「ふぅ……」
 アスカは額に浮いた汗を袖でぬぐった。
 実験が終わって、一人もてあました時間を潰すために、彼女は山を登っていた。地上にある山である。
 かつて通った中学校の傍にある小山は、ものの十分で中腹に至れるほどの低い山であるのだが、反対側は『日本国』の領土であるために、気を付けなければならない山となっている。
 軽くトレッキング気分を味わいたい人間などが通る道なのだろう、林の中を、幅の狭い小道がくねるように通っていた。
 坂は枕木によって階段が造られているし、丸太による東屋まである。
 アスカはジーンズに薄手の長袖のシャツという、非常にラフな格好をしていた。ネルフには自分の服……スカートと制服しかなかったために、シンジのロッカーから拝借して来たものであった。
 袖はだぶついているし、ズボンの裾は二度折り込まなければならなかった。
(まったく……あの馬鹿)
 臭い……それは汗の匂いが染みついている汚れ物であった。仕方ないので着てはいるが、今日はしっかりと体を洗おうと誓っていた。
 思い人の汚れ物を身につけて喜ぶような、そんな変態趣味は彼女にはない。
 ついでにと彼の汚れ物を──結構な量があったのだが──持ち帰ることにしたのも、彼女の几帳面な性格が反映している行動であった。
 放置しても良かったのだが、気になって眠れなくなるなと諦めたのだ。
 そんなわけで、背負っているデイバッグの中身は、シンジの下着が詰まっていた。
「はぁ……」
 彼女は坂の途中で体を折り曲げ、膝に手を突いて休憩を入れた。
「あいつ……」
 シンジに思う。
「案外だらしないんだから」
 よしっと気合いを入れ直す。
 一人暮らしの時もそうだったなと思い返す。シンジはひとまとめに片づける主義なのだとわかっていた。掃除も、洗濯も、食器でさえもだ、見るに耐えなくなって初めて片づけを始める。そしてまた量が溜まるまで放置するのだ。
「ふぅ」
 体を起こし、デイバックの肩ひもに手をかけて歩き出す。
「あれでよく一人暮らしなんて!」
 できていたなと、思わず毒づいてしまったアスカであった。

 ──そんなアスカであったのだが。

 彼女は今年の初めに、実家に里帰りを行っていた。晴れ着でである。
 彼女を出迎えたのは義理の母であったが、幼児とともに買い物に出て今は居ない。
 アスカは父と、リビングのソファーにて対面することになってしまっていた。
「おかえり、アスカ」
 アスカはなんと言って良いのか困り、とりあえずはただいまと挨拶をした。
「ご無沙汰してしまって……ごめんなさい」
 そんな具合に頭を下げる愛娘に、アレクはおいおいと手で制した。
「他人行儀なことはするなよ……」
「そうなんだけど……」
 でもとアスカは、リビングを一通り見渡した。
 やはり幼子が居るからだろう、雰囲気が違ってしまっていた。昔あったような飾り物は、危ないからという理由だけで姿を消してしまっているし、写真立てのようなものまですっかり片づけられてしまっていた。
 それだけでなく、隅に子供をあやすためのおもちゃのようものまでもまとめられているのを見ると、やはり疎外感を感じずにはいられない。
 アスカはその点を父に告げた。
「やっぱりここって……あたしの知ってる家じゃないから」
「アスカ……」
「ごめん、パパ……別にパパたちが悪いってわけじゃないの」
 かぶりを振り、それから笑顔を上げる。
「向こうが楽しすぎるだけよ」
「そうか」
 アレクはそれなら良いんだと承知した。
 実際、娘に帰ってくる意思がない以上は、諦めるしかないことだからだ。
「……それで? シンジ君とはどうなってるんだ?」
 どうってと戸惑うアスカに、もう一度訊ねる。
「お前はシンジ君を捕まえるために、あの街に行ったんじゃなかったのか?」
 そのつもりだったんだけど……と、アスカは迷いがちに問い返した。
「ねぇ……パパ?」
 なんだとアレク。
「パパとママ……死んだママって、どっちから付き合おうって言い出したの?」
 唐突だなとアレクは苦笑し、吹いてしまった。
「どうしたんだ? 急に……」
 もちろん理由はあるわと打ち明ける。
「最近ね……わかんなくなって来たのよ、シンジとのこと」
「シンジ君の?」
 うんと頷く、可愛らしく。
「だってね? あたし、今、シンジと一緒に暮らしてるの」
 おいおいとアレクは居住まいを正した。
「そういうのは、こんな風に報告することじゃないだろう?」
 くすりと笑って、否定する。
「住んでるって言っても、葛城さんって人の所に一緒に居候してるだけよ」
 アレクは聞いた名前だなと首をひねった。
「葛城……葛城?」
「知ってるの?」
「葛城ミサトか?」
「うん」
「お父さんの知り合いに、葛城って人が居てな、だったらその娘さんだな」
「そう……」
「まあ、俺が知ってるのは赤ん坊だったころの彼女だが、それで?」
 シンジってさと、アスカは愚痴を言い始めた。
「あたしのこと、女の子だって意識してくれないの……ちっともね?」
 そうかとにやけてアレクは言った。
「アスカはちゃんと魅力的だよ」
 アスカもまた吹き出した。
「ありがと……でもパパに褒められたってね?」
「いや? 大抵の人間はそう褒めるはずだよ、シンジ君だって意識してないはずがない」
 きっとだけどなとウィンクする。
「我慢してるだけなんじゃないのかな?」
「そうかなぁ?」
「理由に心当たりでもあるのか?」
 あるとアスカは打ち明けた。
「シンジ、付き合ってた人が居たんだけど……ちょっとあってね」
「その人は?」
「今は居ないの」
「じゃあ……待ってるのか」
 そういう感じかなぁと言いごまかす。
「でもあたしが問題視してるのはシンジのことじゃないのよ……別のことなの」
 じゃあなんだという問いかけに、アスカは自分のことだと白状した。
「あたし、シンジにキスされたいとか、シンジに抱かれたいとか、意識されたいとか……あんまり思ってなかったみたい」
 それが問題なのだと、彼女は言った。


「好きじゃない?」
 そうじゃないとかぶりを振る。
「好きよ? あたし、シンジ以外の誰かって考えられないもん」
「でも許せてしまうわけだ……他の子と出かけることも」
 うんと頷く。
「別に……そんなことは関係ないって、違うかな?」
 そうじゃなくてと言葉を探す。
「あたしって、シンジに何を求めてるのかなって、それがわからなくなっちゃって」
 だからこうして話しているのだと父にすがった。
「ねぇ? パパにはわかる? あたしって……シンジとなにがしたかったんだろ?」
 深刻なのだなとアレクは応じた。
「シンジ君に謝りたかった……そうじゃなかったのか?」
「でももうシンジは許してくれてるし……」
「じゃあ良かったじゃないか」
「でも……なにか違うのよ、なにか」
「なにかって?」
「そこで終われなくて、でも……」
「そういうことか」
「え?」
 逆に訊ねる。
「アスカの悩みはようくわかった」
「ほんと!?」
「ああ」
 しっかりと頷く。
「つまりだ……アスカはこう思ってたわけだ。シンジ君はきっと許してくれる、そして昔のシンジ君に戻ってくれるってな?」
「昔のシンジ?」
 目を閉じてみろとアレクは言った。
「お前にとってのシンジ君は……そうだな、いくつの頃のシンジ君だ?」
「…………」
「今の歳じゃないだろう?」
 ああとアスカはまぶたを開いた。
「そっか……子供の頃の」
「それが原因だな」
 茶に手を伸ばす。
「許すっていうことはなかなかできるもんじゃない……叱ったこと、覚えてるか?」
 アスカはきょとんとして首を傾げた。
 およそ叱られた覚えなどなかったからだ。
「あたしに?」
 ああと首肯する。
「シンジ君になんてこと言うんだ! ってな? いじめるんじゃないって叱ったけど、お前は聞きはしなかったよな?」
「……そんなこと、あったっけ?」
 あったんだよとアレクは続けた。
「正直な……その内、シンジ君の方からお前を避けるようになるだろうと思ってたんだ。事実その通りになったし、それで良かったとも思ったよ。だから今更シンジ君が許してくれるはずないだろうとも思ってた」
 酷いとアスカは言い返した。
「でもパパ、あたしに行けって……」
 そりゃあと大きく肩をすくめる。
「……謝らずに大人になるよりは、自分のしてきたことの結果は知っておいた方が良いと思ったからな」
 恨めしげに見やる。
「パパ……」
「でも、シンジ君は許してくれた」
「うん……」
「大人になったんだな……成らざるを得なかったか?」
「え……?」
 きょとんとするアスカに、憶測だけどなと解説する。
「……シンジ君はさ、大人になったのかもしれないが……大人って言うのは嫌なことがあっても、嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、それを表面に出さないで、照れ隠しで全部収めていく生き物なんだ。アスカの覚えてるシンジ君はきっと無邪気で、今のシンジ君は落ち着きすぎている……そんなところなんじゃないのかな?」
 そうかもしれないとアスカは認めた。
「あたし、納得できてなかったんだ……」
「そういうことだな」
 くいっとあおる。
「お前はただ、仲が良かった頃のシンジ君を求めてるだけだよ。だからいくら今のシンジ君を好きになろうとしても無駄なわけだ」
 間にギャップがありすぎて。
「あたし……どうすれば良いんだろ?」
 簡単なことさとアレクは諭した。
「別の人間になってしまったわけじゃないんだから、昔に戻ってもらうことはできるさ……ただそれが彼の望むことかどうかはわからないけどな」
 恐る恐る訊ねる。
「迷惑……よね?」
 さあなとアレク。
「……ただ俺は、キョウコを失って泣くに泣けなくなった……いや、その前からキョウコとはうまくいかなくなっていたから、あいつと浮気まがいなこともしていた」
 唐突にそんなことを言い始める。
「研究が忙しくて相手をしてくれないキョウコに拗ねていたんだな……それでも俺は物わかりの良い大人を演じようとして失敗したんだ」
 だからとアスカはこの機会に訊ねた。ずっと聞けなかったことをである。
「ママと浮気したの?」
 そういうことさとアレクは認めた。
「でもな? 誓ってホテルに行くような真似はしていなかったよ。でもな? ホテルに行かなくても、女性と酒を飲めばそれは浮気と言えてしまうのが大人の付き合いってものなんだ、特に妻帯者の場合はな?」
 それは冗談であったのかもしれない。
「キョウコの前では、なるべく大人の男で居ようとしたよ。キョウコの言うことやわがままにも余裕を持って接するような、そんな態度を貫こうとした……いつしかそれが本当の俺になってしまったわけだが」
 かぶりを振って笑い飛ばす。
「その分だけ、心の底から笑ったり、泣いたりといったことはできなくなってた」
「パパ……」
「本当に好きな相手には、心から笑ってもらいたいと思うだろう? でもキョウコは俺にそんな気遣いを向けてはくれなかったんだ……俺もキョウコには向けなかった。だからだろうな?」
 彼はどこか遠くを見た。
「俺がキョウコよりも……あいつを深く愛しているのは」
 アスカは切なさに胸がうずくのを感じてしまった……そして同時に、やはり他人行儀に挨拶をして良かったのだと思ってしまった。
 ──ここにはもう、居場所はないと、わかってしまったからであった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。