「…………」
シンジはわざとらしくほおづえをついていた。
広いネルフ本部である。食堂やラウンジが一つでは不便だということで、新しくいくつか新設されることになっていた。
ここはその内でももっとも最近──昨日開かれたばかりのラウンジである。
アスカにここで待っていろと電話で指示されたのだが、偶然にも隣の席にはカヲルの妹が陣取っていた。
コーラの缶をテーブルに置き、時計を見て時間があるなと困ったときだった、彼女に電話がかかってきたのは。
お兄様とかなんとか……そんな言葉が耳に入って、カヲルの妹だと気づいてしまったのだ。
幸いにも向こうはまだのようであったが、顔を見られては逃げようがない。
こちらは知らなくても、向こうは知っている。カヲルに釘を差されたばかりだ……と思って、顔を隠していたのだが。
「碇シンジさん」
シンジはひくついた頬を支えていた手のひらでぐっと掴んで、無理やりひきつれを元に戻した。
「……なんですか?」
「碇シンジさんですね?」
「はい……」
「わたしのことはおわかりですね?」
──あ、苦手なタイプだ。
シンジはわずかに身構えて、わかりますと頷いた。
シンジの返答に、鷹揚に彼女は頷いてみせた。それは高貴な生まれにあるという余裕からにじみ出たものであったのだが、シンジにはただ横柄なだけの人柄に見えた。
高飛車だ。そう感じる。それは昔のアスカのような赤い髪と、つり上がった目をしていたからかもしれない。小学校高学年の時のような……。
今ではだいぶ色が抜けて金に近くなってきている。だからかもしれない。昔のアスカと今のアスカは違って見える。印象的に重ならないのだ。
だから苦手意識が抜けてきているのかもしれない。しかしこの少女は、その意識をはっきりと思い出させるものを持っていた。
(カヲル君が苦手に思ってるわけだよ)
人を見下すことになれている人間は、顎を上げた姿勢を自然なものとして身につけている。逆に自分のような卑屈な人間は、顎を引いているものだ。
前者は背筋をそらせて、後者は背を丸くして。
「あの……僕になにか?」
「あら? 兄がお世話になっている方に、ご挨拶を申し上げてはいけませんか?」
「世話だなんて……」
「ご謙遜を」
その時になって、シンジは彼女が嗜んでいるものが、紅茶とケーキのセットであることを知った。
取っ手付きの紙コップに、紙皿だ。当然出てくる紅茶とケーキの質も知れているのだが、彼女が小指を立てた手で優雅に運ぶと、それなりに見えるから不思議だった。
(どうもなにかね……)
シンジの視線にか、にっこりと微笑む。
「わたしのことは、兄から? それとも……」
「それとも?」
アネッサの眉間にしわが寄る。
察しの悪い方ですわね──そう思ったのだ。
「ネルフの総司令──つまりはお父様からお聞きになられたのかと思ったのですわ」
「…………」
どう答えようかとシンジは迷った。
「お待たせ!」
シンジは助かったと振り返った。そこにいたのは期待通りにアスカである。
「遅かったね?」
「そお? 時間通りだと思うけど……」
アスカはシンジの頬が引きつっていることに気が付いた。ついでに、額の汗にもだ。
「ふうん……」
その向こうには、なにやら険のある視線を送って寄越す少女がいる。さながら邪魔を……とでも思っているのだろう。わかりやすいなとアスカはおもしろがった。
「で、どう? ここ。けっこう好い感じじゃない?」
じゃあ行こうかと口にする間を与えないアスカである。
素早くシンジの隣に座り、その向こう側に見えるアネッサのことを、彼女にも聞こえるようわざとらしく訊ねた。
「誰? あの子」
「……カヲル君の妹さんだよ」
「へぇ! あの子がねぇ」
なんかそんな感じよねぇ……。まるで馬鹿にしたような言い方をする。
もちろん、アネッサが黙っているはずがなかった。
「どなたですか?」
「ふん?」
「失礼な方ですね」
「別にあんたに興味なんてないからね」
ふふんと鼻で笑って、シンジのコーラを口にする。
「人の彼氏になに手ぇ出してんのよってね? 思っただけよ」
「人のって……」
赤くなるアネッサである。
「下劣な……」
「そう?」
「あなたのお名前は?」
「アスカ。惣流アスカよ」
「惣流……」
ああと彼女は口にした。
「ラングレーの」
これにはアスカが首をかしげた。
なんのことだかわからなかったのだ。
「あんたは?」
「アネッサと申しますわ。『お姉様』」
「はい?」
彼女の口元に嫌らしい笑みが浮かんで見えた。
「だって、ラングレーはお兄様にご執心のようですから? そのようなこともあるでしょう」
ますます理解できない話である。しかし不吉な感じはぬぐえない。
不安になってアスカはシンジを見たのだが、シンジはアネッサっていうのかと、ズレたことを呟いていた。
●
「どういうことよ!」
怒れるアスカはやはり恐ろしい。
怒り肩で追い詰めていく。カヲルは腰を抜かしたような状態で、壁際にはりついて釈明した。
「べ、別に僕に責任は」
「話せっつってんのよ!」
カヲルは助けてとシンジを見たが、シンジは右手を顔の前でぱたぱたと振って見せただけだった。
意訳としては、無理無理……が一番正しい。
ちなみにシンジの近くにはゲンドウがいる。ここは総司令執務室だ。ゲンドウの隣ではコウゾウが詰め将棋を指してしる。
あまり関心はないらしい。
アスカがぐしゃりと握りつぶしているものは、ラングレーという名の家から送られてきた嘆願書だった。
アスカはクォーターである。その母はハーフだった。
そして祖母はラングレーという名家を営む女傑である。この家を治める当主は代々女性が望ましいとされてきている。手紙はその祖母からのもので、恒例を理由に家督をアスカに引き継ぎたいというのである。
しかし……アスカにとっては知らない人からの手紙であった。父からもなにも聞いていない。そして死んだ母にそんなものは見えなかった。見せなかったのかもしれないが。
「この最後の、渚カヲルによろしくってなによ! どういうことよ!」
このような手紙の締めくくりとして男子の名前を出すなどとは、理由や目的は知れている。
「だから、僕にもなんのことだかわからないんだよ。本当に」
アスカはちっと舌打ちをした。そして目標をゲンドウに変える。しかしうっと唸ることしかできなかった。
「…………」
いつもの調子で、手で作ったはしけの影に顔を隠してじっとしている。その威圧感は、彼女程度の少女には、到底あらがえるものではない。
「……おじさま」
すぅはぁと……アスカは気持ちを落ち着けた。おじさまと出てしまったのは、無意識のことだった。
「おじさまはなにかご存じですか?」
ああとゲンドウは城壁を解放した。
手をほどいて体を伸ばす。
「君の父親のアレクは、キョウコ君の家に婿として入った……が、キョウコ君の死後、ラングレーは奴を放逐した。女系一族であるラングレーは、血の混ざっていないアレクを、ただの厄介者だとして扱った……そういうことだ」
「でも……その前から、ママはそんな家の話」
「キョウコ君がアレクを選んだのは、家を出たかったからだという考えもあったらしい……まあ、詳しいことはアレクに聞けばいい。ただ、アレクは君を手放すつもりはなかった。後妻である今の君の母親のことでももめたがね。そのためにキョウコ君は死んだのではないかと……」
わずかな言葉の濁りに反応を示したのはシンジだけだった。
──実験をよそおって。
殺したのではないかと疑われた父。その父についての噂のためにいじめられた自分。
父がなにを思ったのか? 想像するのは簡単なことだった。
──嫌な誤解だ。
重ね合わせてしまったのだろう、自分の姿を。
「……いや」
ゲンドウは思い直したようだった。
「そのことも俺には話せないことだ。問いつめて聞き出せばいい」
「はぁ……」
「ともかく。キョウコ君の遺志がある以上、アレクの行状はともかく、君の行き先については困ることになってしまった」
実家は引き取りたいと言うが、故人の遺言がある。しかし父親に預けておくには、性格に難がある。
「そこで君は、一時この施設で預かることになった」
「え……」
「ゲヒルンドイツ支部の研究員だったアレクに異動命じたのはわたしだ。その後、アレクは転職した。君とシンジは同じ託児所に預けれていたこともあった……が」
また言葉を切った。思い出話になってしまうのを避けたいらしい。
「だが……君ももう大人だ。法的にもそろそろ自分の意志で決定を下すことができるようになる。親権者であるアレクがなんと言おうとも、君に本家に戻る意志があるのなら、誰にもそれを止めることはできはしない」
「でも……なんで急に」
「そう急な話でもない……ラングレーからの嘆願書は今までにも何度も送られてきていた。君を寄越してくれというな」
「そうなんですか?」
「今度のものを君に見せたのは、その最後の一文があったからだ」
「…………」
「おそらくは以前のことがあるのだろう」
「以前のこと?」
「これだ」
ゲンドウはテーブルの上にすっと写真を持ち出し置いた。
なんだろうとシンジが見る前に、ゲッと呻いたアスカが引っさらっていった。
「なんだよぉ、見せてよぉ」
「だだだだだ、だめよ!」
「なんでだよぉ?」
だめったらだめなのよ! 後ろ手に隠したその写真には、はっきりと口づけを交わしている自分とカヲルの姿が映っていた。それも、その様子を苦笑混じりに見ながら通りすがっている人の姿までだ。
空港のガラス越しの光の中、まるで映画のワンシーンである。少しばかり破壊力が高かった。
「なんでこんなもの見せるんですか!」
「それには十分な価値があるからだ」
「価値?」
ゲンドウは、そうだと頷いた。
カヲルへと目をやる。
「彼は養子だが、養子だからこそ使い道があるということだ」
「はぁ? えっと……それは」
「ラングレーの考えはこうだ。フェーサーにとって渚カヲルは一族の中のお荷物だろう。それを仮にも次期党首である君の連れ合いとして引き取ってやるのだからありがたく思え。……恩を売り、ついでにフェーサー家との間に擬似的とはいえ縁戚関係を結ぶことができる」
「そんな!」
「もちろん相手はフェーサー家だ。養子のことなどいつでも忘れて裏切りに走るだろうが」
「そういうことですか」
カヲルはいつもの調子に戻って立ち上がった。
お尻の埃を払い落とす。
「ラングレーは僕を使ってフェーサー家の『力』を操り腹を肥やそうと……」
「それじゃあカヲル君って、フェーサー? って家から縁を切られたらどうなるのさ?」
「そりゃ捨てられるだけだろうねぇ」
「ラングレーに?」
「そうだよ」
「でも結婚するのはアスカでしょ?」
「しないっての!」
「アスカって、おばあさんの言うことを聞いて、カヲル君を捨てちゃうんだ」
「捨てないっての!」
「なんだ、結婚するつもり」
ボカンとアスカは拳を震った。
げんこつにしゃがみ込むシンジである。押さえた手の下でコブがふくれた。
「あんたねぇ!」
その彼の父親の前だと言うことを忘れているな。
ついでに自分のことも忘れられているんじゃないかと……ちょっと危惧してしまったコウゾウであった。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。