「アニーシャ!」
 アネッサは呼び声に振り向き、カヲルを見つけて硬直した。
「来ないでください!」
「どうしたんだいアニーシャ?」
「その名で呼ぶこともおやめください……」
 何かを恐れるように後ずさっていく。
「わたしは……真実を知りたいのです」
 アネッサの足が止まる。
 背後は切り立つ崖となっていた。下には湖がある。
 そう高くはなく、せいぜいが五メートルと言ったところだろう。
 カヲルは目で、ヤンに背後へと回り込むよう指示した。
「アニーシャ……なにを恐れているんだい?」
「……あなたを、お兄様を連れ去ろうとする者たちをです」
「それは違うよ、アニーシャ。誰も僕を連れ去ることなどできはしないさ。ただ僕が居場所を見つけた、それだけなんだよ」
「わたくしには、同じことです」
「アニーシャ……」
「なぜなのです? なぜわたくしではお兄様のホームとなることができないのです? わたくしのなにが足りないというのです?」
「人はいつか旅立つものさ。そして自らの足で歩くものだよ……たとえその先にあるのが暗いだけの未来だとしても」
「魅力的だからですか?」
「そうだね……」
「そこにあるのが、哀れな末路であったとしても?」
「アニーシャ……」
 だからとカヲルはかぶりを振った。
「僕と君では、ともにいることができない」
「なぜです!」
「価値観……いや、認識があまりにも食い違っているからだよ」
「認識?」
「そうだ。僕にとって、生と死は等価値なんだよ。フェーサーに繋がれている限りはね?」
「そんな……」
「わかるだろう? 限られた言動と、限られた行動範囲の中でのみ、許された行為をくり返すことができるんだ。それは苦痛の日々に過ぎない。死への恐怖と、生へのみすぼらしい執着心が与えてくれる嫌悪感にさいなまれる日々と、どちらにより喜びがあるのか? 答えはどちらにもない、だよ」
「フェーサーを離れるというのは、それが理由なのですか?」
「翼を持たぬ鳥のように生きることは、もはや僕にはできないんだよ。それをわかっておくれ……アニーシャ」
「お兄様……」
「君が思っているほど、この世界は愛にも希望にも満たされてはいないんだよ。そして僕は自らの行動によってのみそれを手にできる人間なんだ。望まない限り、行動しない限り、僕の心は空虚なままだ」
「…………」
「愛でも、恋でも、義務感ですらない。自由であること。この開放感こそが唯一僕の心を軽くしてくれるものなんだ。僕は……シンジ君とは違うのさ」
 ぴくりと反応したのはなにもアネッサだけではない。
 アレンもである。
「わたくしには……」
 アネッサはかぶりを振った。
「わたくしには、それが理解できないのです。なぜ彼の名が出てくるのです? なぜ!」
「それは僕にとって、唯一絶対である存在だからさ」
「……それは、それは神と同義であると言うことですか?」
「違うよ?」
 カヲルは微笑む。
「ただ一人だけ……僕と同じ苦悩を抱えている存在だからさ」


「シンジ!」
「回収班を早くよこしてください!」
 アスカとレイが必死になる。
 倒れ込むエヴァンゲリオン01。
 その激震はシンジを放り投げるには十分だった。
「レイ!」
「間に合う!」
 アスカはとっさにレイを頼り、レイは応じて大気に流れを作り、風を起こして彼を浮かせた。
 徐々に弱めて地に下ろしていく。
「リツコさん!」
『もうかまわないわ』
「アスカ、あとよろしく!」
「ああっ、ずっこい!」
 レイは一人エヴァから落ちた。
 背から出て、そのまま下に飛び降りる。服が風をはらんで広がった。
 ──トン。
 シンジを受け止めるのに使ったのと同じ力で減速、着地。
 そのまま彼の元へと駆け寄っていく。
『どうなの、レイ!』
 アスカのせっぱ詰まった声。
 レイは一瞬躊躇する様子を見せたが、思い切って『シンジらしい物』に取り付いた。
 力任せに彼を覆っている膜を破り捨てていく。
 ぬちゃぬちゃと気色の悪い粘液が手をぬめらせる。肌……とくに頬についたものが気になったが、かまってもいられない。
『レイ!?』
 レイはとにかくシンジの頭を出すと、彼の口を口でふさいだ。
 そして何かを吸い上げ、捨てる。
 幾度かそれをくり返し、今度は気道を確保して、胸を必死に押し始めた。
 この段階になればアスカもなにをしているのかわかったから、もうよけいな口は挟まなかった。


 しかし、問題は終息しない。
「戦自ですって!?」
「はい。芦ノ湖周辺に部隊を展開しつつあります」
「なんで!?」
「エヴァへの牽制……ということですが」
「使徒化を懸念してるんでしょうね」
「いくら情報がだだ漏れだからって、手際がよすぎない?」


「予定通りか……」
「はい。ネルフ総司令の依頼通りではあります……が」
「ふむ……」
 あの船の上にいた男である。
 彼は廃屋となっている喫茶店にある仮説指揮所に現れていた。
「後は不穏分子を片づけるだけだろう?」
「それが一番の難題のようで」
 見てくださいと、彼は各所で起こっている小競り合いの様子を見せた。
「酷いな……」
「はい。予想を上回る質の能力者が投入されています。こちらの手のものだけでは捕らえきれないかもしれません」
「しかしここで不穏分子の一掃を完了させておきませんと、委員会の方も」
 男は総司令がいるはずの、第三新東京市市街地方面へと目を細めた。
「……完全独立自治権の取得か……できると思っているのか?」


「アネッサ!」
 アニーシャからアネッサへと、カヲルの言葉が変化する。
 彼女の名前はたくさんあった。
 愛称と呼ばれるものだが、それをカヲルが理解しきることはなかった。特別な法則や規則性といったものがあるらしいのだが、異邦人であるカヲルには、それらに納得することができなかったのだ。
 そのことが、アネッサとの親密さを増すことに繋がっていた。
(お兄様が、アニーシャと呼んでくださった)
 遠い過去を思い出す。


「アネッサ……それを単語文字で考えたとき、多数の発音の仕方がある?」
「それにご先祖様などの名の内で、近しいものを重ねたりと……」
「一族の系図は暗記したつもりだよ? でもその内のどの人物がどれほどの偉業を成し遂げたのかと口にされると」
「無理もありませんわ」
 ころころと笑う彼女に、彼は苦笑して肩をすくめたものだった。
「結局、好きな呼び方をしろってことなのかい? アニー」
「そうですわね」
「そして近しい者だけが、特別な名で口にし合う」
「はい」
「アニーは僕になんと呼んで欲しいんだい?」
「それはお兄様がお考えになってくださらないと」
「そういうものか……」
「はい。だって、それをわたくしが許すことで、初めて意味というものが生まれるのですから」
 頬を赤く染めて口にした少女の幼心……。
 ──僕は、それを踏みにじるのか。
 カヲルは懸命に走り出す。
 不意に襲った現象……アネッサの体を青白い炎が包み上がった。
 それはまるで、彼女を連れ去ろうとするかのような不吉さであった。




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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。