取り返しのつかない事態が起こらない世界。
 言葉を悪意を持って歪められてしまうことのない安易な世界。
 そして自分が無視されることのない安楽な世界……しかし現実はどうであろうか?
 物事は簡単に指の間をすり抜けて行くし、手に負えないほど悪化する。
 夢の世界に引きこもって、その中で不満を解消し、憂さを晴らすような行為は、卑屈なだけのマスターベーションだと……アスカはそう思っていた。
 だからこそ現実に生きることを望んでいた。
 現実の世界で多くの障害に立ち向かい、戦って戦って戦い抜いて、勝利を掴む……。
 そして人は幸せになって幕を閉じるものなのだと……アスカは夢描いていた。
 そうでなければいつか良くなると楽観視して、自堕落に生きていく以外の道はないのだと思っていた……なのに。
(わからない……)
 アスカは足下が崩れ去るような錯覚を覚えてふらついてしまった。
 人の大半はなにごともない人生を送っている……時にはセカンドインパクトのように避けえない『天災』に襲われることもあるが、大抵はなにごともなく平穏無事に過ごして天寿を全うし、死ぬものなのだ。
 なにより……事件や事故の起こらない世界こそが幸福で豊かな世界であるはずなのだから、それを否定することはあまりに寂しい。
 苦しみのない世界……飢えのない世界が存在してはいけないのだろうか?
 なんの不満も抱かずに生きられる人はどうなのだろうか?
 本当の幸せを……幸せというもののありがたみを、彼らは真実感じられはしないのだろうか?
 ……その命題はあまりにもアスカには重すぎた。
 そして答えを出せるほどには、アスカの経験は浅くはなかった。
 障害があってこそ幸せは感じられるものならば、この世に天国はないことになる。
 だがアスカはこの世には天国のような世界もあるのだと信じていた。
 具体的に妄想できるほどの知識を持っていたから、あり得ないはずがないのだと否定する……。
 自己の悲観的な結論を。
 結論の果てに……自分が導き出したはずの生き方を。


「……時には単純であった方が、真実は簡単に手にできるものだというけれど」
 エヴァの肩に乗って、カヲルは地下を目指していた。
 弐号機は腰を落とした姿勢のままで滑っていた。足の裏が床より一メートルほど浮いている。
 幸せは降ってわいてくるようなものではない。初めからそこにあるものだ。
 だがなんの苦労もいらず、甘えて過ごせる環境があったとして、そこに生きる人間は、どこで感受性を養えばいいというのだろうか?
 幸せを感じる心を培えばよいのか?
 そもそも培われるものなのだろうか? 痛みもなしに。
 不満もなしに。
 苦痛もなしに。
 慟哭もなしに。
 アスカの観点で言ってしまえば、幸せにはまず程度の差があるのだと基準差をもうけることから始めねばならない。
 誰かから見れば幸福であり、他人を見れば不幸であると、比較を出して考えねばならない。
 だが現実には、人の幸せは個々人によって違うものだし、幸せと思うことから感じられるものも、他人と当人とでは違ったものになってしまう。
 飽食の中に育った王族と、日常的に植えている乞食とを比べた時、彼らはなにを幸せとして感じるだろうか?
 アスカが導き出した答えは、戦う強さを持った人間の理屈に過ぎない。
 それをアスカはわからなかった……が、カヲルは別段そんな悩みを知ったからといって口にしたわけではなかった。
「この行動は短絡的過ぎるな……リックはなにを思い詰めてこんなことをしたのか……」
 カヲルは皮肉をこめて笑みを浮かべた。
「考えるまでもないことか……真実にたどり着くことで誰も得ることのない価値を手に入れられる。そう……そこになにがあったのか? それを知るだけでも重要な情報を持つ者として優遇されることになる。取引には絶好の材料だ……が」
 下手をすればサードインパクトを起こしてしまうことになる。
「破滅か、それとも価値を得るか。勝負に負けた時には全てを……マリアを失うのだから、それは破滅と同義だから……」
 たった一人の女のために、世界を滅ぼす危険を冒す?
「はた迷惑な話だね、まったく!」
 だがカヲルは正当な評価を下した。
「しかしこれほど女冥利に尽きることはないだろうね……。仕方がないと諦めてしまえるようなものは恋ではないよ。それは愛かもしれないけれど……。狂おしいほどに恋いこがれているからこそ暴挙にも出る。でも……果たして彼女はそれを喜んでいるんだろうか?」
 カヲルは発令所にいるはずの、マリアの顔を思い浮かべた。



「葛城さん!」
 ミサトは喜びを交えた声に反応して、顔を上げ、やってくる男の子たちに身構えた。
「あなたたち……」
「無事ですか? よかった……」
(無事? ……ああ、そういうことね)
 レイのような身内の存在にはともかくとして、彼らのような子供たちには真相は知らされていないのだなとミサトは察した。
「大丈夫よ……それより」
 ミサトはちらりと樹に目を向けた。
 ──錯覚なのか幹の筋がうねりだしているように感じられる。
「あなたたちは?」
「くらくらしてますよ」
「吐きそうです」
「そう……」
 皆一様に樹を目に入れないようにしている。ミサトはそのことに意味があるのかと訊ねた。
「リック君は耳に来たようだったし……レイは全身にダメージを受けたみたいだったけど……」
「俺たちだって辛いですよ」
 そう言って二の腕をさすったのはムサシだった。
「鳥肌が立ってるし……寒気もするし。けどなにかこう……目で見ると別の気持ち悪さがあるっていうか」
「別の気持ち悪さ?」
「ええと……ぐねぐね動いてるものをジッと見てると、酔って吐きそうになるじゃないですか……。あんな感じで、歪んで見えるんです、あれ」
「そう……」
 自分でも動いているように見えるのだからとミサトは納得した。
(錯覚じゃないんだ)
 手を貸してと呼びかける。
「悪いけどこの子をお願い。ムサシ君はレイを背負って」
「葛城さん! それは……」
 ナンバーズとしての本能が忌避感を覚えるのか、ミサトが拾った槍に対して、少年たちは身震いをした。
「……これは力なんて持ってないあたしが持った方がいいでしょう?」
「それは……なんなんですか?」
「さあ? あたしにも詳しいことはわからないわ……ただ」
「ただ?」
「……あの樹の枝と同じものらしいってことだけは確かなのよね」
 少年たちにはその説明だけで十分だったようで、彼らはそれ以上を求めなかった。
「じゃあ……行きましょう」
「タケシ、前を頼む。コウジは俺の次だ、そいつを落とすなよ?」
 ああと言って、コウジはリックの体を背中に乗せた。
「葛城さんがその次、ユタカは最後を頼む」
「わかった」
「急げ!」
 せっぱ詰まった声を上げたのは、樹に異変を見て取ってしまったためだった。
「なんだ!?」
「考えるな! 逃げろ!」
 幹の筋が一皮一皮はげていく……それらはガス状の物体となってうねるようにして身震いをした。
 いや……。よく見れば樹全体が黒い障気の塊と化していた。
 黒く太い筋状のガスが、絡まり合うようにして流れ、睦み合い、一本の木を形成している。
 幹から離れたガスは宙を漂い襲いかかった。勢いを増して身をくねらせると、瞬間で白く発光した。
 白い蛇となって追いすがる。
 一匹、二匹と、無数に増えた。
「この!」
 ムサシは『遅延』の能力(マジック)を使い、足止めをかけた。
 レイの体がずり落ちそうになって、思わず尻をわしづかみにし、抱え直してしまう。
「悪い! ユタカ、やっぱり綾波を頼む!」
「わかった!」
 ユタカという少年も、しんがりを務めるにはムサシの能力こそが適当であると瞬時に悟り、役割の交代を請け負った。
 十匹、百匹、千匹と数が増える。蛇たちは恐ろしい速さで飛びかかろうとしたが、ムサシの見えない力に阻まれて、一定の距離で体をこわばらせ、動きを止めた。
 まるでガラスにナメクジが張り付いているようだった。それも数が何千匹と増えて視界を埋めていくのだ。
 ムサシに近くなるほど彼の能力の影響を受けて動きを鈍くし、限りなく静止に近い状態になる。
 そのために、彼の視界は光でいっぱいに埋まってしまっていた。
 押し迫る蛇たちが隙間すらも埋めていく。
「くっ!」
 なんとか通路に逃げ込んだが、相変わらず蛇は後についてくる。
 常に全力で前に出ようとしているのだろう。ムサシの遅延がなければ、彼らはあっという間に飲み込まれているところだった。
 ムサシは叫んだ。
「こいつら! 使徒なのか!?」
「発光する……形状のない使徒……この間のと同じ?」
「葛城さんはなにか知らないんですか!?」
「知るわけないでしょうが!」
 彼女は正直なところを叫んだ。
「途中の道で使徒が出てくるかもしれないとか、リック君がサードインパクトの引き金になるかもしれないとかってこととかは考えたけど! ゴールしてから使徒に追われることになるなんて……」
「こいつらなにが目的なんだよ!?」
「目的!?」
「だってそうでしょうが! こいつら……俺たちを殺す気がない。捕まえる気だ!」
 それは奇しくも加持がゴリアテにした質問と同じ意を組み込んでいた。
 殺す気ならば……もっと確実な方法が、いくらでも存在していたのだから。
「まさか……」
「他に考えようが?」
(でも誰を?)
 ミサトは消去法で考えて……まさかレイなのだろうかと思い当たった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。