リツコの部屋を辞したシンジは、そのままアスカを見舞うべく、医療棟へ向かって歩いていた。
『……』
そんなシンジとすれ違った幾人かの職員が、みな同じように振り返って目をこすっていた。
確かに宙を漂う女の影が見えたのだがと。
しかし目を凝らしてシンジの背中を見つめても、そのような影は見つからない、結局誰もが気のせいだと思い直して歩き去る。
そして彼らに疲れを自覚させている元凶は、確かに『そこ』に存在していた。
不思議なことに、少しだけ、ほんの少しだけ色を増している。
「……」
だが取り付かれているらしいシンジ本人は、まったくそのことに気がついてはいなかった。
先程リツコと話したことが尾を引いて、周囲の反応に気を配ることさえ忘れさってしまっていた。
●
「確かめないとわからないんですけど」
シンジはそう前置きして、あの時コダマから発せられた言葉を伝えた。
「アスカを連れていく?」
こくりと頷く。
「でも……」
シンジは戦いが終わった時のことを思い返した。
爆発の中、必死にATフィールドにより熱波を避けた。
そして熱によって歪む視界の向こうにアスカを見付けたのだ、彼女は自らが発するATフィールドの殻によって包まれていた。
ふわりと漂う彼女を両手で包み込み、助け出した。
「でも……」
モニタを見る。
「僕は本当にアスカを救ったんでしょうか?」
「それが気になることなの?」
「はい」
深刻な想像をしていることが読み取れる声だった。
「聞かせて、なにを不安に思ってるの?」
「コダマさんとは……」
そこから入る。
「コダマさんとは、居心地が良くて付き合ってました」
「アスカよりも?」
「はい、コダマさんの力は人の心の……、機微っていうんですか?、そういうのを読み取れるものだったから」
なるほどとリツコは納得した。
「確かに、気持ちを察してくれるって意味じゃ、居心地は良かったでしょうね」
リツコはあえて次の問いかけをした。
「寝たの?、コダマさんとは」
「いえ……」
「なぜ?」
「え?」
「シンジ君の歳ならもうおかしなことじゃないわ、なのに求めなかったの?」
からかっているわけではないのだとリツコは付け加えた。
「理由があるんでしょう?」
シンジはこくりと頷いた。
「怖かったんです……、人の目が」
「人の?、経験したと思われることが気になりそうだったってこと?」
「いえ、反応です、ええとうまく言えないんだけど……、ほら、芸能人とかがそうじゃないですか」
「は?」
シンジはコダマの部屋に転がっていた雑誌のことを引き合いに出した。
「芸能人とかって、別にただの友達でも、男の人と女の人だってだけで、付き合っているってことにされるでしょう?、部屋に行っただなんてことになったら、結婚秒読み、なんて言われちゃって……」
「そうなることが怖かったの?」
「違います、別にそんなことはどうだって良いんです」
「ますますわからないわね、なに?」
「……そうなった時、僕はアスカやレイにどう接すればいいんですか?、それがわからなかったんです」
やはり何が言いたいのか上手く汲み取れなくて、リツコは返答に困ってしまった。
「複雑にはなるでしょうね……」
「はい、アスカは僕に何かを求めてます、レイは……、どうなのか正直わかりません、けど」
これは内緒にしておいてくださいとシンジは言った。
「アスカは僕に対して負い目を持ってますよね、そのことで苦しんでます」
「知ってるわ……、それが?」
「それを解消するために僕を利用……、じゃないな、僕とどう付き合えばいいのか、それを悩んでるんですよ、悩んでた、かな?、僕が他の人と付き合っても、それで僕が幸せになるならとかって……、でも、けど、そんな感じで悩んでました」
「よくわかってるのね」
「わかりやすいですからね、それに……」
「なに?」
苦笑して告げる。
「アスカは何度か、助けてって合図を出してくれてたから」
「え?」
「わかるんです、僕がそうだったから……、助けて欲しい、かまって欲しいって」
先日、実家にまで付き合わされたことを思い出す。
「正直に口に出して良いものかどうかわからない、だから僕から切り出して欲しい、そんな意図が見えるんですよ」
相変わらず自分に当てはめるのが上手い子だとリツコは感じた。
「それで、アスカは迷っていたのね?、何かを」
「それをコダマさんに教えられました」
「コダマさんに?」
「コダマさんは言ってました、アスカは何かを望んでる、僕はそんなアスカの意識に引きずられて、アスカの望んでる自分を演じてるって」
そんなことがとリツコは驚いた。
「ありえないわ……、それじゃあまるで汚染じゃない」
体が震える。
「でも……」
「え?」
「僕はそれが悪いことだとは思ってません」
「シンジ君……」
「僕だってそうですよ、かまって欲しくて、慰めてもらいたくて、可哀想な自分を演じて人を騙して、そういうことしてたし」
「……」
「誰にだって、そういうことってあるでしょう?」
それにとさらに理由を付け加える。
「アスカは……、確かに僕に罪悪感とか持ってたかもしれないけど、僕はそれだけじゃないって知ってるから」
「なにを?」
「……僕はアスカに酷い目に合わされました」
それも忘れられないようなことばかりと愚痴を吐く。
「でもそれが辛かったのは、優しかった、好きだったアスカの記憶があったからです、どうしてって、なんでって、アスカが変わってしまったことが辛かったんです」
「そう……」
「それを僕は乗り越えました、アスカをもう別人なんだ、他人なんだって割り切ることで」
「……」
「こっちに来てからのアスカは……、そのことを真剣に反省してくれてました、確かに嫌な目で見られたくないって気持ちもあったかもしれないけど、それでも」
待ってとリツコは制した。
「どうしてそこまでわかるの?」
「え?」
「そこまでアスカを理解できているのは、何故?」
困惑するシンジに、リツコは悪かったわと先を促した。
(コダマさんとの接触が原因?)
そう勘繰ってしまう、だがそれ以上に自覚がないことを重要視する。
「つまり、あなたはこう言いたいのね?、アスカには確かになにかしらの下心があったけど、それだけでもなかったって、人の心はロジックじゃ説明できないものだもの、好きでありながら嫌いでもある、傍に寄りたいと感じながらも、あまり近づきたくないと恐れもする、自分勝手、我が侭な願望の中には、確かにあなたへの好意やいたわりの心が隠されていた」
「はい、だから僕はアスカを……」
その先の言葉を、シンジはあえて飲み込んだ。
「でも……」
「なに?」
「それが問題なんです」
「え?」
シンジは真剣にリツコを見つめた。
「リツコさん……」
「なに?」
「人類補完計画って知ってますか?」
何故それを、そう叫び掛けてリツコはなんとか留まった。
「知ってるわ……」
「これは僕の想像なんですけど……」
所々躓きながら考えを明かす。
「補完計画って、もしかして月が考えたものなんじゃないんですか?」
「……今なんて?」
「ずっと思ってたんです、どうして使徒は僕たちを刺激するんだろう、強くしようとするんだろうって、その答えが今度のことでわかりました、使徒は敵じゃないんです」
「敵じゃない……」
「はい」
リツコは鋭い目でシンジを見据えた。
「あなたは……、何を知ってるの?」
一体何に気がついてしまったの?、そう問いかける言葉に対して、シンジは暫く悩んだ顔を見せた。
「コダマさんなんです……」
「コダマ?、あの子が?」
「コダマさんとのやり取りの中で、アスカは『僕にとって』一番大事なものを失ったんじゃないかって感じたんです」
「あなたにとって?」
「はい」
毅然とした風を装い、口にする。
「僕に対する、いたわりの心です」
リツコは鋭く息を呑んだ。
「いたわり……」
「そうです」
深刻になる。
「僕は早くに母さんを亡くしました、それから父さんに、捨てられたも同然で親戚の家に置き去りにされました……、そんな僕を憐れに思って慰めてくれたのはアスカなんです、アスカは確かに僕をいたわってくれてた」
「コダマさんが連れて行くと言っていたのは、アスカの心のことじゃないかと言うの?」
「はい」
考え込む。
「でもなぜ?、なぜコダマさんはそんなことをする必要があったの?」
シンジは決意を込めて口にした。
「それが人類補完計画に繋がるとしたら?」
「シンジ君?」
「そのために必要なものだったとしたら」
「何故そう考えるの?、アスカがあなたへの気持ちを忘れたとして、それが……」
違いますよとかぶりを振った。
「僕に対するいたわりの心が必要だったんですよ、コダマ……、使徒、月にとって」
困惑するリツコに、さらに詳しく説明をする。
「わかりませんか?」
もう一つのシンジの『心』が顔を出した。
「僕には力がある……、『世界』を創造できる力です」
ぞくりと来る。
「シンジ君、あなた……」
だがシンジはリツコの怯えた顔に気がつかない。
「でもですね……、もしここの誕生、いえ、この世界の始まりとなった人が、何か大事なものを持っていなかったとしたら?、それがこの痛みばかりの世界の元凶になってしまっているのだとしたら?、使徒……、月の求めているものが、それを『補完』するためのものであったとしたら?」
「何を言ってるの?」
「いたわりの心ですよ」
狂気を浮かべて演説を打つ。
「自分勝手、身勝手な心、それを抑制できるのは理性、他人へのいたわりの心ですよ、そうでしょう?、けれどこの世界の人たちにはそれが欠けていた」
「人は人を愛することができるわ」
「それこそ錯覚ですよ」
シンジははっきりと言い切った。
「自分の都合に沿う形、希望に見合ったものが手に入るのならば、人は愉悦に浸って優しくもなりますよ、けれどそれは本当のいたわりの心じゃない」
でも。
「もし僕がエヴァで新しい世界を作ったとしたら?、そこに誕生する生命に、僕へのいたわりの気持ちがインプラントされていたとしたら?、そこに生まれる生命は、世界全部を大事にしようと『いたわる』かもしれない」
「……」
「二つの月は争って、この世界を滅びの寸前に追い込んだ、もしそのことを悔いているのだとしたら?」
「月が?、まさか……」
「感傷でなくても、純粋に生命を繁殖させるための環境を破壊してしまったことへの反省……、そういうことは考えられませんか?」
リツコはふうっと息を吹いた。
「そのために……、使徒は『適任者』と、『適格者』を求めたと言うの?、世界を創造するに相応しい力の持ち主と、その人物に執着心を抱いている誰かの出現を」
はいとシンジは頷いた。
「世界を創世するに相応しい力の持ち主と、そこに生きる種の根源として適当と思える『精神』と『肉体』を持った存在を……、もしかすると父さんは、最初その役目をレイに任せるつもりだったんじゃないでしょうか?」
「レイに!?」
「だとしたら、今度のレイにそっくりな人の行動も説明がつくんじゃないでしょうか?」
考え込む。
「確かに……、アスカのことを見落としていたなら、有力株であるレイをわたしたち自らの手で封印させるには、都合の良い方法ね」
「はい」
表情が元のシンジへと戻って行く。
「争いのない、穏やかな世界、互いを支え合い、いたわり合う心を持った命たち……、そんな世界って、きっと『楽園』のような世界なんじゃないんでしょうか?」
「それが人類補完計画」
「僕はそうじゃないかって……」
リツコは軽い失調感に襲われた、眩暈を感じた。
(人類を補完する……、この世界の人類に進化を促し、次の世代の主を作る計画、そう思っていたけど、違ったの?)
『新時代』ではなく、『新世界』創造への調整、その可能性に頭痛がしてくる。
「あなたは……、そのことを承知して?」
「まさか、言ったでしょう?、きっかけはコダマさんとの会話なんだって、色々と考えて、そうじゃないかって思ったんです」
「そう……、そうよね、そうでしょうね」
でなければこれほど落ち着いてはいられないだろうと思う。
最初から知っていたなら、諦めが立ってしまっていたであろうと。
(達観に近い……、けれどそれは危ういバランスの上にあるわ)
今はどうするべきかわからないから、小康状態を保っているのだと、リツコは読んだ。
[BACK][TOP][NEXT]
新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。