも引き起こした。
『リハビリ』も間違ったものになっていた、記憶がないのか、失われたのか、それとも忘れてしまっているだけなのか?
 取り戻させるために、様々な行いが試された、その無謀な行為が、彼女の心身に傷痕を刻み込んでいた。
 ──彼女が社会へ放り出されたのは、まずは順応させるという、計画のためであったのだ。
 無垢であり過ぎるが故に耐性が無い、多少の粗雑な扱いですぐに傷つく。
 だからこそ、一般社会にてまずは精神面を養わせ、育成するところから始まった。
(そうして、母さんは父さんに出逢った?)


 六分儀ゲンドウとの出逢いが彼女にもたらしたものは、実に計り知れないものだった。
 ユイの知識の大半は、女性所員が面白半分に持ち込んで与えた『文献』、コミックや文庫に基づいているものだった。
 彼女はゲンドウとの対話において、それを参考にして、常々考えていた事を語ったのだ、だが、ゲンドウの人生というものは、まさにそのような、頭の中の物語に、見事に当てはまってしまうようなものだった。
 ツボにはまる、という言葉があるが、ユイがゲンドウに惹かれたのは、単純にそのような理由からのことだった。
(内緒なんだ)
 クスッと笑う。
 ずっと隠し、そしてこれからも隠し通す『つもり』のこと。
 本当は、それこそ『遊び半分』のつもりで、好きになったのだという事実、しかし……
 ──六分儀ゲンドウは、誠実だった。
 それこそ献身的に務め、誠実に働き、実直に行動した、自分から誘っておきながら、息苦しくなるほどの男っぷりだった。
 必然的に、能天気ではいられなくなった、自分のこと、ゲンドウのこと、『遺跡』のこと……
 真剣に考えねばならないことが増えていった、そして調べるに当たって……
 彼女はついに、知ってしまった、この世がいかに危ういか、この世にどれだけの危機が潜んでいるのか、その全てをだ。
 このまま幸せに浸ってはいられないこと、近い内に必ず災厄に見舞われること。
 誰かがなんとかしなければならなかった、責任?、それを考えると、とても息苦しくなってしまった。
 このまま黙っていれば、その責任は、間違いなく自分に降りかかって来るのだから。
 だから行動を起こした、ゲンドウに迷惑をかけることにした。
 ──まるで、自分は最初から全てを知っていて、企んだように見せ掛けて。
 そして、セカンドインパクト。
 結局、暴走を止めることはできなかった、流されるままに終わってしまった。
 ……今度こそは。
 そう、今度こそは、手綱を握り続けなければならないのだ。
 そのためには、どうしても、エヴァンゲリオンが必要だった。


「だから、僕が必要なの?」
 目前の母は語らない。
 無言で佇み続けるのみだ。
 母は言った。
 幸せになるために、幸せの証明、証拠品として、息子を生んだと。
 その母は、今、背中から自分のことを抱きしめている、寒気がしてたまらない。
 不思議なことだった。
 目前に立つ、無表情な母にこそ、暖かみというものを感じるのだから。
「母さん……」
 母は言った。
 人は最初の形を父や母から与えられ、それを核に生まれ落ちると。
 ならば、自分が誕生したのは、少なくともエヴァのためではないのだ、幸せな家庭を築こうとしてのことで……
 けれど。
 人の心は黒か白に分けられるものではない。
 常に矛盾する形で存在する、灰色でもないのだ、白でありながら、黒とも言い、黒でありながら、白も混在させている。
 母は自分勝手な利己主義的な面を孕みながら子を生み、そして子に子の幸せを願いながら育てた、立派に、そして強く大きくなってくれるように。
 使徒との戦いの最中さなかに現れた母の幻影は、そんな母の中の利己的な感情が肥大化し、いびつに目立って見えただけのものだった。
 温もりを与えてくれる母もまた居るのだ。
 一人ではない。
 人格は決して、色がはっきりと分かるほど、たった一つでは成り立っていない。
 いくつもの考えと、悩みと、答えから、一人の人間が出来上がっている、だから答えを出せない部分では、いびつな奇形を取っている。
 ──先の狂った母の姿も、そんな形の一つだった。
 だからと言って、足蹴りにした罪が消えるわけではない。
 自分は、確かに、母を……
(レイ、アスカ……)
 心が暗く沈んでいく。
(僕は、許されないことをしちゃったよ)
 だが。


 ──暗闇に、シュボッと音を立てて火がともる、ジッポだ。
 煙草に火を移し、彼はふうっと紫煙を吹いた。
「甘いんだよな」
 続いて、端末に明かりが付いた、薄ぼんやりと浮かび上がった顔は……
 加持リョウジである。
「司令も、副司令も、シンジ君も、アスカも、……葛城も」
 最後の一人だけ、妙に言葉の響きが違った。
「誰も彼も、あの人のため、あの子のため……、結局は嫌われたくないからって、自分を守るために、悲劇の主人公にして遊んでる、その果てにあるのが幸せか?」
 反吐が出ると口にする。
「誰にも嫌われないままに、楽しいだけの余生を送れるようになるのが幸せなこと、か?」
 ユイさんと彼は独白した。
「俺は、あなたの言ったこと、違うと思ってる、他人に譲ってばかりの生き方は、そりゃ確かに嫌な目には合わないだろうさ、それでおこぼれにはあずかれるし、多少は見返りももらえるかもしれない、『トータル』では幸せになれるさ、けどな、やっぱり人間ってのは欲が深いと思うよ、そんなもので満足できるはずがない、今よりも多くのものを欲しがって生きるのが人間だと思う」
 だから。
「業の深さを競い合って生きるのが人間なんじゃないのかな、好きなように生きて、死ぬ、遠慮しつづけて生きるんじゃない、時には遠慮して生きるんだ、それぐらい身勝手でないと、誰にも犯されない、自分だけの幸せなんて、どうやったって守れるもんか」
 そうやって身勝手に生きなければ、決して大きな幸福は手に入れられないのだ。
 小さな幸せを積み重ねて、如何に不幸から縁遠く生きるかよりも……
 恐れずに、幸せに向かって走るのが、人間という生き物ではないのかと……
 ……どこか加持の物言いは、幼い少年のものに戻っていた。
 そうして誰も彼もが現状に不満を抱いている中、ようやくシンジのサルベージ計画が、実行段階にまで引き上げられた。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。