「気持ち悪い……」
 開口一番、シンジは口にした。
「まだ酔ってるみたいだ……」
 身を起こす。
 ここは砂浜……浜辺だった。
 どこかはわからない……見覚えのあるような景色なのだが、わからない。
 潮の向こうには海面より電柱が突きだしていて、斜めに傾いでいた。山もあった。しかしその下は海である。
 まるで景色が海から生み出されようとしているかのような光景だった。気持ちが悪いのは海も空も真っ赤に染まっていることだった。
 シンジが受けた印象は……出産のイメージそのものだった。
 血まみれの生誕。
「アスカ……」
 シンジは影が落ちてきたことで、頭の上に仁王立ちされていたことを知った。
「ようやくお目覚めね……バカシンジ」
 レモン色のワンピース……スカートの奥に白い三角の地帯が見えて、シンジは気づかれないように視線を逸らした。
「……ここは?」
「知らない……多分まだ夢の世界」
「そっか……」
 シンジは額を押さえてかぶりを振り、毒づいた。
「ちくしょう……なんだよこれ。気分の悪い」
 そんなシンジにアスカは目を丸くした。
「初めて見たわ……あんたのそんなとこ」
「はぁ?」
「ちくしょうなんて汚い言葉、なんだか似合わないなって思ったのよ」
「……そんな余裕あるもんか」
「ああ……前に俺とか言ってたこともあったっけ」
「そうだよ」
 シンジはこちらが地だと自分で認めた。
「ちくしょう。嫌な夢見たな……なんだよあれ」
「どんな夢だった?」
「吐き気がするくらい嫌な夢だよ! 願望丸出しで趣味丸出しでっ、不安丸出しのくだらない夢」
「ふぅん……あたしが見たのとはちょっと違うな。なによ?」
「……やっぱりアスカなのかって思って」
「はぁ!? なによそれ」
「うん……これも夢の続きかなって思ったから」
 アスカはわずかに肩をすくめた。
「あたしもそういう感じ……ある。確か中学生の自分が居て、なぜだかあんたと鈴原と相田が幼なじみだったりしたのよね。でも所々幼なじみじゃないのよ。あたしも転校生だったりそうじゃない部分があったりで、まったく整合性が取れてないのに、ぜんぜん疑問にも思わなかった」
「夢そのものだね……」
「たぶん……眠りが浅くなったんだと思うけど、ああこれって夢なんだって気付いたら、こんなとこに来てた」
「ここ……どこだと思う?」
「さあ? 夢の世界……にしては生々しいのよね」
 目を細める。
「あんたもあたしの夢の産物なのかもしれないしね……シンジはもっと臆病だと思うから」
「やめてよね」
「わかってる……怒鳴られたことだってあったしね」
 アスカはそう言ってくすくすと笑った。
 シンジも赤くなる。いつのことを言っているのかわかったからだ。
「あの時はごめん……」
「ショックだったなぁ……あそこまで嫌われてたとは思ってなかったからねぇ」
「……余裕なかったんだよ」
「まあそういうことにしといてあげるわ」
 アスカはシンジの隣に腰を下ろした。
 膝を三角に立てて抱き込むようにする。
「それで……この世界なんだけど」
「うん?」
「なんだかママみたいな人と話したような気がするのよね。その人がわめいてたの、今更そんなこと言わないでって」
「なんのことだよ」
「だからぁ」
 アスカはもどかしそうに自分が見た夢の内容をかいつまんで話した。
 しかし夢そのままと言った感じが残ってしまっていてあやふやだった。
 相手の姿は見えなかったし色もなかった……絵もなかったかもしれない。話したのは確かなのだが、声は、音はあっただろうか?
 その上で、夢独特の現象……目覚めた時には大部分を忘れてしまっているというものに襲われていて、とても事細かに伝えるというわけにはいかなかった。
 しかし……そのおかげでアスカは確信を持てた。これは夢ではないのだと。
(夢ならもっと簡単に伝わったことになるはずだもんね)
 目前にはよくわからないよと不満げにしているシンジの顔がある。その顔がある程度納得したものに変わるまでには、決して短くはない時間が必要になってしまった。
「ってわけなのよ……」
「ふうん……」
 シンジは不機嫌に応じた。
「どっちの言い分もわかるにはわかるかな……僕だってアスカの脇役とか相手役なんかで終わりたくないよ」
「そう……そうよね、やっぱり」
「でも主役になろうと思ったらそんなアスカにあらがうしかない……そうなるとアスカと同じになっちゃうんだよね。お互い主役になろうとして張り合って……。でもそれでいいと思えるんだよな」
 アスカへと身を乗り出すように体を横向け、その顔をのぞき込んだ。
「アスカは今でも僕のことが好きなの?」
「……わかんない」
「僕もどうだかわかんない……けどこだわりはあると思う。アスカが僕をダシにして幸せってものを噛みしめようっていうんなら、僕だって幸せになるためにそんなアスカをネタにすることはアリなんだろう? そうやってお互いを利用しあって演出していくのも許されるんじゃないかって思えるんだ」
「レイは? ……渚も」
「もちろん舞台の上が二人っきりってことはないんだから……アスカが言ったじゃないか。人っていうのは傍にいない限り、時間を共有しようとしない限り、どうしたって自分一人で考えてしまう時間ってものができちゃうってさ。こうやって話し合いでそのズレを埋められればいいけど、お互いに話したくない……話せないものだってある」
「いやらしいとか……嫌われたくないとか。いろいろあるもんね」
「そうだよ。いいかっこしたいとか、いろいろさ。でも実際には時間は一定に流れているんだから、僕たちの中にはお互いのことだけじゃなくて、レイのことやカヲル君のこと、他の誰かのことでしめられてる時間も持ってる。アスカが僕の傍にいてくれないなら、僕の時間はアスカじゃない誰かに占められていく一方だ。必然的にアスカのことなんて忘れちゃうよ」
「だからあたしは忘れられたくなくて……」
「わかってる。でも僕にはもうどんな風に受け入れたらいいのかわからなくなってた。だから逃げ出したくて拒絶しようとしたんだよな……好きとか嫌いとかじゃなくて、どうしろっていうんだよって苛立ってたんだ」
「今は?」
「いらつきがなくなったからかな……なんともない」
「でも好きにはなってくれてないんだ……」
「好きだった……昔はね? でもそんな風に思っていても辛いだけだってわかったから」
「結局自業自得だってことになるのね」
「アスカ……」
「わかってる……ううん、わかってた。シンジがあたしを好きだったように、あたしもシンジが好きだった。だけどママが死んでからシンジの見え方が変わっちゃったのよ……。シンジはあたしが好きなんじゃない。なついてるだけなんだってね? そう思った時から嫌な風に見えるようになったのよ……シンジはあたしのママが死んで好かったって思ってるって。ママが死んで自分と同じになったって喜んでるって」
「……」
「だから気持ち悪いって感じるようになったのよ……勝手よね。そりゃシンジがあたしを嫌いになったのもわかるわ。好きだって思ってる相手に邪険に扱われて……どうしたらいいのかわからなくて、途方に暮れて……」
 アスカははぁっとため息を吐いた。
「どうして、どうして、どうしてって……触れようとすればするほど嫌われていく。こんなに辛いものだなんて思ってなかった。いっそのこと何とも思わなくて済むようにって……忘れてしまった方が楽だなんて考えた気持ちもよくわかるわ」
「でも忘れられなかった」
「あたしだってそうよ」
「良くも悪くも幼なじみだからね……」
「うん……あたしの昔はシンジでいっぱいだから」
 アスカはシンジが突いている手に手を重ねて握りしめた。
「たぶん……あたしが話したママっぽい感じのする人って、そういう辛い部分をリセットしてくれようとしていたのよね」
「余計なお世話だけどね」
「そう?」
「だってそうじゃないか……あんなことがあったから、僕はこんなにもアスカって子を意識するようになったんだよ? アスカだってそうだろう?」
「うん」
「でもそうじゃなかったら? 僕たちは適当に友達のままだった……中学校にあがったら男友達と女友達のグループに分かれて、そのまま別の高校に進んでたかもしれないんだよ? 僕たちはただの昔なじみになっちゃってたかもしれないんだ。……レイやカヲル君、トウジにケンスケ、他のみんなとも知り合えなかった」
「レイが気になるっていうの? あたしとカヲルとのことも……」
「そうじゃないよ。正直ショックだったけど、でもこの街に来ることがなかったら、アスカはまた別の人と付き合うことにしてたんじゃないの? だからそのこと自体は問題じゃないんだよ」
「問題じゃないんだ……」
「そうじゃなくて」
 ああもうと焦るシンジにクスクスと笑う。
「嘘よ。冗談」
「やめてよね、もう! こっちは真剣なんだから」
「はいはい」
「だからさ……アスカから逃げようって思わなかったら、僕はレイのことも母さんのことも、父さんのことさえなにも知らないままだったかもしれない。アスカの言ったとおりだと思う。僕たちはまだ道を選んでいるんだよ。ゴールは死だ。けどルートは決まってない。時々誰かと会ったり誘われたり、看板があったり道しるべがあるけど、あくまで選ぶのは自分で、歩くのはこの足でなんだ」
 だから。
「僕たちはずっと同じ世界を歩いてきたんだ……それを辛いからって逃げ出して別の歩きやすい場所を用意してもらうのは違うと思う」
「そうね……」
 アスカは口にしながらも、感激していた。
(あたしの考えは間違ってなかった)
 シンジはこんなにもたくさんのことを考えて、ちゃんとした答えを出すだけの頭を持っている。
 なのにすれ違ってしまったのは、結局シンジを拒絶してしまったからなのだ。
 同じ時間の中で過ごさない限り、別々の時間に埋没してしまうことになる。
 そしてもうふれあうどころか、見つけることさえできなくなるのだ。
 こんなにも早く結論を出してしまうシンジと一緒に生きるためには、やはり傍にいて、話して、考えを聞いて、会話を持つしかないのだと……。
 アスカはようやく、自分の選択が正しかったのだと手応えを感じていた。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。