──空気がおかしい。
 最初にそのことに気がついたのは、一体誰であったのだろうか?
 その空気の中に取り込まれている彼らには、それは決して分かりはしないことだった。
 気がつけばネルフと周辺関係者の全てに、妙な落ち着きの無さがはびこっていた。
「聞いたかよ?、Cクラスの、別府の親」
「ああ、もう一週間以上も帰って来てないんだって?、他にも親が帰ってこねぇって、言ってる奴いたぜ?」
 彼らは声を潜めて噂し合う。
「ここだけの話、諜報部の方でもつかめてないらしいぜ?」
「俺が聞いた話じゃあ、例の場所に泊まり込んでるって」
「例の場所?」
「ああ」
 ごくりと生唾を飲み下す。
「噂の『不可視』ゾーンだよ」


 ジオフロント、ネルフ本部。
 その深部にある『ダークゾーン』、ここには今、多くの優秀な人材が集められていた。
「これだけの人間を使って……」
 それらを統括しているのは、彼女、赤木リツコであった。
「後の処理はどうなさるおつもりなんでしょうか?」
 振り返った先にいるのはコウゾウである、彼は作業員の一人に指示を下すと、後ろに手を組んでリツコに並んだ。
「まあ、それは君が心配するようなことではないよ」
 目前にあるのは巨大なプールである、黄金色の水に満たされた水槽だ。
 その中には、あのリリスが沈められていた、下腹部を割かれて、足を左右に、捻るようにして広げられて固定されている。
 股間部からへその上辺りまで切り裂かれ、剥き出しにされているのは性器と子宮だった、異常なのはそこからである。
 子宮は大きく膨らんで、羊膜を薄く透けさせていた、その中には母体とほぼ同じ大きさの子供が、両手足を折り込んで、小さく丸く収まっていた。
 ──初号機である。
 エヴァンゲリオンゼロワン、その素体だ。
 だが良く見れば、自然な体勢でないことが分かっただろう、骨などにはりついているはずの筋や腱は断たれていた、切り離されて分解されている。
 それらをかろうじて繋いでいるのは、神経と血管の束だった。
 解剖同然の扱いを受けているのだ。
 それもこれも、エヴァからコアを剥き出しにするためである。
 コアは半ばくり貫かれて、折り込まれた手足の間に固定されていた、それ以上は本体と神経束で繋がっているために引き出せないのだ。
 そしてそのコアには、羊膜を破かぬように、慎重に差し込まれた電極のようなものが張り付けられていた。
「このサルベージでは」
 リツコはすうっと息を吸った、やはり気分の悪くなるような光景だったからだ。
「いくつかの、エヴァンゲリオンについての、いえ、黒き月や、アダム、リリス、そういったものに関しての秘密があからさまになっています、それらを知った彼らを、そのまま解放すると言うのですか?」
 コウゾウは不穏当なことをと苦笑した。
「わたしたちには、そこまで物騒な考えはないよ」
 ユイ君に嫌われてしまうからな、とこれは口中で呟いた。
「わたしたちの願いは、純粋にシンジ君を取り戻すこと、それだけだよ」
「エヴァを……、ではないのですか?」
「否定はせんよ、しかし、結果は同じだ」
「ですが」
 リツコは言い募った。
「ではこの作業を非公開としている理由はどうなります?、このことは相当の不信感を広げることになっています」
 チルドレンにだけではないと、リツコは愚痴った。
 親友の苛付いた顔が、脳裏にちらついてしかたがないからだ。
「隠すことによるデメリットは、メリットをはるかに越えます」
「そう思うかね?」
「はい」
 君は政治には弱いからなとかぶりを振った。
「わたしはそうは思わない、メリットデメリットではなく、有か無か、それだけだよ」
「説明を……」
 願えますかと、頼み込む、するとコウゾウは軽く応じた。
「分からないかね?」
「はい」
「先日の会議が良い例だよ」
 不思議そうにするリツコに、コウゾウは深刻な口調で告げた。
「人という補完を受けたエヴァンゲリオン、その驚異は未知数であると同時に、価値は有り余るほどに高い」
「それは承知していますが……」
「君は……、触れて良いものだと思うかね?」
 リツコはむせるほどに息を呑んだ。
「では……」
「そうだよ、今やゼロワンは核よりも恐ろしい現象を容易く引き起こせる存在になった、それを刺激して良いものかね、このような実験紛いの解体ですらも本来は避けるべきなのだよ、ゼロワンが身の危険を感じないとは限るまい?、だからこそ瞬時に自己修復と復元が可能だと思われるぎりぎりのところで解剖を中断している、こうして安らぐようにリリスまで提供している」
 リツコはごくりと喉を鳴らした。
 確かにそうなのだ、今やゼロワンは自立歩行する、この世でもっとも凶悪な兵器なのである。
 ──あの使徒よりも、使徒らしく。
「しかしだね、それでは遅きに失することになるんだよ」
「は?」
「シンジ君を見たろう?、今ならばまだ引き剥がすこともできるだろう、だが安定し、癒着が進んで定着してしまったならばどうだね?、もはやシンジ君を連れ戻すことはできなくなる」
「だから急ぐのですか?」
「ああ、のんびりと議論をして、意見をまとめている暇はないんだよ、それこそ初号機とシンジ君を共に失うことになる」
「そうですか……」
「後には問題になるだろうがね、その時にはわたしが詰め腹を切るよ」
「副司令が!?」
 これにはリツコは仰天した。
 思わずコウゾウの顔を凝視してしまう。
「そんな!、そこまでして……」
 だがリツコはそれ以上の言葉を失ってしまった、それはコウゾウが非常に誇らしげな顔をしていたからだ。


 赤木リツコには理解できないことだっただろう。
 子供に重荷を背負わせて来た罪悪感から、自己犠牲の精神状態に犯されているというのなら、もっと申し訳なさそうにしていても良いはずだ、それが、どうして、何故?
 実際、コウゾウにしてみても申し訳なさが無いわけではなかった、しかし、それ以上に、自らが満足できる道を、自ら選んだのだ。
(ユイ君、君のいう通りだな)
 幸せはやって来るものではないし、他人のおこぼれに預かるようなものでもない。
 幸せな人の傍に立ち、同じ時を共有するだけでは、快楽は得られても、心を満たすことは絶対にできない、逆にその時限りの楽しさは、後になってさみしさとさびしさをより感じさせるだけの『落差』を生み出すだけなのだ。
 そうして、シラフに立ち返ることを虚しく感じるようになっていく、これを埋めるために、人はより強い快楽と享楽を求めて狂っていく。
 身勝手になっていく。
 それは麻薬に流れが似ていた。
 楽しみに浸ることと、満足感を得ることとは別なのだ、人を溺れさせるほどの享楽には、確かに麻薬的な魅力が潜んでいるだろう、しかし、充足感は永遠無限には続かない。
 麻薬の泉は、いつか枯れてしまうものだからだ。
 真に満ち足りるためには、自ら結末を選択し、それを成しえなければならない、その達成感こそが、唯一人を幸せにするのだ……、とコウゾウは考える。
(その志し半ばで君は倒れた、碇が引き継ぎはしたが、それも怪しくはある、あいつの力の源は未だに君への執着心なのだからな)
 自分を棚に上げるようなことを考える。
(わたしは真実を知りたくてここへ入った、そうだ、碇に誘われはしたが、自分の意志でだ、君に誘われたわけではない)
 だから。
(勝手な思いかもしれんが、迷惑だとは思わないで欲しい、わたしは、君の信じた碇という男と、君が愛した息子が犠牲になるよりも、老いぼれ一人で済ませた方が良いと思う、それだけのことだ)
 それは確かに自分勝手な自己陶酔であり、自己満足の現物であった。
 しかし……
「傷と引き換えに満足を得る、か……」
 彼はそんな風に評価した。
 加持リョウジである。
 彼の脳裏には、コウゾウの言葉が渦巻いていた。
『君はユイ君の教えを、何か誤解しているんじゃないのかね』
 ふっと嘲笑うかのように口元を歪める。
「それはあなたの方でしょうに、副司令」
 そんな自己完結の果ての押し付けが、本当に受け入れられると思っているのだろうか?、それでは満足するのは自分だけで、他人は迷惑だと唾棄するかもしれないのにだ。
 ならば根拠はどこにあるのか?、身勝手になれる根拠は?、それは信じているだけだ。
 自分の中にある、碇ユイという偶像が、彼女の真実の姿であると、その虚像を絶対視している。
 決して『わたし』を裏切らず、失望させず、『わたし』の行動を喜ばしいことだと評価してくれると信じている。
 欲望を交えた理想像を、間違いであるのか確かめようともしないままに。
「まずはそれに気付くべきなんですよ、それからなら説教も聞きますがね」
 リョウジはそんな風に蔑んだ。
 何故こんなにも簡単なことが分からないのだろうかと馬鹿にする、もし誰かが自分のために、犠牲となって、礎となって、未来を残してくれたなら?
 のうのうと生きることなどできるだろうか?、答えは否だ。
「そうでしょう?、『あの人』は喜びはしませんよ」
 むしろ迷惑に思うだけだと、リョウジはそんな評価を下した。
 感謝や、畏敬の念を期待して、自分の行動を押し付ける。
 そんな行為に、果たしてどれだけの意味があるのだろうか?、身を捧げることで、彼女に愛してもらえるとでも思っているのだろうか?
 確かに刻まれはするだろう、彼女の心に、嫌な想い出の一つだとして。
「奉らなければ冷たいと誹られ、感激するには後ろめたさが邪魔をする、そんな風に追い込んで、どうしようってんですか?」
 第一。
(副司令は勘違いしてるんだよ)
 リョウジは目を細めた、過去を振り返って、微笑して。
 そこには碇ユイの姿が思い浮かんでいた、光の中で笑っていた。
 いつも前だけを見ていた、眩しくて直視できなかった。
 幸せになるために、懸命に生きていた、だかこそ輝いていた、彼女は誰かが自分に囚われて生きることを望んでいただろうか?
 彼女は彼女なりに描いた未来へと辿り着くために戦い、果てたのだ、ゲンドウのやることも、コウゾウの思い込みも、すべてそんな彼女の輝きを陰らせる。
「幸せになってもらって、感謝してもらって、満足して死ぬ?、ユイさんの教えはそうじゃないでしょう?、あの人は幸せをこの手で掴めと言ったんだ、自分の幸せを追い求めろとね、それをどいつもこいつも、人に期待して、押し付けて、まったく」
 吐き捨てる。
 そんなとても幸せだったとは言い難い終わり方ばかりをされては堪らないからだ。
 満足はできるだろう、しかし幸せだったと言えるか?、自分に酔うことはできるだろう、だが満たされるのか?
 彼女が、もし、今ここに居て、息子や、夫の孤独な姿を見たとすれば、彼女は顔を曇らせるだろう。
 たったそれだけのことが、なぜに分からないのか?
 リョウジはふっと自嘲した。
「だから苛ついてるのか?、俺は」
 彼女に本当に喜んで欲しいのなら、顔を上げて、背筋を伸ばして、未来へ向かって歩くべきなのだ。
「アスカも、レイちゃんも、望んでいるのはそういうことなんだよ、シンジ君」
 煙草を灰皿に押し付ける。
 画面の向こう、エヴァの前には、複数の子供たちが、戸惑う顔を見せていた。



[BACK][TOP][NEXT]


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。