「まったくもう!」
 ふてくされた様子で、アスカはベッドの上に身を投げ出した。
 一人暮らしだけに広い部屋ではない。ベッドは場所を取るだけで邪魔だったのだが、それでも生まれた時から良いベッドを使っていたために、妥協をすることができなかったのだ。
「シンジのやつ……」
 アスカは親指の爪をかじり始めた。いつの頃からか付いてしまった癖だった。
 今ではかじるためにわざと伸ばしているほどである。
 本当の苛立ちの原因は別にあった。
『惣流ってなんで碇が好きなんだ?』
 そうじゃない! っと叫びかけて初めて気づいた。
 関わるつもりはないと邪険にするシンジを追い回し、なにかにつけてかまってもらおうとちょっかいを出す。
 それが他人の視点からはどう見えるのか?
 アスカは照れながら考えた。
「好き……っていうのとは違うんだけどな」
 はたしてそうだろうか?
 一緒に登校する。学校でおしゃべりをする。デートをする。手を繋ぐ。キスをする。
 しかしそのどれをとってもイメージがわかない。
 そして……憧れとしての気恥ずかしささえわいてこない。
「そういうのを……したいっていうのとは違うのよね」
 ではこの気持ちはなんなのだろうか?
 それに答えてくれる人間は誰もいない。


 ──弐号機をお借りします。
 カヲルはそう告げると、格納庫へと移動した。
 ゲンドウの許可が下りて、整備班の人間は不安ながらに取り巻いている。
「さあ……行こうか」
 カヲルは正面から機体を見上げて……その言葉だけで、起動させた。


「ムサシ!」
「わかってる……けど仕方ないだろう!」
 残してきた二人のことが心配になる。
 それは多分に、性別のことが関係していた。自分は男で、彼女たちは女の子なのだ、年下の……かばうべき、後輩たち。

 真っ暗な通路をひた走る。しかし完全な闇ではない。
 赤黒い光が脈動している……これはミサトたちが通った時にはなかったものだった。
 樹のある部屋のものが、外を侵し始めていた。
「しかし……ぞっとするな」
 タケシという少年が言った。
「下手すると、いきなりサードインパクトだろう?」
 ミサトたちが刺激したことによって、そういうことも起こりえるのだと彼らは想像した。
「……心配したって始まらないだろう。その時には俺たちは真っ先に蒸発してるさ」
「そうなんだけどな……」
「死後の世界って信じるか?」
「なにが?」
「あるとしたらの話だよ……もしそういう世界があるんなら、俺たちってどうして防ぐことができなかったんだって、責められることになるんじゃないのかな?」
「バッカ……そういうこと言うなよ」
「でもあり得る話だな」
「タケシ?」
「俺たちの中じゃムサシが一番力が強いんだからさ、わからないか?」
「なんだ?」
「だからさ……エヴァとかATフィールドとかってオカルトだろう? 魂の力とかなんとか。だったら次元とか位相かがずれると、どうなんだろうって」
「はあ? なに言ってんだよ」
「だからぁ! 俺たちってさぁ、普段空気のことなんて考えないだろう? でも風とか気圧とかってさ、ムラがあるじゃないか。濃いとか薄いとか。逆にさ、魂だけになったら物質ってのはどう感じられるようになると思う? そこにあったってすり抜けられるんだぜ? だったら物質ってのは風の厚みみたいに邪魔っけに感じるだけの存在になるんじゃないのか?」
「そっか……」
「だろ? だったら人間って、魂だけでも今と同じようにこの世界の上で生きられるのかもしれないぜ?」
 だからってとムサシは吐き捨てた。
「冗談じゃない……俺はまだのまま死にたくないぜ」
「なんだよ、まだアタックしてんのか?」
「やめとけって……マナってあれでそういう話題嫌ってるだろう?」
「……なんでわかるんだよ」
「わからない方がどうかしてるんだよ」
「そうそう……コユリかレイカにしとけよ。せんぱぁい! なんつってな」
 一同に明るい笑いが巻き起こった。
「ほっとけ!」
 恋愛に興味がないのではない。
 そういうことが嫌いなのでもない。
 楽しいこと、面白いことに対して移り気が激しい。だからこそ一人と付き合うことのデメリットを嫌う。
 それだけだ。
 それがマナなのに……マナのことをなにも知らないくせにと彼は歯がみした。
 そう……。
 ──何も知らないくせにと歯がみした。


「アスカって……碇君のことが好きなの?」
 アスカはげんなりとしてヒカリに答えた。
「ヒカリまで……」
「違うの?」
「違うって、あたしはただ……」
 アスカはその先を言い濁した。秀麗な眉を酷く歪めて。
 人に話したくはなかったからだ。
 自分の問題であったから……だがそこに自分のしたことを知られて、嫌われるのを恐れる気持ちがなかったかと言えば嘘になる。
「とにかく!」
 アスカは喚いた。
「あたしが気にしてんのはそういうことじゃないの! わかった?」
「わかった……けど、じゃあ」
 ヒカリは訊ねた。
「他に好きな人とか……いる?」
「いないけど?」
「あのね?」
 ヒカリの話に、アスカは大きな声を出して驚いた。
「でぇとぉ!?」
「うん」
「あたしがぁ?」
「お願い! この通り!」
「なんであたし……が」
(え?)
 アスカは思った。
(前にもこんなやり取りしなかった?)
「どうしたの?」
 不思議そうにしているヒカリ。
 その顔は……本当にこんな顔をしていただろうか?
 いや……それ以前に、どうしてここには綾波レイがいないのだろうか?
 なにかがおかしい……どうしてシンジは鈴原トウジや相田ケンスケとあれほどまでに親しいのだろうか?
 そう……まるで幼なじみであるように。
(変よ)
 そのことに気が付いた時、アスカは「ああ……夢なんだ」と知ってしまった。


(夢から覚めるの?)
 誰かが訊ねる。
(どうして?)
 アスカはその質問にとまどった。
(だって……いつまでも寝てるなんておかしいじゃない。起きるものでしょう? 人間は)
(でも誰も責めたりしないのに?)
(そりゃ気持ちいいけど……)
(このままたゆたい続ければいいのに……夢と現実に差なんてない。まどろみの中で穏やかに)
 それは嘘よと反発する。
(差は、あるわ)
(どこに?)
(あたしとシンジ)
(それはなに?)
(ここではみんな、同じ時間で生きている)
(時は等しく流れるものよ)
(それが違うの)
(どう違うの?)
(だって……)
 シンジとアスカ……シンジが引っ越してからの記憶。いや、もっと以前からの、虐めていた頃からの、さらに前の、幼い頃の、小さな自分が振り返り振り返りシンジを呼んで駆けていく……。
 そんなとりとめもない記憶がよみがえってきた。
「わかる?」
 現実の声でアスカは呟く。
「一緒にいる時、同じ時間の中で遊んでた……一緒に夕焼けを待って家に帰ったの。一日なんてすぐに過ぎちゃって……楽しかった」
 アスカは本当にうれしそうに微笑んだ。
「でもね……違うの。別れた後は違ってた」
(どこが?)
「あたしはテレビを見たり、宿題をしたり、電話でおしゃべりを楽しんでた」
 幼稚園の……小学生の、そして中学生の自分の像が浮かび上がった。
「でもね、その間、きっとシンジは自分の考えに没頭したり、思考を止めるためにゲームをしたり、音楽を聴いたり……ね? わかるでしょう?」
(わからない)
「わかるはずよ……だって、たわいのないことをしてる時、人はあっというまに時間を失ってしまっているものよ。でも同じ時間で、濃密に複雑なことを考えることもできるのよ。結論や感想を出すことができるの。時を無駄にした人間はね、その人には置いていかれることになる」
 あたしがそうだったとアスカは語った。
「わかるでしょう? 夢にも見せてくれたじゃない……シンジはとっくに結論を出してた。あたしのいない場所で仕切り直しをして生きようって。でもあたしはどこかでママが死んだ時で止まってたから、まだ大丈夫なんて甘いことを」
 ならばよけいに現実は辛いはずだと『思考』は語る。
「夢はいいわね……何度でも仕切直せる。その上、自分では絶対に解決できない、理不尽で不都合の多い事態には出くわさないの……。でもね、あたしはそんな嘘の都合の良さは嫌いよ。あたしは現実のシンジと戦いたいの」
「戦うの?」
「そうよ!」
「敵?」
「そう……敵」
 ──シンジは敵だとアスカは言った。
「人生にはね……きっと敵が必要なのよ。戦って戦って戦い抜いて、傷ついて悩み抜いて……敵は人だったり事故だったり色々とあるけど、幸せはきっとその障害を乗り越えた先にあるはずのものなのよね。グランドフィナーレを迎えるために、あたしは現実に帰らなければならないの」
 問題は複雑だけどとアスカは思った。
 シンジとの関係は既に修復されている……それが目的だったはずだけれど、それで幸せになれたかと言えばそうではないから。
「幸せがどこにあるのか……なにをどうすれば幸せになれるのかわからないけど」
 その『誰か』は首を傾げた。
「でもあなたの言うことは……変よ」
「そう?」
「だってその論理だと」
 なんの問題もなく生きている人は、どうすれば幸せになれるというの?
 そんな素朴な質問に、アスカは言葉を詰まらせた。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。