ざわざわと浜辺が騒がしくなって、シンジ達もなにごとかと気が付いた。
「あれ!」
シンジが指さしたところに、何かが航跡を曳いていた。それは白い背びれが残している物であった。
「レイ!?」
アスカが悲鳴を上げる。五メートルはあろうかという巨体の背中にレイがかじりついていた。
懸命に振り落とされまいと頑張っている。
「なんだよあれ! どうなって……」
狼狽するシンジに変わって、カヲルが素早く駆けだした。
上着を脱ぎ去りサンダルを捨てて水面に飛び込む。
「カヲル君!」
慌てて後を追いかけようとしたシンジの肩をつかんだのはアインだった。
「待ってください」
「なに言ってんだよ!」
「慌てることはありません、あれはウィッチです」
「ウィッチって……」
シンジはなんとか、それが彼らの仲間の内の一人の名前であることを思い出した。
「でもあれって……」
疑問を口にしたのはアスカである。
「使徒じゃない……」
「そうです」
アインはシンジが早まらないことを感じて手を離した。
「アインは環境適合の力の持ち主なんです」
「環境適合能力?」
「はい。あるいは環境変革能力とでも申しましょうか……大気などを自分にあった生育組成に作り替えてしまう力を持ち合わせているのです」
「それって……」
「水も、空気も、澄んだものに。そしてあのように自身を変貌させることによって、自然ではない環境を構築することも可能なのです」
アスカは記憶の底から探り当てることに成功した。
「あの使徒って……確か凄く純度の高い水の中に棲んでた。そういうことなの?」
「はい。そのような生き物になることで、その適性にあった環境に作り替える。お嬢様の願い通り、この湖を綺麗にしようというのでしょう」
「でもそれじゃあ大半の魚は死んじゃうじゃない!」
「そこまで極端には変化させませんよ。それぐらいの分別はあるはずです」
「じゃあレイを襲ってるのはなんなのさ!」
「お嬢様とのじゃれ合いを見て、彼女が酷いことをしたとでも思いこんでいるのでしょう。カヲル様はそれを止めに駆けだされたのだと思います」
「そういうこと……ね」
「アスカ?」
「シンジを止めたのは、あんただと問答無用で殲滅するからよ。でしょ?」
「その通りです……わたしもあれはやりすぎだとは思いますが」
双方共に訳が分かっていないのでしょうと、彼はやや呆れた口調で吐き出した。
「きゃああああああ!」
『くぅうううう!』
しかし彼の推察は少しだけ間違っていた。
レイも歴戦の勇士……というところにまでは至っていなくとも、それなりに戦闘によって能力を開花させてきた一人である。
ATフィールドによる共振作用的な会話程度のことは、行えるようになっていた。
(あなた、確かウィッチって!)
(なんだ!? 頭の中……あなたか!)
(うそ!? こんな変身ができるのに、『会話』はできないの!?)
レイは順番が無茶苦茶だと感じた。能力的な開発が進んで、肉体を変貌させることまでもできるようになった……というのなら理解はできるが、能力的なものがさほど開花していない状態で、人間でない生き物になれるなど常軌を逸している、と感じるのである。
(なんでこんなことするの!)
(君がお嬢様を虐めたからだ!)
(あそんでただけでしょ! ジャレてただけじゃない!)
(そうは見えなかった!)
(そうやって邪魔をするから、お嬢様に友達ができないんじゃないの!?)
レイは言いながらも焦っていた。
こうも波飛沫を立てて泳がれたのでは目を開けることもままならない。それに速度もありすぎて、飛び離れるのも怖かった。
(どうしよう……)
(なんだ? どういう意味だそれは!)
(言葉のまんまなんだけど……)
(というよりも、この強制的な意思疎通はどうにかならないのか!?)
(慣れてるとチャンネルを外すこともできるんだけど)
(どういう意味だ?)
(電波と同じ。一度周波数が合うと、外すためには大きく信号の波長を変えないと駄目でしょう? そうでないと外れないのよね)
(じゃあそうすればいいだろう!)
(でもキミ、慣れてないでしょう? あたしが外そうとしても、くっついて来ちゃってる)
(どうにもならないというのか……)
(普通そこまで形態を変えられるなら、ATフィールドはもっと強固なはずなんだけどなぁ……他人の変調に左右されるなんておかしいよ。よくそれで形態保っていられるね?)
(放っておいてくれ!)
(後は……物理的に距離を開くしかないんだけど)
(だったら!)
「きゃあ!」
レイは空中に放りだれてしまった。
ウィッチは水面から体を出すと、勢いのままに波に乗って跳ねたのだ。
(落ちる!)
レイはぎゅっと目を閉じた。
湖面から一・二メートル。うまくいけばそのまま水の中だが、勢いが残っているから跳ねるような形になってしまうかもしれない。
それは痛くて嫌だった。
──ガツッ!
レイはぎゅっと目を閉じていた……しかしいつまで経ってもその時はこなかった。
「ほへ?」
「大丈夫かい?」
レイはそっとまぶたを開いて……驚いた。
「きゃああああ!」
「ちょ、ちょっと暴れないでくれないかい?」
それは無茶というものだった。
レイは上下逆さまになっていた。支えているのはカヲルの腕だった。ヘソの辺りに組まれている。
そして彼女の両足は、途中でくてんと曲がって、カヲルの頭の両脇にあった……つまり、彼女の股間に、カヲルの顔はあったのだ。
「えっち! ヘンタイ!」
「そ……それはないんじゃ……あ!」
「あ!」
ドパンと落ちた……レイが。
カヲルは困った風に頬を掻くと、ぽつりとごめんと謝った。
「まあ……暴れる君が悪いんだよ?」
「う〜〜〜」
水面に顔を出し、ぷくぷくと泡を吹くレイである。
彼女はバシャッと、カヲルに向かって水を掛けた。
「シンちゃんより先に!」
「そ、そういう問題なのかい?」
「こうなったらシンちゃんに口直しさせてもらわなきゃ!」
「それは意味が違うんじゃないのかな?」
「そういうわけで! 渚君は手伝うように!」
「それはどうやってなのかな?」
「婚約者としてアスカを誘い出すこと!」
「それは僕に命を賭けろと言っているのかい?」
「人に恥ずかしいカッコさせたくせにぃ!」
「それについては胸が痛いところなんだけどねぇ……」
何故この人たちはこうも平然としていられるのだろうかと、誰もが唖然として見守っていた。レイと同じように立ち泳ぎしている男性も、女性も、浜辺で何事かと子供を守っているお父さんも、お母さんもだ。
場違いな和やかな雰囲気にあっけにとられてしまっていた。
「あのお兄ちゃん、天使様?」
幼い女の子が指さした。
カヲルの背には……白い翼が生えていた。それは天使が身につけているようなものではなく、もっと生臭い翼だった。そう……たとえて言うなら、皮を剥いだ蛇やトカゲの肉のような質感と色合いをしていた。
そんなものが、肩胛骨の付近から広げられているのだ。
右足を曲げて左の膝の上に載せ、困った風にほおづえを空中でつく。羽ばたいているわけでもないのに宙に浮いているのだ。一見して、なんのための翼なのか分からなかった。
「あれってナンバーズ?」
「あんなのもいるんだな……」
「ちょっとかっこいいかも」
「でも気持ち悪くないか? あれ……」
色々な意見が交わされる。
遠目にその様を見ながら、シンジは眉間にしわを寄せた。
「どういうつもりなんだろう……カヲル君」
「え?」
「カヲル君なら、水の中からでも行けたはずだよ。あんなに人目に付く方法をとることなんてないんだ」
「考えすぎなんじゃないのぉ?」
だがそんなシンジの洞察力に、内心で賞賛の拍手を与える者が居た。アインである。
(ただの脳天気だというわけでもないわけだ)
さすがにカヲル様が友人としているだけのことはある……と、印象を改める。
その一方で、カヲル達のことを苦々しく見つめている者もいた。
アネッサであった。
──お兄様のバカ……。
自分のことを忘れて楽しんでいる。子供じみた発想だとわかっていながらも、アネッサにはその感情を抑え込む術がなかった。
浜に上がって、濡れた髪をかき上げる。胸を突き出すように体を反らせば、健康的な姿態が露わになる。
滴が球のようになって肌から弾け落ちる。さくさくと砂を踏んで、彼女はアスカの目立つ髪を捜して歩き始めた。
カップルが居た。二十代の前後だろう。黒いパンツの男性に、赤のビキニの女だった。
男の腕に組み付いている女が、兄のことを口にしているのが耳に入った。
「ちょっとかっこいいかも」
「でも気持ち悪くないか? あれ……」
「どこがぁ?」
「だって、背中からなんか生えてるんだぜ? お前、子供に尻尾とか生えてたらどうする? 角とか」
「そんなの……ほんと、夢がないんだから」
「そういう問題かぁ?」
聞くともなしに聞いてしまった。足が少しばかり遅くなってしまっていたかもしれない。どういう結論を出して話を締めくくるのか興味があったからだ。
しかし適当に話しているだけのようで、声を聞き取れなくなる数秒だけでは、結局結論らしきものなど聞けなかった。
少し暗くなって浜を進む。
「子供……血統。血筋」
そんな単語がのしかかってくる。
「わたしには……祖父が居て、祖母が居る……それぞれの血族には祖とでもいうべき存在がある」
それは英雄であったり、勇者であったり……あるいは地主であったりと様々だ。
「そのような方達の高貴なる血肉の果てにわたしがいる」
父には父の、母には母の、祖父には祖父の、祖母には祖母の、父が居て、母が居て、その数は年代をさかのぼればさかのぼるほどに増えていくのだ。
代々より優秀な血を求めて子は作り上げられてきているのだから、自分はサラブレッドと言ってもよかった。そんな自分に渚カヲルのような突然の亜種の子を孕むことは許されない。
「血は混ざる……成された子ばかりではなく、性行為そのものが血を汚れさせる行為だもの」
性行為は互いの性器を傷つける。性器はとてももろい毛細血管が多数ある。だからこそエイズのような感染現象も起こりえるのだ。
それを考えれば、親愛の証たるキスでさえも自重しなければならない。
「なんと不毛なことでしょうか……」
年若い彼女の頭は柔らかで、総祖である存在でさえも、元はただの人であったのにと、蔑むことが可能であった。
しかしそれを口にしたなら、なんたることかと、『教育』を受けなければならないことも理解していた。
立ち止まる。先にアスカと数人の男が見えた。シンジとアイン達だ。
彼女はしばしジッと眺めた。
どのような想いが渦巻いていたのか、彼女は「アネッサ!」っとアスカに呼ばれて、ようやく近づく気持ちになれたようだった。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。