地下の状況の変化に伴い、医療棟でもようやく落ち着きが取り戻されてきていた。
看護婦が交代で休息を取る。チルドレンは多くともナンバーズの数は知れている。
そして彼らも今は鎮痛剤によって落ち着いている。
ほんの少しの……空白の時間がそこに生まれた。
詰めていた看護婦が部屋から離れた。患者の小康状態が続いている間に、誰かと交代してもらうためだった。
「もう! どうして誰も出ないのよ……」
ナースステーションにいる誰かと代わってもらおうと思ったのが、どうしたのだろう?
しかし彼女的には限界だった。
(もれちゃう!)
緊急なのは自分も同じだとはしたなく思う。
──時間にして五分となかった。
ほんのわずかな時間である。その間に患者が意識を取り戻すなどとは思わなかった。
麻酔がかけられ、睡眠薬も投じられていたのだ。なのに『彼』と『彼女』は起きてしまった。
ここはどこなんだろうと彼は思った。
ここってどこよと彼女は思った。
そして部屋は近かった。
素足でぺたぺたと廊下に出た二人が鉢合わせたのも偶然だった。
「シンジ……」
「アスカ」
二人は期せずしてまったく同じ調子で立ちすくんでしまった。
『えっと……』
そっくり同じに顔を歪める。
「なんだろう……なにかひっかかってるんだけど」
「あたしも……」
「アスカも?」
「うん……なんか言ってやろうと思ってたような……だめ! 思い出せない」
「……僕もだよ」
二人ははぁっと吐息を漏らした。
「……まあいいや。これ、なんの騒ぎなんだと思う?」
シンジの問いかけに、アスカも首を巡らせた。
「知るわけないじゃん……ねぇ、ここって病院?」
「たぶんね」
言ってからシンジはそっかと理解した。
「ずっと眠ってたんだよ、アスカはね」
「そうなの? どのくらい?」
「……気にする必要ないくらいだよ」
「……そんなに?」
「どうしてそうなったかは……わかってる?」
「あんまり覚えてないけど」
彼女は髪に手ぐしを入れてかき回した。
「なんかひっじょーに不愉快なけんかやってたのは覚えてる」
「けんかね……」
「どうなってんだろ……あたし、変にそのあたりのこと覚えてないのよね。確か……そう。化け物みたいになっちゃった奴とどうこうしてて……」
「うん」
「どうしたんだっけ……そうだ、あの女」
「あの女」
「ヒカリの姉貴よ! あいつどこいったのよ!?」
アスカの剣幕に、シンジはわずかに目を伏せた。
「死んだよ……」
「死んだ?」
「そう……いうしかないんだと思う」
「どういうことよ?」
僕にもわからないんだとシンジは語った。
「コダマさんが使徒と感応してたのは間違いないんだ……精神を汚染されたとかって話もあった」
「精神汚染……使徒に?」
「うん。でも……」
「でも?」
僕が悪いんだ。
シンジは誰にも見せたことがない顔をアスカに見せた。
「僕がコダマさんを変えたから」
「ちょ、ちょっと待ってよ!?」
「僕が力がどういうものかなんて教えちゃったから……コダマさんは人の心を読みとれるようになったんだ。まさか使徒と心を通じ合わせるなんて」
「だからって、あの女が死んだ理由が、なんであんたに」
思い切って顔を上げる。
アスカを見つめる。
「……『月』は僕に狙いを定めた。その僕を取り巻く環境から、僕という人間にとって都合の好い条件とか、環境とか、そういったものを構築している人間とか、感情とかを抽出しようとしたんだ。アスカは……コダマさんとアスカは、それで使徒に狙われたんだ」
「なんで……」
「僕は昔から気持ちの悪い人間だった……。人を恨んだりねたんだりするような人間だった。そんな人間がなにかを望まないはずがないんだよ」
「……たとえば甘えさせてくれる人を?」
「そうだよ。そういった人間の欲みたいなものが最初から当たり前のように用意されている世界……月はそれを作ろうとしていたんだ」
「でも……」
アスカはシンジの顔を見て、無駄だろうなと口ごもった。
なぜと発したのは、月の動機を聞きたかったからではない。
どうしてそうも断言できるのかと聞きたかったのだ。
(シンジにもわかっていないのかもしれない……)
わからない領域で思考が形作られているのかもしれないと、アスカはカヲルと似たような結論に達して言及するのをやめてしまった。
「シンジ……」
「なに?」
怯えているシンジに、アスカは努めて明るく振る舞った。
「とりあえずさぁ……場所変えない?」
「場所?」
「こんなとこで話してるのもなんだしさ」
「……そうだね」
こくんと頷いて、シンジはあっと声を上げた。
「アスカ……」
「なによ?」
「服……どうしよう」
「あ……」
アスカもようやく気が付いた。
自分たちは淡く薄いグリーン色をした患者用の治療服を着せられていた。ごわついた生地はかたくて袖口も胸元も裾もしっかりと広がっている。
その上、下着を付けていないから覗かれ放題だ。
……さらにはアスカの場合、足が長いから、少しばかり刺激的すぎる状態になっていた。
「スケベ」
ビッと舌を出して、前後の裾を下に引っ張りながら病室に消える。
シンジは困り顔で後頭部を掻いた。
「……アスカが可愛く見えるなんて、どうかしてるな」
……聞かれなかったのは幸運だった。
──こういうものか。
搭乗……いや、装着前は緊張したものの、ムサシは思った以上に難しいものではなかったと安堵した。
右腕を上げてギュッと握る。そんなイメージ通りに腕は動いた。
自分の腕を動かしているつもりで、エヴァの腕も動いてくれる。
エヴァンゲリオン弐号機は、顔を上げると闇の奥へと視線を投じた。
『お前たちはこのまま逃げてくれ、そいつのいう通りにやってみる』
「できるのかよ?」
『やれそうだ』
弐号機の声はくぐもったものになっていた。喉から直接発せられているようだ。小刻みに震えている。
自分の体だと思ってもいい……そう考えたムサシだったが、すぐにその考えが間違いであったことを悟らされた。
同程度の背丈であった彼らを見下ろしてしまっている。
ついでに頭が天井に当たりそうだ。
(こんな姿勢でふんばれるのか?)
気合いを入れる時はふんばるものだ。そんな当たり前の発想をして、彼は頭をぶつけぬように歩き出した。
「こんなことなら、ムサシについて行くんだった」
機体の中にこもったままで、マナはぽつりと呟いた。
シートの上で膝を抱えてしまっている。地下の状況はつかめないのだからやむをえない。
だが彼女がそんな具合に余裕を持っていられたのもそれまでだった。
「なに?」
下が騒がしくなってのぞき見ると、奥から誰かが戻ってきたようであった。
「ひっ!?」
彼女は悲鳴を上げてしまった。通路の暗がりから照明の中に現れたのが化け物であったからだ。大きい……五メートルはあるだろう。巨大なカブトムシかゴキブリに見えた。
歩哨を買って出ていた連中が銃口を向けて威嚇していた。
誰かが言った。
「止まれ!」
──止まらないと撃つぞ。
なにをのんきなとマナは機体の起動に取りかかろうとしたのだが……マナはなぜ彼らがそのようなものいいをしているのかに気が付いた。
──怪物の首に人間の頭が埋まっていたからであった。それは目標として追っていた男の顔であった。
「そんな……」
ゾッとする。この間の事件のことが脳裏をよぎった。
「また……あんなことになるの?」
問題はここが地下だということだった。それも最深部に近い。
逃げ場がない。
「おーい、撃つなぁ!」
だがそんな緊張感を、のんきな声が台無しにしてくれた。
怪物の背中には男たちが乗っていた。負傷している者もいてぐったりとしている。
手を振っている男には見覚えがあった。
「加持君か!」
誰かの声にそうだと返事が戻された。
「彼は投降してくれた。危険はないから危害を加えないでくれ」
「危険って……」
「医療班を早く!」
怪物が足を曲げて体を寝そべらせた。
先に飛び降りた加持が、負傷兵の積み卸し作業に入った。全員をおろすのにそう長い時間はかからなかった。
「ご苦労さん」
それからのことは、見ていても現実のものとしては思えなかった。
ぐにゃりと歪んだ怪物が、関節や甲羅を畳み込んでいく。いくつにも波状に織り込んで、内側へと巻き込んでいく。そうしてサイズを小さくし、最後に団子状に潰れていった。
(気持ち悪い……)
ぐねぐねとうごめきながら人間大に……そして立ち上がった時には、大柄な少年の姿を取り戻していた。
肩口を掴んで、引きちぎるような勢いで腕を振るう。すると肩の肉がゴムのように伸びて立派なローブへと変化した。
彼はそれを巻き付けて加持へと顔を向けた。
「手錠はかけないのか?」
「どうせ無駄だろう?」
「だが彼らが安心しないぞ?」
奇妙な光景に度肝を抜かれたのか、一部の人間は警戒心を丸出しにして遠巻きにしていた。
加持は肩をすくめて口にした。
「目的は達したからもういいか? それにしても簡単に諦めてくれたな」
「……知らないのか?」
「は?」
彼が諦めたのは、もう邪魔をする必要がなくなった……からではない。
単純に……やってきた渚カヲルが怖かった。それだけであった。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。