アスカはきょとんとして口にした。
「は?」
 口にくわえていたキャンディを、あやうく落としそうになってしまう。
 小さなあめ玉に棒がついている。そんなありがちなキャンディーだが、人気があってなかなか売っている店を見ない。
 それどころか、最近では店じまいを始める店舗が数多くある。
 これまで事件といえば地下で起こるのが当たり前だったのだが、とうとう地上にまで戦闘が広がってしまったからだ。
 レイノルズが変貌した化け物の姿を目撃した市民は多かった。そして各店、各ビルには、防犯カメラが個別に設置されている。
 もちろん統合的な監視システムも存在する。それらがとらえた映像は、市が運営している団体や、警察機構にも流されている。
 全てのデータを破棄、あるいは改ざんし、隠蔽を計ることは事実上不可能であった。このような映像はニュースソースとしても利用され、使徒の恐ろしさを物語るものとしても使われている。
 ──それが情報操作の限界であった。
 幸いにも、音声込みでとらえられた映像は存在していなかった。奇怪な姿で現れたレイノルズはあくまで人型の使徒だとして報じられた。
 使徒が人を陥れるために、人のような使徒になった。そのように真実は操作された。
 ……もちろん全員が信じるわけがなかった。その場に立ち会っていた者たちもいたのだから。しかしそれが結果として、情報に錯綜する流れを作り、混乱を引き起こすという影響を生んでいた。
 あれは使徒に犯された人間であっただの、中にはチルドレンが変じたのだという、真実そのものも混ざり込んでいた。
 しかし、真実も多くの噂にまぎれてしまうと、憶測以下の存在にまで落ち込んでしまう。
「だからぁ」
 アスカに話しかけているのは、洞木ヒカリ経由で親しかった女の子だった。
 同じクラスで、少しばかりテレビ番組のことで盛り上がり、トイレに一緒に行くことがあった。その程度の知り合いである。
「そういうことになっちゃってるけど、あれってアメリカから来た子がああなっちゃったってのが本当じゃない? でも碇君も惣流さんも、ああじゃない形に変わったじゃない」
 そうだったっけかなぁと、アスカはあやふやになってしまっている記憶を脳の奥から引っ張り出した。
 確かに……自分はなにかに変わったような記憶がある。しかしはっきりとは思い出せない。
「それがどうかしたの?」
 だがアスカはおくびにも出さずそう問い返した。
「うん……だからね? アメリカの子の変身ってのが、『進化』しようとしてミスッちゃったって結果なら、惣流さんのはどうだったのかなぁってさ?」
 なるほどとアスカはようやく尻尾髪の少女の言葉に納得した。
 いつものミサトの個人授業の帰りである。腹ごしらえにと寄った食堂でつかまって、なんの用事かと思えばそのような質問をぶつけられた。
 親しいわけではないからか、ほんのちょっとばかり苛立つような、それでいて探るようなやり取りに、どういう意味があるのかといぶかしんでいたのだが……。
「っつっても、もう知ってるんじゃないの? アタシがエヴァ使えなくなっちゃってるって」
「うん……知ってる」
「じゃあなんでアタシに聞くわけ? アタシ、ミスッた人間なのに」
 でもと彼女は食い下がった。
「そのさぁ……使えなくなった理由について、赤木先生から説明とかされてないの?」
 チルドレンやナンバーズの健康診断には、必ずと言っていいほどリツコが立会人として姿を見せている。
 普通の医者にはわからないことも多いからだ。そんな理由から、リツコは先生とも呼ばれていた。
 そういうイメージが定着してしまっているのである。
「……少しは」
「それ、聞きたいんだけど!」
 彼女は瞳を輝かせて身を乗り出した。
「やっぱりさ! どうせならちゃんと変わりたいじゃない? 碇君とか惣流さんみたいにさ!」
「……だったらシンジに聞いてよ。アタシは失敗組じゃない」
「でも碇君は……」
「なによ?」
「ううん。ちょっと近寄りがたいっていうか」
 じゃあアタシだと話しかけやすいのだろうかと、真剣に思ってしまったアスカである。
 決してそんなイメージを持たれるような自分ではないと思うのだが。
「ま、惣流さんには疑惑とかもあるしねぇ」
「は?」
「ほら……。前にね? 碇君だって力使えなくなったんじゃないかとかってあったじゃない?」
「あたしもみんなを騙してる……っての?」
「そこまではいわないけどぉ……落ち着いてるのって、やっぱ裏とかあるんじゃないかって。ないの?」
「ない」
「そうなの?」
「ほんとにないって。アタシだってそれで焦ってるんだから」
「焦ってるって?」
「これよ、これ」
 ポンポンと隣の椅子に乗せていた鞄を叩いた。
「エヴァがらみで、このまま一生ネルフで働かされるんだろうなぁとか思ってたし? それでさぼってたってのにいきなり力使えなくなってさ。でも今更普通の高校に行こうにも、編入試験で落とされそうだし」
「……ナットク」
「でしょお? こうなりゃ一年くらい浪人するつもりでさ、大検狙うとかしないと」
「あ、でも」
 おそるおそるといった調子で彼女は訊ねた。
「お嫁さん……って手はないの?」
「はぁ?」
「碇君の……とか」
「お嫁さんねぇ……」
 アスカは呆れた。
「凄い発想。飛躍しすぎじゃない?」
「すっごく楽だと思うけど……」
「選択肢としちゃそれもいいけどねぇ……」
 なんともなしに……そんな感じで答えたアスカである。明確なビジョンが思い浮かんでこなかったからだ。
 シンジのことは好きだし、このままこだわり続けるのなら、そういう終着点しかありえないだろう。
 それは単純な予測だった。
 けれども結婚に憧れがあるかと問われれば問題になるのだ。好きな人と、甘い生活を楽しんで、子供を抱いて、行ってらっしゃいと見送って……。
 掃除をして、洗濯をして、まだ幼い赤ん坊とお父さんの帰りを待って……。
 お父さんとは……シンジとはなにをするのだろうか? お帰りなさいと抱きついて、キスをねだって、シンジもシンジで、甘えようとしてよってきて、ちょっかいを出して、膝枕をねだったりするのだろうか?
 ──それはないなとアスカは思う。
 あまりにもイメージからはかけ離れすぎている。たとえ一緒になったところで、自分たちが築く『現実』は、そんなものではないだろう。
 では……どんな世界を築くのだろうか?
 それがまったく見えやしない。
「ねぇ……」
「え?」
「あんたはどうなの? 結婚とか……したい?」
「したいしたい!」
 こくこくと頷き、尻尾髪を暴れさせた。
「そぉりゃ、やっぱ女の子の夢だもん! かっこいいダンナ様にいってらっしゃいなんて子供抱いてお見送りするの」
 そんなもんだろうなぁとアスカは思った。
「……普通、やっぱりそういうのが夢よねぇ」
「でしょう?」
 きゃっきゃとはしゃいで、ピンク色の妄想を語っていく。
 そんな彼女に相づちを打ちつつ、アスカは少しばかり思い悩んだ。
 やはり……自分は普通とはちょっと違うのだなと思ってしまった。




 夜ともなれば涼しい風が吹き始める。
 月はそこそこに明るく、普段ほどには蒸し暑くない。そんな非常に良い夜だった。
「…………」
「…………」
 しかしここ、シンジの部屋では、局地的に不快指数が高まっていた。
「ちょっとぉ……」
「なに?」
「なんでアンタがここにいんのよ?」
「だって……」
 レイである。
「アスカと顔、会わし辛いし」
 彼女の格好は黒のキャミソールに赤の短パンという、実にあられもない格好であったが、当然ここまでそんな姿で来たわけがない。着替えたのだ。
 アスカの目は、ちらりと彼女のバッグへと向けられた。
 一泊二泊するだけとは思えない大きさにふくらんでいる。
 だからアスカは不機嫌に訊ねた。
「で、避難しようと思って?」
「うん」
「だからって、なんでシンジの部屋なのよ?」
「アスカこそ、なんで?」
「は?」
「なんでアスカは遊びに来たの? こんな時間に」
「あたしは……」
 アスカははぁっとため息をこぼした。
「やめよ。どうせつまんない言い合いになるだけだし」
「うん……」
「で、シンジは?」
「まだ帰ってない」
「鍵は?」
「力で」
「あんたねぇ」
 テヘッと舌を出すレイに呆れるアスカである。
「それって不法侵入じゃない」
「いいのいいの。どうせ鍵貰うんだから。前借りってことで」
「怒られてもしらないからね」
「……シンジクンに?」
「…………」
 だめだとアスカは思ってしまった。
 なし崩しに半同棲とか通い妻とか、そんな状況が思い浮かんでしまう。
「あんたって……」
「なぁに?」
「ずっこい」
「アスカほどじゃないと思うんだけどなぁ?」
「なぁんでよぉ」
 レイはアヒル口を作って、上目づかいに問いかけた。
「あたしが入院してる間に、シンジクンとなにかあったんじゃないのぉ?」
 ジトーっと見る目になんとなくあったかもしれないという気になってしまう。
「な……ないってば」
「ほんとにぃ?」
「ほんとだってば!」
「あっやしぃ」
「あんたねぇ……」
「やっぱりアスカ、やっちゃったんじゃ」
 ゴス!
「やってないってば!」
「……いたい」
 涙目になるレイの様子と、懐かしい拳の感触に、なんとなく気持ちの良さを覚えてしまって……。
 アスカは危ない余韻に浸ってしまった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。