「お兄様は……わたくしのことがお嫌いなのですか?」
 テーブルの上に置かれているボトルから、グラスにワインを注いで、カヲルは苦笑しながら振り返った。
「どうしていつも確認するんだい?」
「お兄様がつれないからですわ」
「そうかい?」
「ええ」
 ありきたりなチェックのポロシャツに、赤いスカートをはいて、彼女は板床の上に敷かれている絨毯で足を崩していた。
「僕は君の兄として、君の気持ちは受け入れられない……そう口にすれば満足かい?」
 アネッサは年相応に唇をとがらせた。
「意地悪ですわ」
「ごめんよ」
 少し離れて、窓際の壁に背を預ける。
「ただ理解できないのさ……僕は兄と妹が禁断の恋に落ちるというのは、やはり禁忌なのではないかと思っているからね」
「でも……」
 アネッサは言いつのった。
「わたくしとお兄様は、本当の兄妹ではありませんわ」
 それでもだよと突っぱねる。
「兄は兄で、妹は妹じゃないのかな?」
「そうだとしても、わたくしたちのような階級の中では、当たり前のことですのに」
「初めての相手が親であったり、兄弟であったり、あるいは親の友人であったり、兄弟の親友であったり……かい?」
「はい」
 カヲルは空いている方の手の指に、前髪をくるりと巻いて遊んで見せた。
「……だからなんだけどねぇ」
「はい?」
「その観念の違いが、僕にとまどいを与えているのさ。好きになったのであれば、恋人や夫以外の相手とも縁を結ぶ……そのことが許されている。僕にはそれが理解できない」
「……わたくしは他の方を見るつもりなど」
「だけど君の理屈は彼らと同じ物で成り立っている。それでは僕は安心できない」
「安心?」
 そうだよとカヲルは壁から離れた。
「ほんの少しそばを離れただけで、君がどうするのかわからない。社交場でよい方と知り合って、お遊びに興じるかもしれない。それは本気ではないから安心してくれと言われても、僕にとって「つまみ食い」は浮気と同じだ」
「ですから、わたしは……」
「僕の好みは」
 カヲルはアネッサの前に体をかがめて、その顔をのぞき込むようにした。
「僕の好みはね? ごく普通の家で、ごく普通に僕を待ち、ごく普通に出迎え、そしてごく普通に見送ってくれるような人なんだよ。僕はそれ以上はなにもいらないし、望まない」
「それが……アスカお姉様なのですか?」
 カヲルはぷっと吹き出した。
「彼女はもっとはしたないよ。元気がありすぎて捕まえておくなんてことはできないだろうね、僕では振り回されるのが限界だな」
「ですが……お兄様のご趣味は、庶民的すぎます」
「まさにそうだよ」
 体を起こし、くっとワインをあおる。
「……東欧の片田舎で、粗末な小屋でつつましく暮らすのが将来の夢なのさ。実現は難しいけどね」
 からかっているわけではないのだと、不幸なことにわかってしまった。
 だからアネッサは唇をかみしめた。カヲルの夢と同様に、自分が家よりも思い人をとることがいかに難しいのか? 考えるまでもなくわかってしまったからである。




 ──早朝。
「ふわぁあああああ…………ふ」
 大あくびをしてしまい、シンジは手元を狂わせてしまった。
 キャンプ場の隅にある炊事場で、歯磨きをしようと右手に歯ブラシ、左手に歯磨き粉を持っていたのだが、歯磨き粉は見事に下に落ちてしまった。
「あーあ……」
「おはよう」
「あ、おはよう、カヲル君」
 カヲルはくすくすと笑いながら、シンジの隣に並んでコップを置いた。
 中には歯ブラシが刺さっている。
「よく眠れなかったのかい?」
「まあね……」
「あの二人かな? 原因は」
「それはそうなんだけど」
「ん?」
「ちょっとね……」
 シンジはもう一度あくびをかみ殺した。
「……最初はね、いつも通りだったんだ。アスカとレイが張り合って」
「ふん?」
「その後だよ……蚊が入ってきて、見たこともないような虫も出て、きゃーきゃーわめいて」
「それはそれは……」
「結局寝袋を顔も見えないところまで閉めてさ……早くそうすればよかったのに」
「災難だったねぇ」
 こういう場所なのだから、虫が出るのは仕方のないことだ。
 だがだからといって、納得させるのも難しいだろう。
「じゃあ今晩もかな?」
「そうだろうね……」
「暗いねぇ……仮にも女の子と、それも二人も連れ込んでいるんだから」
「こぉら!」
 ぽこんとカヲルの後頭部を打ったのは、アスカが巻いて固めたタオルだった。
「なぁに、やらしい話してんのよ!」
「おはよう。……今の君を見ると勘ぐりたくもなるよ」
「は?」
「目の下の隈がすごいよ?」
「え!? うそ!?」
「一晩中なにをしてたんだい?」
 知ってるくせにと思いつつ、シンジは歯磨きを始めた。
「まったく……君たちはところかまわずというやつかい? こういうところではのぞきが出るんだから、気を付けるのが無難だよ?」
 そう言ってカヲルは、林の向こう、藪のさらに奥にある木の上を見た。
 あまりに遠くて、適当な場所に視線を向けただけにしか見えない。だが木の上に潜んでいた男は、慌ててしまってずり落ちそうになってしまった。
(まさか)
 男は顔に驚愕を貼り付けた。
 少年の目線が自分を追って外れないからだ。
 カヲルはふっと笑うと、アスカに視線を戻した。
「まあ、冗談はともかくとして」
「あんたねぇ!」
「顔が酷いのは本当だよ。冗談というのは色気の部分だよ」
 まったくとからかう。
「せっかく遊びに来ているというのに、羽目を外すどころかいつも通りではつまらないだろうに」
「じゃああんたはどうだったのよ!」
「とても心地よく眠らせてもらったよ」
「あの子と一緒に?」
「ベッドが一つしかなかったからね」
「やーらしぃんだぁ?」
「あいにくと妹に手を出すほど飢えてはいないよ」
「はいはい……」
「ただせっかくキャンプに来たというのに、居心地が好すぎてね。風情や情緒というものを、君たちのように感じたかったな」
「やっぱり嫌みじゃない……」
 アスカは首筋をぽりぽりと掻いた。一見して怪しい痕のように見える腫れがあったのだが、本当にただの虫さされである。
「そういや綾波さんはどうしたんだい?」
「まだ寝てる」
 ──ぐぅ……。
 完全にチャックの閉まった青い寝袋からは、くぐもった寝息の音が漏れていた。


「おはよう……」
 うわぁっと思ったのはアスカだった。
「あんたねぇ……ちょっとは恥ずかしいとかってないの?」
「はぁ?」
 キャミソール風の服は赤と白のストライプで、へそが出ている。
 下は青に黒縁のビキニパンツだった。さらにサンダル。
 キャミソールの下のブラも水着らしい。その格好で直接浜に出てきた……のは好いのだが、問題は髪だった。
 ぼさぼさになっている。
 目も隈が酷く、頬も多少むくんでいた。
「あ……これ?」
 レイは髪に手を入れてかき回した。
「寝袋閉めたときに引っかかっちゃってたみたいでさぁ……もうボロボロ」
「だからってねぇ……きゃ!」
 文句を付けようとしたアスカにキャミソールを投げつけて、レイは水辺に向かって駆けだした。
 振り返ってべっと舌を出す。
「泳げばそのうち直るもんねーだ!」
 こめかみに血管を浮かべながら、汚い物にでも触れるようにつまんで服をぽい捨てる。
「あのバカ……」
 自分の歳がわかっているのだろうかと怪しむ。
「アスカぁ」
 レイがやってきたのとは反対側から、シンジとカヲルが歩いてきた。
 二人とも膝丈のラフなパンツにパーカーを羽織っている。クーラーボックスを肩にかけているのはシンジだった。
「ジュース買ってきたよ」
「…………」
「なんだよ?」
「ちょっとね」
 ふぅっとアスカはため息をこぼした。
「あんたらって……って思ってさ」
「はぁ? なんだよ」
「なんなんだい?」
 アスカはちらりとカヲルを見て、またため息を吐いた。
「だからさ……そうやってシンジが荷物持ってると、どう見たってアイドルとそのマネージャーか腰巾着だなって思ってね」
「悪かったね」
「あんたもうちょっと体鍛えたら?」
「はぁ? なんでそうなるんだよ……」
「顔がイケてないのに体も貧弱じゃ言い訳のしようがないじゃない」
「誰にいいわけするんだよ」
「あたしがよ!」
「だから誰に?」
「その……いろいろとよ!」
「はぁ?」
 シンジはカヲルに聞くことにした。
「わかる?」
「……女性というのは男性にとって、永遠に向こう岸の存在なんだと言うことだよ」
「それもよくわかんないよ……」
「二者の間には広くて深い溝があるってことさ」
「ふうん……」
 わかったような……わからないような?
 何度も首をかしげるシンジである。
(ま、それがわかるようならアタシもねぇ……)
 苦労はないんだけどと一人ごちる。
(なんだかんだで忘れてたな……あたしのこの髪のこと)
 つい肩から前に流れてしまっている髪を指に巻き付けてしまった。
 さんざんいじめられたのだ。シンジにも無神経に傷つけられたことがある。
 それを跳ね返すために強がって……嫌な子になって行って。
 今では綺麗だと言われることもある。けれど一番に来るのはやはり日本人ではないということなのだ。
 間違いなく日本人なのだが、日本人ではないように見られてしまう。今も視線を感じている。それは男のものであったり、女性のものであったり、子供のものであったりする。特に子供がそうだ、『異人さん』に目を丸くして驚き、ぽかんとしている。
 女の子はうわぁっと目をきらきらとさせているし、それはそれでにっこりと手を振り替えしてやりたくもなるのだが、何か違って思えてくる。
 ただ……共通するのはシンジのことだろう。こんな自分のお相手がシンジだというのは、なにかアンバランスに感じられる。
 ごく普通の男の子だ。にじみ出すものなんてない。内面は外見ではわからない。
 だからこそ周囲はうるさい。
 似合わないだのなんだのと、それは勝手にするから好いのだが、けれども他人の声が煩わしいことには違いないのだ。
(なぁんかパシッと行く方法ってないのかなぁ……)
 そんなことを考えているアスカであった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。