暗闇に老人たちが集い、そしてまた碇ゲンドウも招かれていた。
「サードチルドレンについての報告書は読んだ」
 重々しく老人が口を開く。
「認めよう碇。お前のシナリオは我々のものを越えている」
 恐縮ですとゲンドウは返した。
「しかし未だ至らない部分も存在します」
「人であること。それは絶対の条件である」
「ですが人であり過ぎることも問題です」
「故に我々はフィフスを外した」
 互いの認識を確かめるため、彼らは意見を交換する。
「フィフス。渚カヲルは人の段階においてはほぼ究極に達しつつある。しかしその存在定義は人の可能性の範疇でしかない。決して進化の階梯を昇るものではない」
「進化とは別種の生き物への変異である。フィフスのあれは環境への適応と適合に過ぎない」
「取り巻く環境への……かね?」
「そうだろうな……『エヴァリアン』の統率者としては確かに相応しい。人知の及ぶ範疇に変化を留め、衆人に理解を受けられる段階に留まっている。あれは人である。忌まれることなく、許容を求めるための『言語』を未だ残している」
「容姿もだろうな」
「だがサードチルドレンのそれは性急に過ぎる。既に人の姿を失っている。人の営みの枠より外れ、人としての擬態を行っているに過ぎん」
「碇……我々が求めるべきは人の革新であり、変革である。決して逸脱ではない」
「承知して下ります」
 ゲンドウは恭しく頷いた。
「そのための布石は既に……」
「食えん男だ」
 次々と老人たちが消えて行き、ゲンドウだけが残された。そしてそれを見越したように、手元の受話器が悲鳴を上げた。
「わたしだ……」


 破壊し尽くされた地下湖の湖岸周遊道路。
 傾いた道路のその上に、碇シンジの姿があった。
 じっと右手を見つめている。その右手が不意にぐにゃりと変形した。筋張り伸びて、鬼の手になる。
 シンジは景色にかざしてその手を見つめた。
 何を考えているのか窺い知れない。そんなシンジの耳に届いたのは鼻歌だった。
 地上から二十メートルの高さはあるこの場所に、風に乗って流れて来たのは、どこかで聞いた懐かしさを含んだ音色であった。
「やぁ」
 鉄塔の上に少年が居た。
 白のシャツに黒のスラックス。どこか制服を思わせる私服を身に纏い、彼は風に白銀の髪をなびかせていた。
「久しぶりだね、シンジ君」
 何メートルも上に立っているというのに、声が通る。
 彼、渚カヲルの出現に、シンジは手を元に戻し、静かな調子で訊ね返した。
「カヲル君……いつ戻って来たの?」
「シンジ君」
 苦笑を浮かべて、シンジから荒れ果てた森へと目線を外す。
「僕に演技をする必要はないよ。ここはもはや君の『巣』だからね。本当はわかっていたんだろう? 僕が入り込んだその時から」
 シンジは傾斜の突端に立ってカヲルを見上げた。
「どうしてカヲル君は戻って来たの?」
「帰って来た……とは言ってくれないのかい?」
「カヲル君の帰るべき場所はここにあるの?」
「帰るべき家、ホーム。それを得ることが僕たちの望み、夢だ。違うかい?」
「カヲル君は……」
「綾波レイ」
 シンジはカヲルに喋るゆとりを与えた。
「彼女は、僕と同じだね」
「そうだね……」
「でも彼女は君と言う家を見付けたよ」
「僕はそんなに良いものじゃないよ」
「それを決めるのは彼女であって君じゃない」
「……」
「……アスカちゃんに逢ったよ」
「アスカに?」
「夢の中でね」
 カヲルはトンと足場を蹴った。
 ポケットに手を入れたままの姿勢で落ちる。しかしシンジと同じ高さに来た時、ふわりと落下を停止させた。
「彼女は彼女なりに結論に達しようとしている。それは君にとって良いことなのか……」
「悪くは無いよ」
「本当に?」
 カヲルはようやくシンジへと目を向けた。宙に浮いたままで。
「君は彼女の何がそんなに良いんだい? 君はただ過去にこだわる余り捨て切れなくなっているだけなんじゃないのかい?」
「何を今更……」
「近づけば近づくほど傷つけ合ってしまうこともあるってことさ、なのに君たちは離れようとはしない。不器用なんだね、君たちは」
 でなければとカヲルは体も向けた。
「とうに一線を越えていた」
「……」
「でも君はついにその発想を抱くことがなかった。欲望を抱くことができなかった。違うかい? 君が彼女に求めているのは幼い頃の無邪気な関係であって、心でも体でも無い」
 シンジはカヲルから目を背けた。
「僕は……わからないよ。そこまで考えたことはない」
「でも君は考えなくてはならない。君には三つの選択肢があるのだから」
「三つ?」
「一つ」
 カヲルは手を抜き出して指を立てた。
「彼女を礎にすること」
「カヲル君!」
「二つ目は綾波さんを使うこと。そして三つ目は拒絶すること」
「カヲル君……どうして僕が決めなくちゃならないんだよ。カヲル君」
「それが運命だからだよ」
 カヲルは天井を見上げた。くすみ、霞んでいるビル群を。
「月は君を選び、時は動き出そうとしている。後はクライマックスに向かって走り出すだけなのさ。でも一度奏で始めた合奏は、途中で変更することなどできはしない」
「けど……」
「不協和音を奏でようというのかい? それは破滅への第一歩だよ」
「けどアスカは」
「再び君への想いを募らせようとしているね。それは以前と同じものに育つかもしれないし、別の感情になるかもしれない。それでも彼女は君という人を諦めない」
「レイは……」
「彼女もまた運命に翻弄されている人間の一人だよ。彼女にとって君は一体なんなんだろうね? 仲の好い友達なんだろうか。さっぱりだよ」
 シンジは強く唇を咬んだ。
「僕に決めろって言うのか……」
「月は待っているよ、選択の時を。もう我慢できないとね」
「でもそれはおかしいよ!」
 シンジは大きくてを広げて訴えた。
「こんな『僕』の選択一つで新しい世界が誕生するの!? その世界の流れが決まるの!? そこに一体なにがあるの!?」
「そのための『エヴァンゲリオン』さ」
「違うよっ、絶対違うよ! 僕はそんなこと望んでない!」
「それこそ嘘だ」
「なんでさ!?」
「だって君は望んでいた。誰にも傷つけられない世界を。自分に優しい人たちで溢れた世の中を」
「そんなの……」
「幻想として諦めていた? でも実現できるんだよ。君にはね」
 ごらんとカヲルはこの景色に向かって手を動かした。
「まるで君が生み出す世界のようだよ」
「これが……」
「そうさ。優しさに満ちあふれた『楽園』、そこは君だけのパラダイスだよ。君は否定できるのかい? 君の望みの全てが満たされるその世界で、君は正気を保っていられるのかい? そこは甘く優しい世界さ、扉の向こう側には笑顔で居られる世界があるんだ。君はその都合の良さに溺れたり毒されたりしないままに、自分を戒めて生きられるだろうか? 自分が作り出した虚構の世界で、喜びに甘えないでいられるだろうか?」
 やめてよとシンジは呻きを洩らす。
「君は自分に好意を抱き、甘えてくれる人を突き放せるかい? 君に対する好感に満ちあふれている人々は、君に拒絶されたなら、一体どんな風に壊れるだろうか?」
「やめてよ!」
「それが嫌なら下りるしかない。けれどプログラムはもう始まっている。幕は開きブザーが鳴っているだろう? そして惣流さんはそこに踏み出しているんだよ」
 シンジに向かって指鉄砲を突き付ける。
「君は舞台から下りるのかい? 背を向けて逃げ出せるのかい? 椅子に座るアスカと言う名の人形を放置したままで」
「やめてくれって言ってるだろう!?」
 ギンと二人の間で干渉音が弾けた。千切れた光が風に散る。
「アスカはここに居るじゃないか!」
「でも彼女の心は舞台にある」
「なんでそんなことを言うんだよ!?」
「誰かがその人形を抱き上げなくてはならないからだよ。そして彼女に返して上げなくてはならないんだ」
「その役を僕にやれって言うのか……」
「君以外の誰にできるというんだい? 少なくとも僕には無理だ」
「どうして……」
 知っているよとシンジはずるいことを口にする。
「カヲル君、アスカとキスしたことがあるでしょう?」
「シンジ君……」
「アスカもきっと、カヲル君になら心を許すよ。違う、アスカの心は僕への罪悪感で占められている。でもそれじゃあまりにも悲し過ぎるよ。誰かが別の感情を与えてあげなくちゃならないんだ」
 そして。
「それは僕にはできないことだよ」
「君は望むことが多いね……綾波さんだけじゃなく、惣流さんまで任せようと言うのかい?」
 シンジは寂しげな微笑みを見せた。
「僕には根本的に欠けているものがあるんだよ……やっとわかったんだ。だから僕は人を癒すなんてことができないんだ」
「それは?」
「愛だよ」
「愛?」
「そうだよ。僕は愛されるということがどういうことなのかわからないんだ。どう愛していいのかわからない」
 カヲルは前髪を掻き上げた。腕の陰から出て来た瞳は、酷く剣呑なものになっていた。
「それは侮辱だよ……彼女たちに対する」
「そうかな?」
「彼女たちは君を愛しているよ。そして愛して来たはずだ。それぞれに違った形で」
「でも僕にはそれを認識する能力が欠けている。知覚できないんだ。だから気付くことができない、感謝もできない」
「シンジ君……」
「お願いだから責めないで。お返しをしたい気持ちはあるんだ、でも僕には優しさの感じ方すらもわからない」
 カヲルは隠れて舌打ちをし、そんな具合に育てたと言う、シンジの養父母に対して盛大に毒づいた。
「ならば君はどうすると言うんだい?」
「死ぬよ」
「死? 自らの死を願うと言うのかい?」
「根源である元凶の破壊こそが全ての平穏に繋がる……どう? 良い考えでしょう」
 シンジは朗らかに笑った。
「使徒はあと『二体』、今の僕にはわかるよ、そしてその内の『一人』は今目の前に居る」
「シンジ君」
「人が発現できるほとんど究極にある適応体。僕だって勉強してるんだよ。カヲル君ならこの世界の未来を紡ぐことも十分にできるさ」
「君はそれで良いというのかい?」
 シンジはまさかと泣きそうな笑顔を見せた。
「カヲル君は大事なことを忘れているよ」
「大事なこと?」
「そうさ! 僕に残された道は二つだ! 死ぬか楽園で絶望を味わうか! 使徒がアスカを狙おうと、レイを狙おうと関係無いんだ。僕だって変わろうとしたっ、変わろうとしたんだよ! 僕はアスカが好きだ、レイも好きだ! でも僕のこの気持ちは月に弄ばれることになるだけなんだ。コダマさんは消えてしまった。アスカは心をえぐり取られた。僕が夢見掛けていた未来は無くなってしまった」
「幸せはどこに?」
「わからない。でももうここでは得られない。そして新しい世界でも掴むことはできない。僕は見付け出すことができない」
「この世界で生きていこうとは思わないのかい?」
「誰も受け入れてなんてくれないのに?」
「二人が居るさ」
「無理だよ」
「どうして」
「あの二人ではもう、僕を受け止めることなんてできないさ」
 カヲルは悪寒を感じて顎を引いた。
「君は……」
 シンジから黒い瘴気が噴き出して見える。シンジの口元に無気味な笑みが広がった。
 ──人ではないものの妻になんて、誰がなってくれるんだい?
 カヲルは異質な声音に、シンジの口から紡がれた言葉だとは思えなかった。



[BACK][TOP][NEXT]


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。