どすんと自分の席に腰掛けたアスカに対して、みなはわずかに退くような態度を示した。
 触らぬ神にたたりなしと顔に描いて。
「いた……」
 シンジはそんなアスカとその周辺の様子を眺めながら、ぼんやりと頬をさすって顔をしかめた。
「あほかい、お前は」
「そうだよ。なに考えてんだよ」
 トウジとケンスケは、はぁっとわざとらしく吐息をついた。
「なに怒らしとんねん」
「もうちょっと対応ってものをだなぁ」
 なんだよふたりともと、シンジは頬をふくらませた。
「じゃあふたりとも、なんでアスカが怒ってるのかわかってんの?」
「あほぉ、わかるわけあらへんやろが」
「……」
「けどなぁ、お前が怒らせてるってことだけははっきりしてるんだよ」
 今度は唇をすぼませる。
「……それで謝ったって、よけいに怒らせるだけじゃないか」
「……だからなんで謝るんだよ」
「なんや悪いことしたんか?」
「してない……と思うけど」
「そやったらなぁ、そういうときは、とにかく機嫌取ってごまかすもんや」
「そうなの?」
「そうそう、その内うやむやになって……ってなんだよ?」
「なんだよって……」
「なぁ?」
 矛先が変わる。
「なんやお前、なんでそんなことわかんねん?」
「トウジはハルカちゃんだよね?」
「妹あやすんも大変やで」
「で、ケンスケは?」
「あうあうあう」
「……」
「……」
「……」
「……」
「うっ、うらぎりも〜ん!」
「いやんな感じぃ!」
「だぁ! そうじゃないだろ!? 今はシンジと惣流の話だろ!?」
「ますます怪しい」
「なにごまかしとんねん」
「むぅうううう〜〜〜」
「あ、アスカ……」
 ヒカリは困り顔でどう話しかけて良いものやら思案してしまった。
(碇君も馬鹿なんだから……)
 ここで盛り上がってしまっては、アスカの怒りを再燃させるだけだとなぜわからないのだろうか?
(わかるわけないか……)
 はぁっと落胆してしまう。
「なによヒカリ……なんか文句あるわけ?」
「……アスカもなんで碇君なんだろうって思っただけよ」
「ヒカリぃ!」
「怒鳴らない方が好いんじゃない? 碇君に聞こえちゃうよ」
 憤慨してあうあうと呻くアスカである。
「別にさぁ……碇君が悪いとは言わないんだけどぉ、碇君にその気がないのははっきりしてるのにぃ」
 ちょっと待ってよとアスカは口を挟んだ。
「なにそれ、どういう意味よ?」
「そのまんまよ。だって碇君って、アスカのことまったくなんとも意識してないじゃない?」
「むぅうううう」
「だいたい腐れ縁だって思ってるのはアスカじゃなくて碇君なんじゃないの?」
「む……」
「腐れ縁ってさっさと切りたいなって思うものなのよねぇ……」
「……」
「あ……」
 すっかりいじけて机の下に小さくなり、のの字を書いているアスカを見つける。
「いいんだいいんだ。どうせヒカリだってあたしなんかとはさっさと縁を切りたいなって思ってるんでしょ? そうなんでしょ」
「やだなぁアスカぁ……そんなわけないじゃない」
「ほんとに?」
「ほんとだってば」
 くすんと鼻をすする。
「あ〜ん、ヒカリぃ」
「はいはい」
「で……」
 教卓に両肘をついて組んだ手の上にあごを落としていた女性が、冷めた目をして彼女らに尋ねた。
「もうそろそろ授業を始めたいんだけど、良い?」
 どっと笑いが巻き起こる。
 アスカは屈辱に顔を赤くし、ふくらませ、いっしょになって笑っている幼なじみを睨みつけた。

 ──パン!

「いったいなぁ……なんで僕が叩かれなくちゃならないんだよ」
 ふんっと鼻息を吹くと同時にバンッと下駄箱のふたを閉める。
「あんたがあたしを笑うなんてっ、百万年早いのよ!」
「自分でコントをはじめておいて」
「コントじゃない! もっぱつ行くよわ!?」
「もっぱつってなんだよ!」
「もう一発よ!」
 ──ゴン!
「殴ることないだろう!?」
「ふんっ!」
 行ってしまう。
「なんだよもぉ……」
 シンジは頭を撫でながら校舎を出た。
「でもあの感じ……なんだったんだろ?」
 校門を抜けて外へ出る。
 ぼんやりと下校の群れの中に混ざり込んで歩く。
「誰かが僕のことを覗いてるような感じだったんだけど、変な夢だな」
 空を見上げるのだが、青い空に巨大な赤い瞳があるような錯覚を覚えてぶるりと震えた。
「やめやめ……変なことを考えるのは!?」
 驚いたのは、道の先にまさに赤い瞳をした少女を見つけてしまったからだった。
「あ……」
 ぎくりとこわばったのが伝わったのか、彼女はシンジに対して非友好的な視線を投げかけ……いや、睨みつけて、近寄った。
 怖い、そう感じて腰を引く。だが逃げるにももはやそのタイミングは失われてしまっていた。
「な、なに……」
 あごを引いているからか、目がつり上がっているようで、酷く剣呑な感じに受け取れる。
 彼女はそんな状態を維持したままで、シンジにすっと手帳を差し出した。
「これ、あなたのでしょ」
「あ……」
 生徒手帳だった。
「ほんとだ」
「昨日、帰り際に見つけたの」
 呆れたとその顔には書いてあった。
「落としたこと、気づかなかったの?」
「ごめん……」
「……かわいそうな手帳、こんな人が持ち主だなんて」
 むっとするようなことを口にする。
「朝から夕方まで、わたしが拾うまで誰にも拾ってもらえなかった。それどころか、持ち主にまで忘れ去られてしまっていただなんて」
 シンジは手帳を取り戻し、強い口調で言い放った。
「ごめんね! けど、なんでそこまで言われなくちゃならないんだよ」
「あなたが嫌いだからよ」
「嫌いって……」
「さよなら」
「あ、ちょっと!」
 振り向きもしないで行ってしまう。そんな彼女の後ろ姿に、シンジは伸ばした手のやりどころに困ってしまった。


「ああもう! 最低っ、あのばか! 信じらんないっ、嫌い! 大ッ嫌い!」
 鞄を机に放り出し、ベッドに背中から倒れ込む。
 ぎしりとスプリングが悲鳴を上げた。
「……」
 そのまま天井を見つめ続ける。
 すると隣のクラスの林田という女の子が口にした言葉を思い出した。
 ──だって碇君ってかっこいいもん。
「どこがよ……」
 ごろんと横向けになる。
「あんな嫌な奴……居ないじゃない」
 すると目に入ったものがあった。
 深緑色のペットボトルである。その中ではガラス玉とたくさんの水晶のかけらが踊っていた。
 何年か前に、シンジに貰ったものだった。
 思い出してしまう。
『ねぇシンジぃ、漫画貸してよ』
『え……ええと、いいよ』
『じゃああとで行くから』
『ええ!? だめだよ! ……あ、えっと、いまダメなんだ』
『むぅ、なによぉ! なんでダメなのよぉ!』
 それで喧嘩して、しばらく口も利かなかったことを覚えている。
(なんだかそんな思い出ばっかり……)
 それからしばらくの間はシンジを無視していた。シンジのとても寂しそうな顔が罪悪感をかき立てて、自分が悪い癖にとますます無視して……。
 その後にあった誕生日会には呼ばなかった。
 友達はいい加減許してやれと哀れんでいた。シンジがあまりにもしょぼくれていたからだろう。
 あの時どうしてシンジが部屋に上げてくれなかったのかを知ったのは、年が明けてからのことになった。
 ……今にして思えばなにを意地を張っていたのかと思う。
 だがそれがなんの慰めになるだろうか? 自分は確かにシンジを酷く傷つけたのだ。
「シンジ……慣れちゃったのかな? そういうのに」
 だからシンジはなにも感じなくなったのだろうか? そう悩む。
 いつものことだ、悩むだけ損だ。
 そんな具合に……。
「だいたいいっつもタイミング悪いのよ、あいつ……要領も悪いんだから」
 なんでもかんでもシンジのせいだと憤慨しようとして……アスカはまたも失敗した。
 じっとボトルを見つめてしまう。
 半べそをかいて謝りに来たシンジがこれをたずさえていた。
 しかし意固地になって会おうとしなかったことから、シンジはそのまま持って帰ろうとした……と聞いた、母親からだ。
 もし母が預かってくれていなかったとしたら、このボトルは一体どこに消えていたのだろうか?
 どこに……消えて?
(え?)
 アスカは妙な違和感を感じてしまった。
(だって……傷)
 傷? いったい何のことだろうかといぶかしむ。
(そうよ……確かあたし、捨てようとして)
 違和感が急激にふくらんだ。

 ──画像がぼやける。

 カヲルとシンジ……の姿をしたものを中心として、ウィンドウと形容するしかない光の板が、数多く空中に静止している。
 時には揺らぎ、次のシーンを映し出す。時にはかすれ、まったくべつのシチュエーションを紡ぎ出す。
 球状に展開されている光景のすべてを、カヲルは身動きすることなく、『第三眼』を使用して見納めていた。
「……なんだい? これは」
 平然としているようでも、カヲルにはわずかな動揺が窺えた。声が震えている。
「シンジ君の意識を飛ばしたのかい? ……違うね、でもわからないよ」
 カヲルの問いかけに、女の声でシンジは答えた。
「女は……腹を撫で、子の未来を願うもの」
「子?」
「そうでしょう? カヲル……」
 ぞくりと背筋に悪寒が走る。
 カヲルは手を振って否定した。
「そんな呼び方はしないでもらいたいな!」
「ふふ……かわいい子。わたしの子」
「笑えない冗談だね」
 くすくすと笑いがこぼれる。
 うつむいたシンジの顔に影が落ちる。口元の笑みだけが目に映る。
 それがカヲルを追いつめる。
「願う……シンジ君の未来を憂う存在。それがあなたか」
 違う。カヲルは肌でそう感じた。
「……誰なんだい? 君は」
 無言の彼女に追いつめられる。
「君は……いったい」
 ゆっくりとあごが上げられる。とてもいやらしく自分を見下す。
 ──はん!
 傲慢で、勝ち気で、自尊心にあふれた少女に、その目つきが重なった。
「まさか……」
 相づちはない。ただ含み笑いがこぼされるだけだ。
「未来、将来……親は子の生涯を夢想して、その幸せを願うものだ。そして幸せの基準とはつねに他者が築いた成功の道程と結末にある……あなたは僕や、僕の友達や、あなたの知り合いや、あなたの知らない人たちや、自分の『娘』の願望と夢、夢想する物語をその子宮内で育もうというのですか?」
 ──惣流・キョウコ・ツェッペリン。
 カヲルは少年の姿をしたものを、そのような呼称で呼びつけた。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。