朝起きて一番にすることは歯磨きである。
 布団から抜け出すときにはちょっとだけ隣のベッドを確認する。ルームメイトが寝ているようであればそっと動いて抜け出すし、そうでなければ大胆にもなる。
 今日はまだ彼女は寝ていた。
 マユミはアスカを起こさぬように抜け出して洗面台に向かうと、まずは歯を磨き、続いて顔を洗い始めた。
 アスカに合わせてシャワーを浴びていた頃もあったのだが、結局は自分の習慣に従うことにしたのである。
 芯のある直毛を持っているマユミは、寝癖とはあまり縁がなかった。長いことも関係している。
「ふぅ」
 タオルで顔をぬぐい、そのままキッチンへ。今ではパジャマでうろつくことも平気となっていた。そこにシンジがいてもである。
「おはようございます」
「おはよう、早いね」
 シンジはパンを焼いていた。トースターで二枚。電子レンジをトースターモードにして二枚。さらにコンロとセットになっているオーブンで二枚と、大量である。
 食欲が増す時期には、朝だけで一斤消費されることになるのだろう。
 それだけでは足りないと思っているのか、スクランブルエッグ用に卵パックを開いて半分がたボールの中に割っていた。レタスがおいてあるのはサラダでも作るつもりなのだろう。マユミはそんなことをぼうっと思いながら、手伝いましょうかと申し出た、しかし……。
「いいよ。あと卵とベーコン焼いてレタスむしるだけだから」
「じゃあテーブル出しますね」
「あ、お願い」
 これだけの量ともなれば、キッチンテーブルに広げるのは少しつらい。何しろ各人で使う調味料が違うのである。
 サラダにかけるドレッシングが違う、卵とベーコンをどう食べるかも違う。……別々に食べるアスカやマユミに対して、シンジはパンに乗せて食べるし、ミサトはレタスを足して挟み込んで口にする。
 紅茶やコーヒーに、時にはビールの缶まで並ぶ食卓である。それぞれの生まれと育ちの違いが如実に表れてしまっていた。


「じゃ」
 あたしはこっちだからとアスカは本部司令部付きの秘書室へと去っていった。今日は上の街から渚カヲルが下りてくるので、補佐役を命じられているのである。
「アスカさんも大変ですね」
「なにが?」
「なにが……って」
 さして考えた上での言葉ではなかったのだろう。
 マユミは軽く言いよどんでしまった。
「お仕事……とか」
 シンジは「どうだろう?」と首をかしげた。
「だいたい秘書をやるって話になったのも、最初は父さんのせいだったんだから」
「お父さん……シンジ君の?」
「うん、怖いからって、みんなが嫌がっちゃってさ」
 そうだろうなぁと、マユミは失礼な想像をした。
 ひげ面の無愛想な上司である……なにを言っても叱られる気がした。
「それでレイがって話になったんだけど、レイはさ……」
「エヴァンゲリオンですか?」
「それもあったんだけど」
 うーんと難しい顔つきになる。
「あの……話せないことなら」
「そうじゃないんだよ」
 山岸さんは知ってたかなぁと首をひねった。
「この黒い月って呼ばれてるものが、大昔に地球に落ちたものだっていうのは知ってるよね?」
「最初に講義してもらいましたから」
「で、もう一つ、白い月っていうのも落ちて、二つの間で戦争になって、その生き残りが人類の祖先になった……」
「はい」
「レイがその生き残りだっていうのは?」
「知ってます」
 だったらとシンジは先を続けた。
「つまりさ、レイは人類の祖先……僕たちの本当の意味での神様だっていう言い方だってできるんだよね、だから信望者が多いんだ」
「はぁ……」
「そんな人間に下働きなんてさせると問題が出るだろう?」
「それでアスカさんなんですか?」
「ミサトさんがやろうかなんて言い出して、仕方なくね」
 あ〜〜〜……と、マユミはミサトの秘書姿を思い浮かべようとして……あきらめた。
 似合わないと言うことだけわかれば十分であったからだ。


「このところ……」
 アネッサはカヲルとともに施設内通路を歩いていた。
「シンジ様とご一緒できなくて」
「寂しいのかい?」
「はい」
「そうか……でもだめだよ。彼はアスカとレイのものだからね?」
 わかっていますわと頬をふくらませるアネッサである。
「でも、優しい殿方に対して心が揺らいでしまうのは、それは仕方のないことだとお母様も……」
「お母様か……」
 含みを持たせた物言いに、アネッサはカヲルの横顔を盗み見た。
 別段、血のつながらない母に対して、確執を抱いているというわけではないとわかっている。ただこの兄は、母を通して貴族を皮肉っているのだと確認しただけのことであった。
「このような考え、お嫌いですか?」
「嫌いじゃないよ、好きになるのはしかたのないことさ」
 なによりと告げる。
「恋愛なんて、してしまった者の勝ちだからね」
「勝負事ではないのですが……」
「勝負事だよ」
「そうでしょうか?」
「そうさ。だから前だけを見て必死になってしまうんだよ。負ければその心を、気持ちを殺さなくてはならなくなるんだから、辛いものさ」
 一度は兄に恋心を抱いたアネッサであるから、その言葉を理解することはたやすかった。
「はい……殺されるのならまだしも、自分で殺さなくてはならなくなりますものね」
「だから人は必死になる」
「必死に……」
「人の言うことになど聞く耳を持てなくなるほど、一生懸命になってしまうものだろう? 恋というものはね」
「そうですわね」
「だから僕はなにも言わない。恋をしている者には何を言ったって無駄なんだからね。かと言って、すべてが終わるのを待って口を出しても、それはそれで今更って話になるんだから……」
「では、お見捨てになるというのですか?」
 この哀れな子羊をと恨めしげに見上げた。
「さて……どうかな?」
 カヲルはそんなアネッサの頭を軽くなでた。
「本気であるなら人を頼っちゃいけないよ。それでは本当の気持ちは伝わらない……伝えるためにはどんなに無様でも体当たりを行うしかないんだよ」
「わたしに足りないのは、体当たりですか……」
「妹の立場は居心地がいいだろう? 兄に相手ができたとしても甘え続けることはできる。あるいは姉となる人にもね?」
「はい……」
「僕が決定的に去っていくことはないのだと知ったとき、アニーは僕を追うことをやめたね? でも、アスカはシンジ君に対して恐怖した。彼は彼女をなかったものにしようとし、彼女は彼に存在しなかったものとされてはたまらないと追いかけた。ここまではアニーと同じだよ。そこで安穏としてしまうかが……ちょっとした別れ道となるんだろうね」
「難しいですわ」
「簡単さ」
 手をのける。
「体当たりで押し倒してものにしてしまうのと、飛びついてはしゃいでじゃれつくのと、どちらが傷つかなくてすむことなのか……それだけさ」


「今日は……ここから」
 昨日の経験をふまえて、今日は作業用にトレーナーとデニムのパンツを用意してきたマユミであった。
 髪を首の後ろで束ねて、本をまずは棚から下ろす。
(うっ、見ちゃだめよ、見ちゃ……)
 なるべく『認識』してしまわぬように、なでるように表題をかすめ見る。そうしてある程度まとめ上げたところで、別の部屋へと運び込んだ。
 最初は来るたびにお願いしますと断っていたのだが、もうマユミは声をかけずに部屋の隅へと積み置いた。
 彼らも読みふけってしまわぬように、なるべく無心に近い状態を作り出そうとしていたからだ。昨日は不機嫌そうだなとおびえて見てしまっていたのだが、今日になってようやくわかったことであった。
 片づけ優先とばかりに無心になっていたところに、いちいち声をかけられたのでは、それは苛つきたくもなるだろう。
(本好きにはたまらないって……意味、違うんじゃない?)
 再び倉庫に戻りつつ首をひねる。
 本好きが泣いて喜ぶ職場なのではなく、本好きが苦痛を堪え忍ぶ場であったらしい。
 先ほどの部屋では整頓前にデジタル化が行われている。本をセットすれば機械が自動的にページをめくり、スキャンしていく仕様となっていた。もちろんデータベース化も平行して行われている。
(まあ携帯の方に好きに落とさせてもらえるからうれしいんだけど……)
 以前地図を落とし込んだ携帯端末に、スキャンの終わっている作品のデータをまとめてコピーさせてもらっているのである。
(お昼ご飯もお弁当もらえちゃうし……なんだかどんどんお金使わなくなってるな)
 それがよいことなのか悪いことなのか? マユミは判断が付かなかった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。