乱雑さはあっても猥雑さはない。
それはひとえに、街を設計している少年少女たちの健全さを表していた。
──気恥ずかしいのだ。
いやらしい界隈を作ることも確かにできるが、大人たちのような金勘定に囚われていないが故に、そこまで欲望をひけらかすことのできる『勇者』的存在は現れなかった。
シンジとアネッサの二人は、オープンカフェに立ち寄っていた。
地上であれば、まず間違いなくそのようないかがわしい店が建ち並ぶ空気のある場所である。しかしアネッサは、口にした珈琲のうまさに、思わず唸らされてしまったのであった。
「美味しい……このようなお店ですのに」
決して店そのものが悪いわけではない。
オープンカフェと一口に言っても、見える景色は人工物ばかりである。
正面の大通りは人や物がオートライン──動く歩道によって運ばれているし、その向こう側にあるビルは酷く味気ない無機質なものだ。
楽しむべき風景や光景がここにはなかった。
「もったいないですわね」
「そっかな?」
「はい……オープンカフェの醍醐味は、人間観察にありますわ」
彼女はそんな具合に言い切った。
「様々な人が居て、あるいは人が歩いていて、ちょっとしたハプニングがあって」
「たとえば?」
「赤ん坊を、お母様があやしているような……そんな光景を目にして、思わずなごんでしまうような」
なるほどとシンジは理解を示した。
「癒されるとか、そんな感じなんだ?」
「まあ、そうですわね」
「でもここは店長が店長だからねぇ……」
シンジは奥に向かって手を振って見せた。
奥で女性が振り返してくる。しかし顔は見えなかった。
アネッサは気安さにちょっとだけ嫉妬し、問いかけた。
「お知り合いですの?」
ちょっとねとシンジ。
「ほら……森の方でさ、木を育ててるでしょ? あれって大きくなったらこの辺りに植えかえることになってるんだよ」
「そうでしたの」
「うん。ここも整備が行き届けば、街路樹なんかが必要になるしね? 空調機だけでは限界があるとかなんとか……電力のこともあるし、せっかく森があるんだからって」
自慢じゃないけどと、中身の残るカップを持ち上げ、シンジは笑った。
「僕の手がかかってる木って、普通よりも生命力が強いんだってさ。ちょっとくらいじゃ枯れないし」
「それにお育てになるのが上手ですものね……普通ではありませんわ、あの育ち様は」
あり得ない速度……通常の倍以上の速度でもって育っているのだ。
「まあ僕的には寝てるだけでいいんだから、楽なんだけどね」
口にし、うん、美味しいという。
「ここの店長はね? そのあたりのことで、どこにどう、どんな木を植えていくかって整備計画のデザイナーもやってるんだよ」
「それでですの……」
「こういう木を育てて欲しい、でも、こういう注意をして欲しいってさ」
「……いずれ珈琲豆も栽培なされるのでしょうか?」
シンジはかもねと笑って見せた。
「でもさ」
「はい?」
声を潜める。聞かれてはまずい話題だからだ。
「……アネッサならさ? もっと美味しい珈琲って、飲んだことがあるんじゃないの」
アネッサは店員のことを気遣ったのか? いけませんわと目で叱責した。
「わたしはあまり、珈琲には詳しくありませんから」
「え? そうなの?」
「はい。高貴な身であるからと言って、嗜みとしてあらゆることに造詣を深くしているなどということはありませんのよ?」
「そっか……」
「たとえばこれは……カフェラテというものなのでしょう?」
アネッサはシンジを真似て、カップを持ち上げて見せた。
「わたしは珈琲という飲み物の中に、このような名前のものがあるとは知りませんでした」
え? っと驚く。
「カフェラテって……缶コーヒーの名前じゃなかったの?」
あきれたと目を丸くしてから、アネッサは深くため息をこぼした。
「メニューにありましたのよ? カフェラテと……」
シンジ様はと言う。
「いつもはどのようにして、ご注文なさっておいでなのですか?」
それはとシンジは、半ば怯えたように口にした。
「適当に持ってきてくれるからさ……」
仲がおよろしいのねとアネッサは微笑する。
「それではきっと、オーナーの方が気を利かせてくださっているのですね」
そうなのかなぁとシンジは首をひねった。
「で、さ、カフェラテがどうしたの?」
強引に話を戻す。そんなシンジの唐突さに、アネッサは逃げたがっているのだなと吹き出した。
「シンジ様と同じですわ……わたくしとて、珈琲とお願いすれば厨房を預かる者や、召使いの者が用意してくださるのですから、珈琲一つにこんなにもたくさんの種類があったのだとは存じておりませんでしたの」
それにと彼女は付け加えた。
「わたくし、珈琲よりもココアの方が好みに合っておりますから」
「そっか……」
あっとアネッサ。
「今、わたくしのこと、馬鹿になさっておいででしょう?」
「え? そんなことは……」
「嘘です。シンジ様は子供っぽいと馬鹿になさいました」
ぷいっとそっぽを向く。
「そんなシンジ様は、嫌いです」
シンジはごめんなさいと頭を下げた。
「ごめん……でも子供っぽいって思ったわけじゃないんだよ」
「では、なんですか?」
「インスタントのココアを思い浮かべただけだよ」
「インスタント?」
そうだよと告げる。
「アネッサが言ってるのは、きっと本物のココアなんだろうね……。でも僕は本物のココアっていうものを見たこともないから、どういうものか想像できなかったんだよ」
だからと言う。
「それが子供の飲み物なのかどうか? 僕はそれさえわからない」
そうですの……と、非常に残念そうなアネッサに、シンジは冗談っぽく問いかけた。
「……また人生の何分の一かは損をしてるって言いたいの?」
それはそうですがとアネッサ。
「なにさ?」
はぁっと嘆息する。
「殿方をお誘いするのって、気疲れをするものでしたのね」
「……それこそ子供の発言だよ」
良いかいと言う。
「そうやって、どうしようかなって悩んじゃうのを楽しむのが恋愛なんだよ。この人は部屋に入れて上げても良い。そこでどんなおしゃべりをすることになるんだろう? もしかするとちょっとだけ関係が進展するかもしれないな……なんてさ」
アネッサはわずかに首を傾げた。
「なにかおありになりましたの?」
「なにがさ?」
「実にお詳しいんですのね?」
「そりゃあね」
「お聞きしても?」
大したことじゃないよとシンジは言う。
「ただね……昔一人暮らししてた頃に、アスカやレイがよく遊びに来てたんだよ。でもその頃の僕たちってまだ子供だったから、親しい友達なら勝手に上がり込むくらいは普通なんだって思ってた」
今はとアネッサは訊ねた。
「遠慮しておいでですの?」
「そりゃあ……お互いに、なにをやってるかわからないからね」
「はい?」
小首を傾げるアネッサに、説明しづらいなと言葉を探す。
「つまりさ……。僕は男で、だから女の子に見られたりしちゃまずい本だって読んだりするし、アネッサだって、人に見られたら恥ずかしい……はしたない格好をしてる時って、あるだろう?」
自分の部屋なんだからと口にされ、アネッサはあれこれと洋服に悩み、下着姿で衣服を広げているところを思い浮かべた。
「それは確かに……ですわね」
わかってもらえて良かったよと、ほっと胸をなで下ろす。
「子供の時って、そういうの、気にならないけど」
「はい」
「ま、他にもあるんだけどね……」
「なんですの?」
シンジはカップを受け皿に戻した。
「アスカにはね……もうしつこくつきまとったりはしないって」
宣言されちゃてるのさと、シンジはアネッサを驚かせた。
●
それは正月のことであったとシンジは話した。
「なんだか変な感じよねぇ」
ミサトである。
「アスカが晴れ着なんて着ちゃうとさ」
缶ビールを傾けるミサトの前では、アスカが着物との格闘を終えようとしていた。
それは赤の着物であった。帯は黄色で、髪はアップにまとめている。
「可愛いとか、他になんか言い方ってない?」
アスカは変じゃないかなと袖を持って広げ、自分の背中を見ようとした。
「……うなじがやらしい」
「あんたねぇ」
ギロリと睨む。
「でも意外なのはレイね……なんで着付けなんてできんのよ?」
ん? っとレイはおせち料理から顔を上げた。
ちなみに大晦日の内に、スーパーで買いだめして来たものである。
「昔リツコさんに習ったの」
「リツコに?」
「うん」
へぇっとミサト。
「あいつそんなこともできんのねぇ……」
アスカはあんたとあきれかえった目を向けた。
「あんたたちって、確か大学んときからの付き合いなんでしょう? 知らなかったの?」
ミサトはぱたぱたと手を振りつつ言い返した。
「あいつが晴れ着なんて着るわけないじゃない」
そういうことかと納得する。
「つまり……訊ねるきっかけなんてなかったと」
「そういうこと」
くいっとビール缶を大きくあおった。
「それで? レイは着ないの?」
ぱぁすとレイ。
「そんなの着ちゃったらおせち食べられないもん」
アスカは両腰に手を当てて嘆息した。
「そういうもんじゃないでしょう? そういうもんじゃ……」
「でも正座しなくちゃいけないし、足しびれるしぃ」
持ち上げて振ってみせる。長いスカートなのだがそれでも十分にはしたない。
「あげくに帯でお腹締めなきゃなんないし……とにかくめんどくさいから、嫌」
ふんっとアスカは鼻であざ笑ってやった。
「……シンジ、こういうの、好きかもよ?」
ぐっとなるレイだ。
「……だ、だまされないもん!」
そっぽを向く。
ぐらっとは来たらしい。
「道連れにはならないもん!」
「はいはい」
アスカはよいしょっとと、バランス悪くレイの隣に落ち着いた。
「どうも座りにくいのよね……」
ミサトが冷静に観察結果を述べる。
「腰が高いからなんじゃない? 足が長いから、正座ってのがそもそもね」
そうかもねと同意するアスカに、レイのじとっとした視線が向けられた。
「……なによ?」
「ふんだ」
「……なんなの?」
ミサトはぷっと吹き出した。
「妬いてんのよ。それでなくても着物って胸が強調されるのに、アスカ、大きいから」
ああ……とアスカは胸元を見た。
「でも収まり悪いのよね、やっぱり着物って日本人向けなのって感じ」
「そうかもね」
「ミサトもきついんじゃないの?」
「……あたしの場合は、ほら、訓練のせいで腰っていうかお腹がしまっちゃってるからねぇ」
日本人的寸胴短足に似合うものだからと口にして、ミサトはますますレイをいじけさせてしまったのであった。──しかし比較対照が悪いだけで、彼女も決してみすぼらしいというわけではないのだが。
「取ってきたよ……って、どうしたの?」
年賀状を下のポストより持ち戻ってきたシンジに対し、二人は揃って「なんでもありませぇん」といじけたレイを笑ったのであった。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。