──渚カヲルの帰国に、良い顔をした者はいなかった。
 ほっと胸を撫で下ろしたのは、彼に邪な価値を抱いていた者たちばかりだ、それもまた裏の話であり、表向きは『エヴァ狩り』の帰還だとばかりに皮肉られていた。
 カヲルは埃のただよう、薄暗いビルの中に入り込んだ。
 闇に包まれているというほどではないが、それでも目を細めなければ分からない程度には薄暗い。
 ワンフロア、壁に大穴が空いて全室が繋がっていた、あるいは壁は倒れていた、暴徒が略奪を働いた跡なのだろう。
 もう十数年も前のことだというのに、セカンドインパクトの傷痕が、ここにははっきりと残されていた。
 荷は、ない、すべて持ち出されていた、きっとどこかのだれかの食料に、化けてしまったことだろう。
 一歩踏み出す、足の下で何かが割れた、ガラスだった。
 見下ろせば、爪先に人形が転がっていた、女の子の人形だ。
 カヲルはそれを拾い上げると、軽く手で埃をはたいてやり、手短な台の上に置いてやった。
「……やさしいな」
 そんな場所の、奥まった位置にあるベッドの上から声がした。
 ベッドと言っても、残されているのは台だけだ、それも、かなりくたびれていて、腰かけるだけで壊れてしまいそうな代物だった。
「まるで別人だ」
「そう思うかい?」
「以前のお前には、人らしさというものが欠けていた……、そう、まるで心を殺しているかのように」
 カヲルは両手をコートのポケットに入れて苦笑した。
「事実、殺していたのさ」
「……」
「でなければ、僕は死んでしまいそうだったから」
 彼は足元を見つめたままで回想した。


 スクールがあった。
 学校、と呼ばれている強制収容所だ、表向きは訓練校であったが、誰もがそこが忌まわしい『能力者』を閉じ込めるための檻であると、知っていた。
 校長室の窓から、そんな学園を見下ろしていたのがカヲルだった。
「彼らにとって……、これは幸福なことなのでしょうか?」
 答えるものは誰も居ない、本来のこの部屋の主は、いま校庭で行われている、アジテーションに必死である。
 その前には、生徒たちが並んでいた、だれもがぎらついた目をしている、顔にあらわれているのは不満だった。
「そんなにも、誇示したいんだろうか?、力を」
 しかし誇示とは、それに驚嘆する者があって初めて成り立つものだ、そして驚嘆よりは驚愕、さらには恐怖の表情と、返されるものが強くなればなるほどに、その演じ手の興奮指数は増していく。
 なんらの力も持たない、『か弱き人々』を、一方的に蹂躪する。
 すべてはそれに尽きるだろう。
 彼らはそこへ行きつかなければ、決して満たされることは無い。
「いや……」
 カヲルはかぶりを振って、背を向けた。
「満たされる、それは嘘だね、一時の興奮に酔いしれることはできても、決して満たされることはない……、ゲームと同じだよ、そして興奮はいつか冷めるものさ、それに気がついているからこそ、夢から冷めるのを恐れて、皆けんめいに走り続けようとする、息が切れるまで、恐いから」
 そして持続性がないゆえに、いつかは我にかえって、虚しさに囚われる。
「それでも……、いいのかもしれない、でもね?、己のことだけを省みて、他人を傷つけることを厭わないというのなら、その力、失ってみるが良いさ」
 そして。
「同じ弱者の側に堕ちてみるが良いよ、自らを自ら裁くために」


 それまでのことを振り返れば、己がなにをしてきたかに、恐れることになるだろう。
 自分も同じ目に合わされるのだと、だがことはそう単純ではない、これからはいじめられる側になるのだ、いじめていた連中からも仕返しをされるのだ。
 ──それでは、済まされはしないのだ。
「ここに暮らす子供たちは、みな臆病なんだよ」
「……」
「お前は、それに気付かなかった」
 カヲルは黙り込んでしまっていた。


 小雨の降る夜だった。
 能力者が盗みを働いた。
 そのために出たカヲルが追い詰めたのは、まだ小さな女の子だった。
「あ、ああ、あ!」
 カヲルが能力を奪うと、少女は狂ったように泣き出した。
「自分の罪を、悔いるが良いよ」
 あの時には、少女の嘆きの意味が分からなかった。
「いやっ、いや!、いやぁ!」


 ──顔を上げる。
「少しは、僕も学んだよ」
「ほう?」
「体を小さくして、脅え、震えているしかない、腐っていくだけの日常……、そこから抜け出すためには、『スペシャル』ななにかが必要だった、そう」
「そうだ」
「『エヴァ』と呼ばれる力は、自分を特別な存在にまで引き上げてくれる、もう、脅えずに済むようになる、すがるための」
「だがお前はそれを取り上げた」
 彼が立ち上がったからだろう、漂う埃が、酷く動いた。
「そして取り上げられた者たちは、またあの日常に戻らねばならないのかと嘆き、悲しんだ」
「でも人に危害をくわえていたことも事実だよ」
「それは裕福だからこそ言えることだ」
 カヲルはうっすらと笑みを浮かべた。
「どうかな?」
「……?」
「僕は、会ったよ、何もないのに、力を与えられても、それすら有り難がらない、特異な人をね」
「……それが、お前を変えたのか?」
「そうだよ?」
 カヲルは銃を抜いて、身構えた。
「だから、僕はここに来た」


 銃声が響いて、次に起こったのは爆発だった。
 ビルの一面が吹き飛んで、脆くなっていた外壁を粉塵と共にぶちまけた。
「くっ!」
 その中から現れたのはカヲルだった、驚いたことに煙を払いのけ、宙に浮いている。
『ATフィールド、使えたのか』
「使えるようになった、と思ってくれていいよ」
『エヴァが成長したとでも?』
「解釈としては、そうだろうね」
 事実は違うが、教えるつもりは毛頭なかった。
 力の本質と、その関係を学べば、自ずと答えは見つかった。
 カヲルは日本で起こった事件の資料を、ゼーレ経由で手に入れていた、何故シンジが死ぬような目に合ってまで生き延びたのか、取り込まれるようなことになったのか?
 エヴァとは魂そのもののことだ、本来は秘められたまま解放されることなく終息していくはずのもの。
 しかし、何億年もかけてれんめんと育まれて来たこの命の力は、死を迎えようとも消失することなく、生まれ変わりと呼ばれる継続を受けて、より大きく、またたくましく育っていく。
 カヲルの力は、人からエヴァを奪うものだった、それはすなわち、人の『命』を食らうということだ、奪い取るというものだった。
(僕の中には、これまでに取り込んで来た人々のエヴァが、宿っている)
 それに気がついた時、カヲルは誰よりも強力に、誰よりも多様にエヴァを発現できるようになっていた。
 ──そして。
「僕はより強くならなければならない」
『なんのために』
「でなければ、彼に悪いからさ」
 冗談っぽく、彼と言いつつも、カヲルの脳裏に浮かんでいたのは、アスカの顔だった。
 最後の、キスをした時の顔の、いや、する寸前の顔だった、もうしわけないと眉間に皺を寄せていた顔。
 自分は、彼の思い人を惑わせたのだ、そのことについて彼は怒るよりも身を引く道を選ぶだろうが、だからこそ、情けない、弱い、なにもできないような自分であってはならないと思う。
(そう、彼が僕に落胆し、嘆いたりすることのないように)
 それが横恋慕をした人間の、最低限の義務だろう。
 あのシンジが好きな、あのアスカを悩ませた人間が、この程度の存在ではいけないのだ。
「だから、僕は、君を食らう」
 ビルが裂け、何かの足が見えた、重さに堪え切れず、踏まれて建物が崩れ落ちる。
 のっそりと姿を見せたのは、のっぺりとした白い顔をした巨人だった、長細い、目のない顔だ。
「でたね」
 カヲルは背後のビルの上に立った。
「それが、君の本当の姿か」
『そうだ』
 風が洞窟を抜ける時のような声を吐く。
『お前をサンプルに、新たな生命の形を模索しようとした者達が居た、だが、暴走したエヴァは、俺にこの形をくれた』
 顔は違う、雰囲気も違う。
 だが、その姿だけは、まぎれもなく、『白いエヴァンゲリオン』だった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。