一人狭い部屋の中で、ぼんやりとマウスを操作している女性が居た。
赤木リツコである。
彼女は意味もなくウィンドウを開いては閉じていた、あるいは影に隠れたものを表に出しては、また別のウィンドウで隠していた。
(シンジ君……)
彼の言葉が難しい。
(ATフィールドってなに?)
──心の壁。
(なんのために壁がいるの?)
──傷つけられるのが怖いから。
(でも壁を作っていては安らぎも温もりも得られないわ)
──けれど壁を作ることで初めて安心できる人間もいる。
リツコは違うかと吐息を洩らした。
「前提条件が違うのね」
再び自問自答をくり返す。
(リリス、そう呼ばれる月との接触者は単体で産み落とされた、堕胎とも考えられるのは何故?)
──人は一人では生きてはいけないから。
(失敗作と判断された?、でも複数に別れたところで元は一人よ、補完し合うのは本末転倒だわ)
──だから一つに戻るというの?
(それは違うわね)
──では複数であることの意義はなに?
(必要性の問題?)
──でも使徒とエヴァは互いを食って一つになった。
(なんのために?)
──素材の無駄であるから。
(素材?)
──完全な他人との融和は同化と同じ、個々に存在する意義がない。
(でもシンジ君はエヴァと融合し、わたしたちよりも強力な固体に……)
その時、リツコは漠然と浮かんだ考えに怖気を感じた。
(だめよ、具体的に考えちゃ!)
だがもう全ては遅かった。
──進化は環境への適応に過ぎず、究極体への手段ではない。
がたんと立ち上がる、マウスがテーブルの端から落ちて、コードに引き止められ、ぶらりと垂れ下がった。
「そう……、なの?」
前髪を掻き上げる。
白衣のポケットから煙草を取り出す。
力任せに握り締めているそれは、ぐしゃぐしゃに潰れていた。
震える指で、もっと震えている唇で食む。
なかなか火を点けることができなかった。
ふぅっとようやく一息吐く。
そうしてリツコは、壁にもたれて、そのまま崩れ落ちるように、床の上にしゃがみ込んだ。
煙草を咥えたまま、口中で呟く。
「適応は必要に迫られて起こるもの……、試行錯誤するものとは違い、その場凌ぎのものでしかない、だからこそ究極を目指すのならば、無駄な遠回りになるだけのものでしかない」
それは積み木細工のような物なのだとリツコは仮定した、一つの生存適応形態に辿り着くためには、別の形態、形状、そして能力をあえて崩し、失うこともまた必要になるのだ。
決して全てのブロックを、完璧と言える因果律をもって、積み上げるような行為とは違う。
「人が息をするために、えら呼吸を忘れたようにね……」
だけどとリツコは立ち上がった。
「エヴァ……、それは魔術そのものよ、エヴァそのものは無形のエネルギーでしかない、魔とはよく言ったものね、あの子たちはそれを吸い込み、その時自分が欲している願望や欲望で穢して吐き出しているだけ、それが一般的にエヴァと呼ばれる不可思議な現象の正体に過ぎない」
なら?
「あまりにもバランスが悪過ぎる……、適応することのできない進化なんて」
先に暴走したあげく、今は入院している二人のチルドレンのことを思い出す。
「進化したあげく、自ら自然環境からはみ出し、生きていくことを放棄するよう強制される、自然進化ではなく、それが暴走の結果引き起こされたものだからなの?、だとしたら、シンジ君は……」
誰が彼のあの異様な能力を是とするだろうか?
「なんてことを……、あの人はなんてことをシンジ君に背負わせているの?」
リツコは吸い殻のあふれている灰皿で煙草をもみ消した、再び使徒とエヴァが起こした共食いの様子を思い起こす。
ATフィールドは心の壁、だが互いを完全に理解し合った時、どちらか一方は存在の無駄でしかない。
片側が生きていれば、それだけで全てをフォローできるのだから……
●
「え?」
「だからぁ、ちょっち顔見せてあげてくんないかなぁ?」
少々わざとらしく話しているのは、シンジがなにやらものうげな様子であったからかもしれない。
それでもとミサトはレイとの約束を果たすべく、シンジに面会を申し込んでやってくれとお願いしていた。
「手続きはこっちでやっとくからさ、ね?」
「ねって言われても……」
シンジはぽりぽりと頬を掻いた。
「レイって、そんなに長くなりそうなんですか?、牢屋行き」
「まあ理由なんてあって無きがごとしって奴だからねぇ」
「え?」
「シンジ君だから教えてあげるんだけど……、ってあたしも聞かされたばっかりなんだけどさ」
周囲の様子を窺い小声で話す。
「レイって、レイシリーズとかって、特殊な人間でしょう?、それを警戒してんのよ、どこの国の連中も」
「国ですか?」
「そう、国連、どこもかしこも警戒してんのよ、うちを、ネルフを」
「ネルフを……」
「ええ、レイの存在ってのはある程度の人間になれば知ってる話だったみたいでね、なにか企むならレイは絶対外せないはずだってね……」
「酷いんですね」
「まあね」
肩をすくめる。
「そうでなくても、レイは未来視ができるでしょう?、あの子の助言でなにかやってるんじゃないかとか、これはまあ昔っから言われてたことだけど」
「……他にもあるんですか?」
「きりないわね」
ミサトは護魔化したが、それはシンジについてのことだった。
今度の事件でシンジが示した異様性は、様々な方面で問題を発生させていた。
……なによりも怖いのが、シンジが他人を頼らずとも生きていけると言う事実なのだ。
(普通はどんなことになったって、人里に依らないと生きていけないものなんだけど……)
どんなに大きな罪を犯した人間であっても、食料を調達しなければ生きていけない、この接点が相手が鬼のような、悪魔のような存在であっても、人間であるのだと安心させる理由になる。
人間である以上、捕え、押さえつけ、制御することは可能なのだ。
しかしシンジは違う、違ってしまっている、元から一人で居る孤独に堪えられる性格をしていたが、今に至っては恐らく食物摂取すら必要のない存在に昇格している。
事実ミサトは、このところシンジが何かを食べたという報告を受け取ってはいなかった。
水分は取っているようなのだが……
「とにかく、レイのことは頼むわね、多分落ち込んでるはずだから」
「はい」
「お土産がいるようならあたしがお金出すけど……」
「良いですよ、そんな」
「そう?」
「はい、わりと父さん、ちゃんとお金入れてくれてるから」
ミサトはそのことこそ初耳であると、意外だとばかりに驚いた。
「シンジ君……」
レイはぼんやりと幻を見ていた。
部屋の隅にしゃがみこみ、槍を抱えて小さく身を固めていた。
槍……、誰も届けていないそれがどこから持ち込まれたものなのか?、看守は気になったものの放置していた。
ナンバーズなのだから、それくらいのことは不思議でも無いだろうと思ったのだ。
それ以上に、レイの憔悴した様子に心を痛めていたと言うのもあった、仕事が仕事だけに、ここに閉じ込められた人間が、どのように追い詰められていくかを知っていたからである。
無実の人間を押し込めるには、あまりにも酷い部屋だった、トイレさえ監房の中だ、監視の目があることを知っているだろうし、十代の少女には辛いだろう。
そんな看守であったから、シンジがレイへと面会を求めて来た時には、どこかほっと安堵した様子で出迎えていた。
「なんだか……」
「え?」
「すごく感謝されちゃってさ」
ぽりぽりと頬を掻く。
そんなシンジに、レイは顔をほころばせた。
「なんだか安心した」
「なにが?」
「シンジ君がシンジ君だから」
「……」
なんだよそれ、そう言ってくれると思ったレイは、少しばかり戸惑った顔をした。
「どうしたの?」
「父さんと話した」
「おじさんと?」
「うん」
シンジは頷いてから顔を上げ、まっすぐにレイの瞳を見つめた。
「僕は……、どうすれば良いんだろう?」
シンジは自分の懸念をレイに訊ねた。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。