──唇の感触。
 惹かれていないと言えば嘘になる。
 それでも自分はシンジを選んだのだから、忘れなければならないはずのことなのだ、なのに、ふいに思い出してしまうことがある。
(裏切りよね)
 これって、そう思う。
 だがシンジに言うわけにはいかない、カヲルも黙っていてくれるだろう……
 永遠に隠せる秘密だ、なかったことにできる話だ。
 だけど……、それもやはり裏切りだろうか?、だが、シンジに知られるのは恐いのだ。
(きっと……)
 そっかと、距離を置かれてしまうから。
 どんなに言い訳を重ねようと、そっかと、離れられてしまうから。
 だが……
(レイ、どうしたのよ?)
 今日の迎えにも誘ったのだが、用があると断られたのだ。
 アスカにとっては、レイもまた、心配の種ではあった。
 彼女自身も心配ではあるのだが、彼女が抱えている大きな秘密は、シンジに関ってくるものだから。


「……」
 その頃、レイは街に居た。
 ファーストフードショップの二階で、軽い昼食を取り、今はジュースをすすっていた。
 いや、ジュースとはもう言えないだろう、彼女は紙コップの中に入っている、小さないくつもの氷が溶けるのを待って、ストローですすり上げているだけなのだから。
(シンジクン、もう、家に着いたかなぁ……)
 どうにもぼんやりとしてしまう。
 知りたければ力を使えば良い、ところが最近、何故だかその気が起きないようになってしまっていた。
 今まで、平然と、当たり前のように行使して来たものなのに。
 ──原因は、簡単なことだった。
 そして自分でもわかっているのだ。
 忌避している。
 気付いた時から、持ち合わせていた、この力を。
 使うことで、どこか、なにか、シンジたちに対して、申し訳ない立場にあることを自覚させられてしまう気がして……
 使えない。
(バカよね)
 使わないからと言って、それで解決することはない、また、問題が進展、拡大しないこともない。
 保証ではない。
 事態は止まることなく動いているのだ、レイにはその確証があった。


「死産か」
 冬月である。
 彼はリリスの前に居た。
「無残なものだな」
 処理されているのは、初号機の亡骸である、エヴァ01、それはもはや『屑』と分類される、廃棄物にまで落ち込んでいた。
「しかし、シンジ君は助かりました」
「赤木君か」
 やって来た彼女に、コウゾウは肩越しに目をやった。
 いつもの白衣姿で、ポケットに手を入れている。
「いいのかね?」
「はい、今はデータの整理中ですから」
 他の者で十分だと言い訳をする。
 彼女はコウゾウの隣に並んで口を開いた。
「死産……、とは言い過ぎではないのでしょうか?、少なくとも、『一人』は助かったのですから」
「双子として見てということかね?」
「はい」
「ふむ……」
 考え込む、双子の受胎には、時折それはあることだからだ。
 片側が片側の栄養分まで奪い取り、殺してしまう、その結果、死亡した片割れに毒されて、死んでしまう。
 母体までも危うくして。
 それを考えれば、死んだのがエヴァンゲリオンだけなのだから、まだマシではあろう。
「……」
「なにか?」
「いや……」
 だが、どうしても解せないことがある、それは教え子たちのことだった。


 碇ユイ。
 彼女が死んだ時、コウゾウはその場に居合わせた。
 エヴァンゲリオンの再生実験、その後、ゲンドウがまるで妻に語り掛けようとでもするかのように、初号機の前に佇んでいるのを目撃している。
 事実、ユイは死んだのではない、吸収されてしまったのだ、再び。
 ならば、取り戻すことは可能だろう、だからこそ、あの男は堪えていたのではないのか?
 妻の言葉を信じて、それが……
(何故だ?)
 ゲンドウは、初号機の、いや、ユイの破棄が決定したというのに、なんらの動揺も見せていない。
 それどころか、落ち着いたもので、全ての成り行きを受け入れている。
 まったく、らしくないと言えた。
「もはやわたしには、あいつの考えはわからんよ」
 極秘の通信である。
 コウゾウの相手をしているのは、アレクだった。
「わたしも探りを入れてみましたが、ダメでした」
 深い深い、溜め息を吐く。
「世界平和のために、妻と、息子を生贄にする……、そんな殊勝な男ではないはずなのに」
「建前が立派過ぎる、それだけに胡散臭いのだがね」
「ですが、言うことが高尚であればあるほど、わたしたちにはつけいる隙が見つかりません」
 確かに、裏もなく、損得を抜きにして動く人間の言葉など、真に受けるだけ愚かなことだと言えるだろう。
 だが、人間は理屈だけで成り立っているわけではない、あるいは、複雑な感情や考えが入り乱れて、人間として成り立っているものなのだ。
 その辻褄が、他人には合っていないように見えるから、理屈ではないのだと総評するしか無くなっていく。
 だが、当人には、本人にだけは、何かしらの考えが、きちんと理屈だっているはずなのだ。
 それが読めない限り、説得することは難しい、何故なら、どんな言葉も、的外れとなり、決して伝わりはしないから。
 ……第一、説得とは、なんのためにすることなのか?、相手の事情もわからないで、表面だけを見て説得したとして、なんのために行うというのか?
 自分にとって、現在の事態が不利益に通じているから?、そんな瑣末的なことでするというのか?
 大体が、本当にそれは、不利益に通じていると言えるのだろうか?
 確かに、恐い、彼のやっていることは狂人じみて見えて、止めたくなる。
 だが、世界的な観点から見れば、彼は世界を救おうとしているのだ。
 それを止める理由が、あるだろうか?
「難しい問題だな」
「はい」
 事の発端は、どこかの誰かが、白き月を見付け、そして碇ユイという人間を、現代に蘇らせたことにある。
 もしそれが表沙汰となり、公表されてしまったならば、ネルフは、そして碇ゲンドウは、必ずや排斥されてしまうだろう。
 事態の推移など考慮されずに、自らの行いによるツケのようなものを、自らの手で隠蔽し、処理するために、全ては計画されたのだと見られるだろうから。
 その時、ネルフは解散の憂き目に合うだろう、そして、チルドレンは各国の直下に置かれるだろう。
 月のことなど放置して、人同士の、利得の奪い合いに動くのだ。
 そして、月は……
「我らも、裏死海文書を作らねばならんのかもしれないな」
 コウゾウはそんな具合に、悲観的な観想を胸に抱いた。


 月は、待っている。
 やがてそこに至るのを。
 だが、待ち続けていられるほど、気の長い存在ではないらしい、だから『彼』は進展を促した、刺激のようなものを与えて。
 それが使徒だと、誰かは言う。
「地上に使徒が溢れ出す」
 そして戦いは、全世界的な規模に発展し、やがては殲滅戦に移行する。
 かつて、レイと呼ばれた人造の生命体が戦った世界と、同じ結末へと進むのだ。
 だが……、と碇ゲンドウは考える。
(完全なる生命体を次なる主として星にばらまくというのだ、人など淘汰されるに決まっている、それでは月に滅ぼされても同じだろう)
 当初の計画では、月に、かつてリリスとなったレイのような存在を与えることで、月を眠らせることになっていた、だが、それではどうなのだろうか?
 本当に、それで解決するのだろうか?
(違うな)
 それでは、また問題を先送りするだけになる。
 再びレイや、ユイ、シンジと言った者たちを、生み出すだけのことになる。
(月は所詮、行き詰まった人類が、さらなる昇華を求めて生んだ、愚考に過ぎん)
 自然の法則を無視して、人工進化しようとした、そのシステムが、この星に、こんな歪んだ仕組みを残している。
「衣服は……、いずれは着られなくなるもの、か」
 口元に笑みが浮ぶ。
 眼前には、夜の海が広がっている、この方向には月は見えないが、明るさから月が出ているのは分かる。
 ゲンドウはそこにユイを見た。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。