(リック……)
 舌打ちを何とかこらえて、彼女は発令所へと踏み入った。
 扉が開いた瞬間に、想像もしていなかった喧噪が溢れ出した。わずかにマリアは押し戻された。
 誰もが狂気すら孕んで、罵声や怒声を飛ばしている。
「トライデント3号機のオイル交換は終わったか!?」
「なんでこんな時にトラブるんだよ!」
「1号機先行!」
「2号機は五分の間隔を維持、良いわね」
「保安部別働隊出します!」
「一応使徒への警戒を」
 リツコは入室してきたマリアを見て取り、こちらへ来るようにと(いざな)った。
「司令から話は伺いました」
「はい……」
「しかし信じられないというのが正直なところです。特に今回の行動は政治的な取引があったと臭わせる部分があります」
「上が……ですか?」
「そうです。ですからそれが杞憂に過ぎないことを証明していただけなければ、わたしはともかく彼らが納得することはないでしょう」
 彼女はメインモニターを見て血の気が引くような思いを味わった。
(こんな大事に……)
「おわかりですか?」
 かくかくと頷く。
「はい……」
「彼らもかなり殺気立っています。先日の事件のこともありますが……」
「なにか?」
 リツコは苦笑いをしてかぶりを振った。
「このところ、皆落ち着かない気分を味わっていましたから……使徒との戦いが無くなり、平和に居心地の悪さを感じてしまっていたようですの。その鬱屈していたものが、きっかけを得て噴き出してしまっているようでして」
 なるほどそうかとマリアは頷いてしまってから、リックが使徒のような敵に見られてしまっているのだと気づき、改めてリツコの顔を見てしまった。
 ──そこには、事態が決して好い方向には向かっていないなと考えている、冷徹な観察者の横顔があった。


 ──マリアとリックの出会いは、それからさらに数年の後に持ち越された。
 米国ネルフは地上に広大な敷地を擁していた。地下に実際に建造される宇宙船と同じものが組み上げられている。艦橋の一部が地上に露出し、それが事務的な施設としての機能も果たしていた。
 リックはそんな模擬艦内部にある、使われていないコンテナ格納庫の中に居た。
 荷物がないために、明かりも必要なしと灯されていない。そのためリックが持ち込んでいるライト程度では、端にあるはずの壁を照らすことさえできなかった。
 ──だが、それでも彼は好かったのだろう。
 ライトは通常のライトとしての他、サイドに取り付けられている蛍光灯を用いた明かり取りとしても使用できるもので、リックはその機能を使って、一心不乱に床に何かを落書きをしていた。
 ──足音が響く。
「誰かそこにいるの?」
 聞こえた声に、リックは自分の名前を告げて返事に代えた。
「リッキー・ドナルド? あなたこんなところで何をしているの?」
 携帯ライトの光を当てる。
 そうしてから彼女は驚いた表情をした。
「あなた……こんな場所で勉強をしているの?」
 リックが床に広げているのは、教材として渡されている資料集だった。そして描いているものは、それに関係した数式であった。
「どうしてこんなところで」
 リックはつまらなさそうに唇を尖らせて答えた。
「紙とペンが無いからですよ」
「紙とペン?」
「ええ」
 彼は硬く冷たい床の上に直に座っていた。
「僕は紙の上にペンを走らせることで記憶する人間なんですよ。ところがこの船にはパソコンはあっても紙やペンは乗せられていない」
 それはその通りのことで、むしろやむを得ないことでもあった。
「長い航海をすることを想定しているんだもの、紙やペンのような消耗品はなるべく搭載品からは外されているわ」
「ならついでに僕のような人間も外すべきでしたね」
「あなたを?」
「はい……僕は見かけによらず古いタイプの人間なんですよ」
 懐かしそうに彼は目を細めた。思い出しているのはあの協会の裏で受けた学習のことだった。
「青空の下で、みんなで揃って先生の声に合わせて輪唱するように復唱して」
「……復興前の話ね?」
「親の都合でワシントンに移りましたが、森と緑豊かな場所で育ちましたからね。水が合わなくて」
「ここも?」
「そうですね……。僕はどんどん自分に合わない場所に追いやられている」
 その時彼に見えたものに対して、彼女は何か胸を突かれるようなものを感じた。
 だからかもしれない。
「そんなに勉強がしたいの?」
「したいですね」
「どうして?」
「ここを出れば、もう働く必要はない? だから勉強なんてする必要はない……。確かにそれはそれで良いのでしょうが、僕はそうはなりたくない」
「……」
「僕の最初の先生はこう言いました。学ぶことを忘れてはいけない。学ぶ気持ちがなければ志を持つことができないからだと。志すものがあるからこそ、人は向上しようとするのだと。だから僕は勉強したいんです。ここでゆっくりと腐っていくのは嫌だ」
 そんな言葉を聞いた彼女は、この場所を巡回のコースに組み入れ……。
 そして教師と生徒の関係になって、いつしか二人はそれ以上の関係にもなっていた。


 シンジは聞かされた話から、何を聞き取れというのだろうかと訝しんだ。
「ごめん、カヲル君……。僕には君が何を言いたいのかわからないよ」
 カヲルは軽く肩をすくめた。
「下の騒動のことは、もう気づいているんだろう?」
 カヲルはシンジが首肯するのを待って続きを口にした。
「彼は心を決めたようだよ。彼女を解放することにしたのさ」
「解放?」
「そう……人とは悲しいものだね。自分の運命に他者を巻き込むことになると、それは心苦しくて、どうして良いのかわからなくなる」
「でもそれがカヲル君の言う数奇なってやつなの?」
「違うのかい?」
「だってそれなら、僕とアスカだって……」
「そうだね」
 確かにねとカヲルは言った。
「その通りだよ、これだけならありふれた話で済んだんだ……。ところでどうして僕がそんな話を知っているんだと思う?」
「それは……」
 シンジは考えてみて、確かにそれはそうだと奇妙さに気づいた。
「どういうことなのさ?」
「彼には友人が居たんだよ」
「友人?」
「そう……そして彼と同じく、彼女に惹かれている一人でもあった」
 カヲルは何故かとても沈痛な面もちを見せた。
 まるで自分自身が痛みを感じているとでも言いたげにである。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。