その少年には兄が居た。
「おめでとう」
 祝福のクラッカーが鳴らされる。
 都市圏から離れた森林の中にある湖。その縁にあるロッジの庭。
 申し訳程度に芝で整えられているその場所では、大勢の男女が一組のカップルに向かって、羨望と嫉妬と揶揄する言葉を投げかけていた。
「さんざん振り回しといて結局それかよ!」
「やってらんねぇ!」
 どちらかと言えば彼と彼女の顔には苦笑いが浮かんでいた。
 それもそのはずで、二人は幼なじみであり、友人であり、馴れ合いの付き合いをずっと続けてきていた二人であったからだった。
「手頃なところで手を打ったってことよね」
「なんとも思ってないなんて言っといて、ねぇ?」
 ごめんごめんと女性が謝る。しかしにやけていてはどこか誠意に欠けていた。
 だがそんな彼女の態度に腹を立て、怒るような者は居ない。みな仕方がないと手を振って許容する。
 女性の左手の薬指にはリングがあった。そして大胆なカットのダイヤモンドがが輝いていた。
 一人がめざとく口を出す。
「彼女の誕生石じゃないだろう?」
「それは結婚指輪で考えるよ」
 どうせ家に居着くような女性ではないからと、男はあきらめ気味に愚痴をこぼした。
「僕はもうちょっと家庭的な女性が好みだったんだけどな……」
「言ってろ」
 小突く。
「十分美人じゃないか」
「そうなんだけど……」
「何が不満なんだ?」
「不満だらけさ」
 彼は大げさに手を広げた。
「だってそうだろう? ここに居る連中の何人が彼女の体を知ってるんだよ? 彼女の優柔不断さは知ってるだろう? 押しが弱くて好きだと言われると拒みきれない」
「それはこっちの科白だぜ」
 一人がビール缶のタブを抜きながら口にした。
「付き合ってるってのに相談事になると全部お前だ。やってらんないって感じになるのも当たり前だろう?」
「そうだぜ。そのくせ俺たちはなんでもないとか、ふざけるなよ」
 蹴るなよと言って彼は逃げた。
「このスーツ貸衣装なんだからな」
「俺たちからの『餞別』だよ」
「ありがたく受け取れ!」
「妬くなよ!」
 そんな彼の頭をこらと小突いたのは、彼の将来の伴侶となる予定の女であった。
「変なふざけあいしないでよ」
「なんだよ、言ったろう? 俺は納得してないって」
「でも仕方ないじゃない……。お父さんたちがその気なんだから」
「親父たちなんて関係ないよ。あいつらが俺たちのなにを知ってるってんだ?」
「それは……」
「そうだろう?」
 いつの間にか皆の注目が集まっていた。
「親父たちは俺たちがずっと仲良く付き合ってきたなんて思ってるけどな、俺なんて良いとこ愚痴の聞き役だったぜ? 初めてお前とシタのだって、お前の自棄に付き合ってだったんだから」
 しかもそれが俺の初体験だったと彼は告白した。
「おかげで好い印象がないんだよな、セックスってものにはな」
 だがその言い草があまりにも一方的であったからか、友人の一人が間に割り言って声を荒げた。
「やめろよ。そんな言い方」
「なんだよ?」
「そういう言い方をするなら、お前だってそうだろうが。なんで彼女を突き放さなかったんだよ? 結局惜しかったんだろうが」
「なんだと!?」
「違うのかよ」
「ちょっとやめてよ」
 いいやと二人はお互いの胸ぐらをつかんで唾を飛ばし合った。
「やめないね。都合の好いこと吹き込んで、別れるように仕向けといて、責任取る段になったら愚痴って、見苦しいんだよ」
「見苦しいのはどっちだよ」
「んだと!?」
「お前らがしっかりしてりゃあ、こいつがふらついたりしなかったんだろうが。そんな相談を俺以外の誰にできるってんだよ? 大体お前の場合、こいつが寂しいって言った時になんて言ったんだよ? 今忙しいとか言って会ってやんなかったのはお前だろうが! それで浮気されたからって怒んなよ!」
 彼はドンと胸を突くように押しのけた……その時だった。
 ──突き上げるような激震に、人のみならず木々も家も噴き上がったのは。


 セカンドインパクト。
 その時のできごとにそういう名前が付いたのだと彼が知ったのは、三年という長い月日を重ねてからのこととなった。
 地獄のような日々だった、それは過ごした……過ぎ去ったなどとは形容できない、非常に内容の濃い日々であった。
 突き上げるような震動が、大地をおかしな具合に噴き上げた。
 湖の水も雨のように降った。どれだけの激震であったのか、痛みをこらえて顔を上げると、まず目に入ったのは、倒壊した家屋につぶされている、先ほど言い争っていた友人の無惨な姿であった。
「ライアン……」
 その隣には、どこから降ってきたのか分からない大木の枝に絡まっている、女性の姿があった。
「メリッサ……」
 奇妙な角度に首と手が折れて、宙づりに近い姿勢になっていた。まるで人形のようだった。
 軋む体に鞭打って立ち上がる。左腕に右手を添えて空を見る。そこには腕から流れ出る血のことも忘れてしまいそうな光景が広がっていた。
 赤くなった南の空に、虹色をした幕が波を打って広がっていた。
 南極に衝突した光速の物体が、まるで玉突きのように地球を軌道から押し出そうとしたのだと、政府公報はセカンドインパクトの名称と共に公開していた。
「パーティーをあそこで開いていなければ、死んでいたかもしれないな」
 後に彼はそう述懐している。
 地震の多い地域では噴火にも見舞われたし、湾岸地区では大津波によって崩壊を迎えた。
 地震とは無縁の土地であったから、そしてアメリカ内陸部であったからこそ救われた。
 彼は神に感謝した。
「あなた……」
 そんな彼の隣には、あの時婚約者として共に歩き出す予定であった女性が居た。
「何をしているの?」
「ラジオを、ちょっとな」
「ああ、ようやく放送局が再開されるそうで……」
「軍の放送は政府公報そのものだからな、どこかうさんくさいし……だめかな、やっぱり」
 そう言って彼は耳元に当てたラジカセを振った。
「捨てられてたんで拾ってきたんだが……」
「使えないから捨てられていたんじゃ?」
「そうかもしれないが……単に電池が手に入らないから捨てたとも考えられるだろう?」
「ああ……」
「電池も今や貴重品だからな。あまり使いたくはないし」
「そうですね、夜は怖いし……」
 彼女が身震いするのを見て、彼はラジカセを置いて立ち上がった。
「おいで」
 抱き寄せつつ、机のへりに腰掛ける。
 そして優しく彼女の頭を撫で梳いた。
「……悪かったな」
「あなた?」
「いや……あの時のことを思い出していたんだよ、あの時のことを……」
 彼は窓の外を見た。窓と言っても吹き抜けの枠があるだけである。夜は戸板を置いてかんぬきを掛けていた。
 不穏な賊が出没し、時にはそれを破って侵入しようとする。夜は灯りを絶やすことができない。それがこの地での暮らしであった。
「本当なら、もっとお前を立ててやるべきだったんだ。なのに、俺は……」
「そんな古いこと」
「だがなぁ、タイミングが良すぎて、俺のせいなんじゃないかって気がして」
「馬鹿言わないの」
 彼女は体を起こすようにして離れると、彼の頭をこつんと小突いた。
「わたしにだって罪悪感くらいあるわ……結局助かったのはわたしたちだけだもの」
「ああ……。でも本当はお前のことなんて言えなかったんだ。俺だって彼女たちと関係があったんだから」
「清算?」
「そう取れる結果になってしまったから落ち着かないんだよ」
「そうね」
「なぁ……俺はお前を愛しているのかな?」
 彼女はきょとんとした表情を見せた。
「なに? 急に」
「わからないんだよ……あれから俺たちは必死だったろう?」
 外を見ると、あばら屋が身を寄せ合うように建っている。
 この集落(コミュニティ)が今や彼らの村だった。以前住んでいた街は無惨な形で崩壊している。
 ニューヨークなどは大規模な陥没と地盤沈下によって姿を消してしまっていると言うのだが、彼らにそれを確かめる術はなかった。
「大事……なのは間違いないんだ。でなかったら俺はとっくにお前なんて見放してたよ」
「非道いのね」
「違うよ……俺が言っているのは昔のことだよ」
「ああ……」
「俺もお前もガキだった。節操がなくてこらえ性もなかった。おかげで人から見ればかなりだらしがなかっただろうな」
「乗り換え……そう言われたとしても仕方のない付き合い方をしていたものね」
「うまかったんだな、結局。俺もお前もさ、適当に人の同情を引いて、不満があったらそいつに甘えて、慰めてもらって……」
「どうしていつも、あなたは女の子で、わたしは男の人だったんだか」
「簡単さ。俺たちがもててたんだよ」
「あ、そう」
「冗談だよ……俺なら男、お前なら女、それで相談できる相手となると仲間だからな」
「仲間……」
「そうさ。でも仲間に知られると居心地が悪くなるものだろう? だから隠したくなる」
「そうね」
「けれど異性が相手なら友達だからな。それなら仲間内ではない、接点のない相手を選べる。そういう利点がある」
「それで男と女の関係になったとしても? それが元で別れるようなことにもなるのに?」
「セックスは問題じゃないさ。そういう雰囲気になって流されることはあるし、そういう慰め方をしなければならなくなるときもある」
 お前が俺にとってそういう相手だったと彼は告げた。
「ただ、本気になることができない相手だった。小さな頃は違ったな。口じゃあ偉そうなことを言ってたけど、結局やりたいだけだった」
「わたしと?」
「他にさせてくれそうな奴、居なかったからな」
「そうね……わたしも強くはねつけることができなかったから」
「あのころのことは今でも罪悪感を感じているよ。だってそうだろう? 失恋しているところにつけ込むようにして俺は」
 昔のことよと彼女は許しを与えた。しかし彼は懺悔しているわけではないよと反論した。
「それはそれで罪だからな。その罪悪感があったから俺は一生お前に頭を上げないつもりで居た。まずはお前が幸せになってくれることを祈った。でも、そういうのは人にとってはお前が好きだと言っているのと同じに見えるし聞こえると言うんだよな」
「わたしは大事にされていたのね」
「している、だよ。今でも大事には思ってる」
 ただと彼は本題に戻った。
「その気持ちが問題なのさ。これ以上ないくらい大事に思っている。だから父さんや母さんたちが行方不明になっている以上、俺が支えるしかないんだと思った。その気持ちの延長でこうしているんだとしたら、俺のお前に対する愛情ってどういう類のものなんだろうな?」
 彼女はそんな彼の視線に対して、微笑みながらかぶりを振った。
「それはわたしに訊くことじゃないわ……あなたが自分で見つけてくれなくちゃ」
「そうなんだけどな」
 ラジカセは諦めるかと彼はポンと手で叩いた。
「でもそれを確かめるためにはお前が必要なんだ」
「はい」
「手伝ってくれるんだろう?」
「もちろん」
 すると奥の部屋から、小さな男の子が目をこすりながら姿を見せた。
「ママぁ……」
「あら『リック』、どうしたの?」
「おしっこ……」
「はいはい、あなた」
「ああ」
 苦笑する。
「もう一人居たな、確かめるためには外せないのが」


 世界は崩壊のただ中にあり、そして同時に復興へ向かっても動き出していた。そんな頃……。
「リック……リッキー・ドナルドの運命が緩やかに坂を下り始めたのさ」
 カヲルはそうシンジに語った。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。