ミサトは頭痛を堪えていた。
 理由は席に着いている少年たちの表情にある。
 ──明るすぎるのだ。
 負けたというのに、さすがだなんだとレイのことを褒めている。
 地下の開発事業は、ナンバーズの大幅な動員によって加速している。
 その分、使徒との遭遇率もまた上がっていた。サキエル程度ならばまだ良いのだが、再びあのレリエルや、共食い使徒が現れないとも限らないのだ。
 勝つための算段がついているタイプならともかく、偶発的に回避できた戦闘も多いのである。
(こいつらにそれを教えなきゃならないんだけどねぇ……)
 そのためには、痛い目にあってもらうしかない。だがわざわざ死に瀕してもらうというのもどうだろうか?
(頭痛いわ)
 彼女は悩む。


「で」
 リックは訊ねた。
「惣流はどこに?」
「東京駅だよ、新人が来るそうでね」
「出迎えか」
「まあね」
「しかしそうなると今日は動けないな」
「ん?」
「彼女が居ないと、仕事にならないだろう?」
「まさか。実際の処理はMAGIがやっているんだよ? アスカが居なくてもどうにでもなるさ」
 そういう問題じゃないとかぶりを振る。
「忘れたのか? お前は綾波の婚約者で、惣流って愛人を持ってる……と噂されてるんだぞ」
 露骨に嫌な顔をするカヲルにさらに告げる。
「そんなお前が顔を出すとなれば、どっちかが着いてくるものと思ってる連中が多いんだ。そういう連中にいちいち不満を口にされて、耐えられるのか?」
 カヲルは慎重に注意した。
「そういう話は彼女たちがいないところで頼むよ? このごろピリピリしているんだ」
「またなにかあったのか? ……決まってるか」
「シンジ君だよ」
 肩をすくめる。
「レイは訓練生の相手だけではなくて、訓練校での臨時講師までやらされているじゃないか。アスカはアスカで、僕の秘書役や、ネルフとの繋ぎの役目も負っている。暇がないんだよ」
「その分亭主は野放しというわけか」
「ああ。シンジ君は節操がないからねぇ」
 ──貞操観念は固いようだがな。
 リックはその言葉を吐かなかった。シンジを知っている者には当たり前の認識であり、知らない者にとっては冗談としか受け取られない事項であるからだ。
「で、碇は?」
「下の森だよ」
「今日もか」
「毎日だよ。ジオフロントには人の息とでもいうべきものらしいものが篭もっている。東洋では気と呼ぶらしいね……。それを集めて森に吹き込み、活性化させている。そちらの領域は僕にもよくわからないことだからね、何とも言えないけど」
「人の目には毎日ごろごろと転がっているだけに見えるけどな」
「でも生態系のバランス調整は行わなければならないんだよ」
「一年前の事件の影響か」
「傷跡は大きなものさ。レイノルズも大変なことをしてくれたよ……」
「そうだな」
「新たな植林。放された虫たち。それらがすでに存在していた生態系に抵触しないようにするためには、シンジ君にがんばってもらうしかないのさ」


 ──ジオフロント、森林部。
 立ち入り禁止とされている一角に、まだ背丈が五十センチ程度の苗木の並んでいる場所があった。
 その中心にある切り株の根本に、ごろんと横になっている青年が居た。
 ──シンジである。
 すぅっとおとなしい呼吸をしている。彼は眠っていた。
 今はもう百七十四センチと背も高い。完全にアスカやレイを追い越してしまっている。
 だが、肉体的な特徴は何一つなかった。特に胸板が厚いわけでもなければ、腕や足が太いわけでもない。
 すべてが平均的だった。
 ──そんな彼の元に近づく人影があった。
 緑の芝を踏みつけて歩き、まっすぐシンジへと歩いていく。
 乱雑な歩き方ではなく、少しだけ跳ねるような歩幅を取っていた。
 できるだけ軽くして、芝を痛めないように気を遣っているのだ。
 シンジはその少女の気配を感じたのか、薄目を開いた。
 視界にフレアスカートが映り込む。
 背伸びをして、目ににじんだ涙をぬぐう。相手を確認して、彼は微笑んだ。
「アネッサ」


 立ち入り禁止の看板に、少年が背を預けて立っていた。
 アインである。
「しかし、君も大変だなぁ」
 笑っているのは加持だった。
 赤いバギーの運転席に着いて、ハンドルに上半身をもたげ、たばこを吹かしていた。
「毎日こんな送り迎えをやってるのか?」
「その通りです」
「どれくらいで戻ってくるんだ?」
「数分から一時間、二時間と、決まっていません」
「なに話してるんだろうなぁ……」
「お嬢様のお気持ちはわかるものです」
「そうか?」
「はい」
 堅苦しい子だなぁと加持は会話を諦めた。


「気持ちの良い日ですわね。今日は」
 アネッサはシンジの右隣、切り株の上に腰掛けた。
「外は天気が良いからね……グラスファイバーの曇りも少ないし」
「今日はサンドイッチを作ってみましたの」
「へぇ……いただいていいの?」
「もちろんですわ」
 彼女はバスケットを膝の上に置くと、蓋にしていたハンカチーフを取り払った。
 起きあがり、シンジは目を丸くする。
「凄いじゃないか」
「そうですか?」
 はにかみ、赤くなる。
 どこまでもただの少女だ。だからこそシンジは苦笑した。
「カヲル君にも、そんな風に笑ってあげればいいのに」
 すんと拗ねる。
「あの方は、もう遠い方ですから」
「遠い方……遠い人、か」
 シンジはレタスのはみ出しているものを選び取った。
 口に運ぶ動きを目で追うアネッサ。
「……いかがですか?」
「うん。おいしいよ?」
「じゃあ、こちらは?」
「そんなに急いで食べられないよ」
 気恥ずかしげに、すみませんと謝る彼女に、良い子なんだよなぁとシンジは思う。
(フビン……っていうんだっけかな、こういうのって)
 だがこのような素直な姿を見せられる場所は、ネルフにはない。
『移民』によって他国の士族も入り込んできている。その中には当然のごとくアネッサを知る一族もある。
 この地に移住したからと言っても、外との縁が切れるわけではないのだから、当たり前のように比較の目にさらされることにはなる。
 アネッサは以前、そこのところをシンジにこぼしてしまっていた。


「アネッサ様は?」
「今日もシンジ様のところだろう」
 アレンはヤンの返答に、やれやれだなと肩をすくめた。
「このようなことを口にするのはなんだけど、いいのかな?」
 ヤンは読んでいた本から顔を上げた。
 いつかの書庫である。
「なにか不都合が?」
「あの方はシンジ様に心を許しすぎてはいないかと感じるだけだよ」
「それは……まあ、そうだろうな」
 ぱたんと本を閉じる。
「しかしそれも仕方あるまい……。アネッサ様はなぜにカヲル様がシンジ様を友とされたのか、お気づきになられてしまった」
「それは……そうなんだが」
 むぅっと唸る。
 結局のところ、今の状態が答えを物語っていた。気取らず、ありのままの自分をさらけ出すためには、自分と同等か、それよりも上位にあり、そしてそのわがままを許容してくれる相手が必要なのだ。
「もちろんシンジ様にとってそれは特に考えるほどのことではなかろう……。市民に置いては当たり前の感覚だからな」
「他人のわがままに苦笑はしてもつき合う……か。それが許されなかった世界でお育ちになられたから」
「もちろん、他の誰かであってもよかったのかもしれない。だがカヲル様はゼーレの意向によってシンジ様という方に巡り会われることとなった。そしてアネッサ様は、カヲル様を通じてシンジ様をお知りになられた」
「人の縁、か」
「開拓などと言う真似をせずとも、そこに確実に安全であり、絶対でもある人がおられるのだから、仕方あるまい」
 この話はこれで終わりだとばかりに本を開こうとする。
 だがアレンはさらに言いつのった。
「だが皆がそう思うだろうか?」
「どういう意味だ?」
「傍目には、アネッサ様はシンジ様に傾倒し、通われている。そのように見えないか、心配なんだよ」


 アネッサは天井を見上げて目を細くしていた。
 気持ちが良いと、心を解放しているのだ。口元には笑みが浮かんでいる。
「あててあげようか?」
「はい?」
「これで誰か自分だけの特別な人が側にいてくれたら……なんて思ってるんでしょ?」
 アネッサは眉間に皺を寄せた。
「意地悪ですのね」
「ごめん……」
「その上、悪趣味ですわ。まだお兄様のことを……」
 それは考えすぎだよとやり返す。
「ただ誰かいい人はいないのかなって思ったんだよ」
「わたくしの立場で、それは望むことはできませんわ」
「でもここはネルフなんだし、家ってのはよくわかんないけど……それでも力を持ってる人が新しい一族を起こすってのもやってるみたいだしね。あんまり立場なんてこだわらなくても」
「それをするためには……わたしは縛られすぎました」
「そっか……」
「考えを、価値観を変えられるほど、わたしは自由ではありませんの」
「寂しいね……」
「え……」
「悲しいよね、そういうのってさ」
「シンジ様……」
「カヲル君も似たようなことを言ってたよ……」
「お兄様が……」
「うん。自分には与えられた役割があるから、それは果たさないとねって」
「シンジ様は……お兄様の親友であらせられます」
「そんな大したものじゃないよ……」
「ですが」
「僕は元々、カヲル君にレイのことを頼むつもりだったんだ」
「レイお姉様を?」
「うん」
 だが、その双方の出自については語らない。
 レイもカヲルも生まれに同じものを持っている。だがシンジはアネッサの知らないことだと感じ取っていた。
 それは多くの者にも言えることだった。裁判官と執行官の双方を兼ねていたようなカヲルのことを恐れている人間はいても、彼の生まれの本当を知っている人間には会ったことがない。
 みな、カヲルは孤児で、能力に目覚め、引き取られたのだと信じている。
「ま、その後で、カヲル君はアスカと、ね」
 アネッサは目を丸くして驚いた。
「お兄様は、やはりアスカお姉様を?」
「好きになっていたんだと思うよ? でもカヲル君はちょっとね……」
「はい?」
「自制心が強すぎるのかな? あの頃のアスカと僕はうまくいってなかったんだよ。そんなアスカに言い寄ることは、つけ込むようで嫌だったんだろうね。でもそのせいでそれっきりになって」
「そのようなことが……」
「まあ、今でも二人は誰かとつき合ってるわけじゃないからね……どうなるかは」
「は?」
「なに?」
「お二人は、シンジ様のことを……」
「ああ……」
 聞いたことがあるだろうと寂しげに笑う。
「僕にはつき合っていた人がいたんだよ……あの人に帰ってきてもらわないことには、なにもはっきりとさせることはできないんだ。だから、待たせすぎて捨てられることもあるだろうしさ」
 ──寂しいお方。
 そんなアネッサの声は届かなかった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。