──コン、コン。
遠慮がちに二度のノックを打ち鳴らし、それからシンジは部屋に入った。
「……」
室内は静寂によって満たされていた。
大きなベッドにはアスカが一人寝かされている。額と体の幾つかに電極が貼り付けられ、脇にある機械によって状態の変化は随時記録されていた。
心電図を見る限り安定している。医師もいつ目覚めてもおかしくはないと言っていた。
なのに起きない。
いつ起きてもおかしくはない。その言葉は、いつ起きるかわからないとも置き換えられるものだった。
何故目覚めないのかわからないとも。
「アスカ……」
シンジの目は恐怖に怯えるものになっていた。非常に不安な色を湛えている。
じっとアスカを見下ろす。シンジはそこに、いつものアスカを見ようとした。しかし……
『きっもち悪い……こっち来ないでよっ、馬鹿!』
古い記憶に、体がビクンが跳ねてしまう。
シンジはぎゅっと瞼を瞑った。
(アスカ……)
ゆっくりと瞼を開いて瞳を見せる。
シンジの瞳はもう不安に揺れてなどいなかった。それどころかとてもくすんだ色合いに変化していた。
まるで深層から溢れ出そうとした臆病な自分を押し込んだように……
シンジはいつもの落ちついたシンジに立ち戻っていた。唯一、ぎこちない笑みを浮かべていることを除いては。
「トラウマって、こういうのを言うんだね」
その言葉は、眠り姫には届かない。
●
「行っちゃうんだな」
郊外の駅。
そこに二人の人影があった。実際片側には家族も居たのだが、そちらは既に電車の中だ。
「うん……もう、この街には居たくないから」
「そっか」
お下げ髪は頭皮を引っ張られて痛い。そう言っていたなと、ケンスケはヒカリのほつれた髪を見て思い出した。
「どこに行くんだ?」
「九州」
「遠いな……」
「多分、もう逢えないと思う」
そう言ってヒカリは寂しげに微笑した。
ケンスケは言った。
「そうだな……実際んとこ、トウジとだってまともに連絡取れてないからな」
親戚の多い関西に引っ越して行ってしまったが、関西のどこに居るかまでは知らなかった。
縁などその程度のものであるのだと、非常に冷めたことを考える。
「他にも疎開組は出てるしな……まだ日本の出身者はマシみたいだよ。他の国から来てる連中なんて、行く宛がなくて鬱屈してる」
「酷いの?」
「いつ爆発するかわからないな」
ヒカリが顔をしかめたのは、この間のことを思い出してしまったからだ。
暴走はあのような事態を引き起こす。それだけで十分恐怖だった。
「あたし……ね? もうこの力は使わないって決めたの」
「もったいない……」
「でも今なら鈴原がここを出てった理由がわかる気がするから」
「トウジが?」
うんとヒカリは小さく頷いた。
「鈴原も多分こんな気持ちだったんだと思う。人にはとても黒い感情があって、それは凄く簡単に歯止めを失うものだから……不相応な力を持っちゃいけないって」
「……姉さんのことを言ってるのか?」
「うん」
顔を歪める。
「正直ね、あたし、碇君やアスカになに言っちゃうかわかんない。でもその時にエヴァが反応してしまったら? それを考えると叫ぶこともできないの」
「だから離れるのか、ここから……」
「ん、鈴原もそうじゃなかったのかな? 碇君に、劣等感持ってたから」
ケンスケはそれは俺もだよとは言わなかった。
「俺も気をつけるよ」
「うん。相田君は大丈夫なんじゃない? 器用だから」
やれやれとケンスケは後頭部を掻いた。
「あんまり誉められてる気がしないな、それ」
「そう?」
ヒカリがくすくすと笑うのに合わせて、発車のベルが鳴り響いた。
「……じゃあ」
「ああ」
「アスカによろしくって」
「言っとくよ」
会えたらだけど。ケンスケはその言葉は口にしなかった。
ヒカリが乗り込むのを待って、扉は閉まった。
すぐにゆっくりと走り出す。ケンスケは窓から見えるヒカリの姿を目で追った。
それからホームをぐるりと見廻す。
「俺だけか」
溜め息を吐く。
「いくらみんな逃げ支度で忙しいからって、委員長には世話になってただろうに」
でもと憤慨する一方で、ケンスケは非常に冷淡なことも考えていた。
「今やそれどころじゃないってことか」
空はどんよりと曇っていた。
そして第三新東京市に程近い空港では、一機のチャーター便が、着陸を試みようとしているところであった。
「ようやく帰って来れたよ、シンジ君」
窓の外に、日本を見る。
機体の主、渚カヲルは、果たして留守にしていた時間は長かったのだろうか、それとも短かったのであろうかと、本気で考え込んでいた。
[BACK][TOP][NEXT]
新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。