「アスカ……」
ぐっと腕を掴まれて、引き戻された。
振り向けばそこにはアスカが居た。
アスカの青い瞳が大写しになる。
「さあシンジ……あたしと幸せになりましょう?」
シンジは身をよじってあらがった。どうして邪魔するんだよと憤慨した。
「嫌だ……」
「どうして!」
「それはアスカの幸せだろう? 僕の幸せじゃないよ!」
「じゃああんたの幸せってなんなのよ!」
「それは……」
しゅんとうつむいたシンジの額に、鼻息がふんと吹きかけられた。
「ほぉら具体的なことなんて言えないじゃない! 想像したこともないんでしょ? そうよね? あんたバカだもんね」
「……僕は」
「バカだからなにも考えてない! 考えようとしなかった……。考えると胸が苦しくなるばかりだから。不安が募るばかりだから」
「アスカ……」
「未来なんてない。大したことなんてない。生きてても死んでても同じような未来があるだけ。だからなるべく考えないようにしていた。『思考』を停止させていた」
ゲームに逃げて。
本に逃げて。
「僕は!」
「バッカじゃないの?」
アスカは加減のないさげすみを向けた。
「そんなのあんたがどうしたいかで、全部変わってくるものなのに」
「そんなわけないじゃないか」
「どうして? あんたが望めばあたしの体をもてあそぶことだってできたのよ?」
シンジにはアスカが最初から裸であったのか、それとも今服が消えたのか、はっきりと思い出すことができなかった。
そして意識がその不自然さに向くこともなかった。
「やめてよ!」
「この胸」
アスカ右手で左の乳房を持ち上げて見せた。
「ほら……こんなに大きくなっちゃった。あんたを追いかけることにしたころより、もみごたえがあるサイズになったのよ?」
「なんでそんなことをいうんだよ……」
「あんたがいつまでたっても、あたしって女を見ないからよ」
「女?」
「そうよ? あんただってするんでしょ? 自分で……。あたしだってするわ。でもあんたはそういう『生』の部分を考えようとしないで、あたしを幼なじみのあたしのままで抑えつけようとした。あたしはそんなあんたの理想通りのあたしでいようとした。だからこんなに歪んでしまった!」
夢だ……シンジは悪夢だと思った。
潤んだ瞳、欲丸出しの顔。
扇情的で蠱惑的で、男を欲している雌の顔をした女がそこに居た。
両腕を広げて、体を大きく見せている。背中では髪が海草のように広がっていた。
濡れた股間はただただグロテスクで、吐き気をもよおす色合いをしていた。
「あんたはこうなって欲しかったんでしょう?」
なんてことをいうんだろうとシンジは思った。
「違うよ……違う」
「違わないわね」
妖艶に微笑むと、アスカは背後の誰かに体を預けるように倒していった。
右腕を、左腕を、左右それぞれの男性の首にからめて見せた。
シンジは呻いた。
「カヲル君……」
逆を見る。
「加持さん」
「そうよ」
背を抱く加持の腕が背後からアスカの胸をわしづかみにし、腰を抱くカヲルの手が前に回ってアスカの股間を覆っていた。
「あんたはこうなることを望んでた……自分以外の誰かにあたしが惹かれることを願ってた」
皮肉げに笑う。あざける。
「あたしの目が誰かに向くことを。そうしてやっぱりなって気持ちになって、また元の静かな波のない、穏やかな世界に……陰気で根暗な空間に引きこもれるようになることを願ってた」
「……そんなわけじゃない」
「ふふ……」
アスカの顔は紅潮していた。目を細め、にやけさせ、シンジを見ているのだが、体は加持とカヲルの愛撫に反応していた。
しかしシンジはその光景に興奮するどころか、血の気を引かせ、貧血の寸前で立ち止まっていた。
アスカの視線が外れない……アスカが彼らに奉仕させながら、そこになにを重ね合わせて想像しているのか? それがシンジには辛かった。
アスカは彼らの手を、僕の手だと思ってる。そう思って感じてる。
それがシンジには怖かった。女の性が怖くなった。
「僕にはわからないよ……」
シンジは泣きそうになりながら言葉を発した。
震えた声で訴えた。
「アスカのいうことが僕にはわからないよ! どうしてアスカを求めなくちゃならないの!? 僕はただ! もうあんなことにはなりたくなかっただけなのに!」
好きだった人から冷たくあしらわれるようなこと……。
「ただの友達なら嫌になったらもう会わなければそれで済む。だからそういう風に付き合うことにしたんだ! それでもアスカとは友達とも違った、もっと特別な感じになって来ていたじゃないか! どうしてそれじゃいけないんだよ。どうしてそこまで求めるんだよ!」
アスカの顔から紅潮が消えた。
白く濃淡のない顔つきになる。
「あんたがそんなだからでしょうが!」
──やめて。
「あたしはもう堪えられなかったのよ!」
──やめて。
「本当は酷い奴だって陰口叩かれるのにも、今更こびを売って許してもらおうだなんて思って、調子のいい奴だとか、そんな風に! バカにされることに堪えられなかったのよ!」
──やめてよ。
「あんたが先に進んでくれなきゃ! あたしの状況は変わらないのよ! お願いだから幸せにしてよ! 幸せにしてくれたっていいでしょう!?」
「お願いだからもう言わないで!」
「アスカ!?」
シンジは醜いアスカの向こうに、手で耳を塞ぎ、激しくかぶりを振っている、以前の通りのアスカを見つけた。
「アスカが二人……」
「あたしはそこまで考えてない! そこまで勝手じゃない! そこまでいやらしくない!」
「嘘ね」
「嘘じゃない!」
「嘘よ……だって知っているもの」
いつしか加持とカヲルは消えていた。
その代わり、醜いアスカの後頭部の髪が左右に分かれ、そこからもアスカの顔が現れた。
「カヲルとキスしたこと」
アスカの心がひび割れた。
「それが後ろめたかったこと」
そしてなにかが砕け散った。
「話しても良かったはずなのに……あなたは隠そうとした。口に出せなかったのはどうして? きっとシンジに敬遠されるって思ったから」
「あ……あ」
「話す必要のないことだからじゃない。話せばきっと……」
「やめてぇ!」
「そうやって……どれだけのことを隠しているの?」
──自分にとって都合の悪い話を。
「きれいな自分を演出するために……騙すために。そんなあなたに幸せにされるなんて」
──シンジが不幸よ。だから。
「シンジはきれいな世界で生きるべきだわ」
──争いもなにもない世界で、こんどこそ……。
「そうでないと、いけないじゃない」
──だって。
「あたしはそのためにあなたから引きはがされたのよ? なのに今更きれいごとだけのなだらかな世界なんて、本当の幸せを感じられない世界だなんて……どうしてそんなことを話すのよ?」
なんのことだろうかとシンジは思った。
そして同時に、それはさっき自分が口走った言葉ではなかったかと考えた。
「優しい世界を作ろうとしているのに……一生懸命に考えたのに。今更欠点を上げないでよ。本当に辛いことなんて知らないくせに。死がはびこる世界の嘆きなんて知らないくせに」
──最低なんだから。
やはりシンジはおかしいと思った。
自分の口からは普段考えてもいなかった話が漏れ出すし、自分の知っているアスカがあそこで泣いているのなら、この身もふたもないアスカは一体誰なのだろうか?
そして全てが一貫していない……。
(いや……違うんだ)
シンジはようやく気が付いた。
(夢なんだ……これ)
本当の夢というわけではない。
夢と同じで、つじつまがあっていないのだとシンジは気づいた。
(とりとめもなく思ったことが噴き出して、その考えがぶつかり合う……。整合性も整然とした理屈もない。ほんの少しの不安から、勝手な考えや想像が暴走して、傷つけあってる)
それが意図することはなんなのだろうか?
(アスカに無理が来てるってことか? 無理が来ていたってことだったのか?)
シンジは自分も帰る場所を失ってしまったと口にしたアスカの表情を思い出してしまった。
新しく生まれた子に向けられていた感情を、酷くうらやましげにしていた彼女の心情に今気が付いた。
そこにどれだけの不安が隠されていたのか?
どれだけの憧れがあったのか?
すでに家族というものとは無縁になってしまっていたシンジは忘れていた。
そしてそれを思い出す。
(ああ……僕は父さんに捨てられたと思った時、あんなに忘れられたことが認められなくて、寂しくて……哀しかったのに)
どうしてアスカもそういう感情を抱え、押し隠していたのだと気づいてやれなかったのかとシンジは思った。
経験した自分だからこそ……アスカの心の動揺も、想像してやることができたはずなのに。
(学んでないんだな……僕は)
自分のことに精一杯で。
(人を見てあげてなかったんだな……アスカを)
だから?
(今度は僕の番なのかな?)
シンジは二人のアスカを目の中に収めた。右の目と、左の目に。
そして両方を一つに合わせてシンジは重ね見た。そのどちらもがアスカの本心であり、どちらがより好ましいアスカというわけでもないのだと……。
自分の態度一つでアスカはどちらのアスカにもなりえるのだと、まだ間に合うのだと。
アスカから失われてしまったものは決定的であったけれど、取り返せない……いや。
今からのアスカがどうなるかはわからないから。
(僕は……自分の世界に逃げ込んでいる場合じゃないんだ)
──ようやくわかったの!? バカシンジ!
シンジははっと顔を上げた。
気が付けば……二人のアスカも、暗い世界も。
全ての景色が消えていた。
──ザァッと波の音がした。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。