──朝。
 クリオストリス女学院に通う中でも、ミヤの家庭は庶民の派閥に属していた。
 だから通学は送迎車ではなくバスを使うし、苦しい思いをすることにもなる。
(なんでバスって混むんだろう?)
 一本早くすると三十分も前に登校することになってしまう。一本遅らせると遅刻になる……十代としては貴重な朝の時間帯、それは身だしなみを整えるために費やすべきか、それとも睡眠時間に振り分けるべきかと非常に微妙であるのだから、どちらにせよ、皆かち合わせるようにしてこのバスに乗っていた。
 彼女が乗り込む停留所からでは、席は埋まっていて座れないので、いつもつり革にぶら下がって耐えることとなっている。
 立っているのも億劫なほどに辛いのは、すし詰め状態である上に、それでもとみんなおしゃべりにいそしむからである。
「ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
 女学院……という響きにだまされていると彼女は考えていた。
 二十一世紀にもなってごきげんよう……この古めかしさはなんだろうか?
 いつものようにげんなりとして、軽い酔いに耐えていると、大丈夫かと声をかけられ驚いた。
「山岸先生……」
 彼女の背に手を当てたのは、ほんの少しだけ化粧をしているマユミであった。


「大丈夫?」
「はい……ありがとうございます」
 バスを降りても、二人は並んで歩いていた。もうすぐ校門と言うところなので、目に付く端からごきげんようが繰り返される。
 ミヤはマユミの表情をこっそりと盗み見ていて、口元が引きつっているのに気が付いた。
 はぁ……と切ないため息まで拾えてしまって、彼女はつい口に出してしまったのだった。
「先生って」
「え?」
「あ……ごめんなさい」
「…………」
 マユミの性格が性格であるので、そこで会話が途切れてしまった。
 上手な聞き手とは、些細な言葉も追求する強引さを持つものであるが、あいにくとマユミにはそんな強引さはかけらもなかった。
(この人も、こういう世界になじめてないんだな)
 それでも十分に理解できることだったので、ミヤは勝手に満足して、話題を明るいものへと変更した。
「先生、この間までバスじゃなかったですよね?」
 ええと答えは返された。
「生徒よりも早めにって思ってたんだけど……早く空気になじみたかったら、生徒と一緒に登校してみるのもどうかなって、そう勧められたの」
「はぁ……」
 あれ? でもと、彼女は不思議なことに気が付いた。
「碇さんは?」
「……もっとずっと早い時間に学校に入ってるはずだけど」
 なぜそこで暗くなる? 彼女はあわてた。
「どうしたんですか?」
「いえ……ね、ちょっと自信がなくなって」
 なくなるほど自信があったのかと軽く仰天してしまったミヤであった。もちろん表には出さなかったが。
「なんです?」
 疲れたようにマユミは笑った。
「碇く……、碇さんって、すごいなって思って」
「はぁ?」
「朝から用務員のお仕事をして、それが終わったらネルフに向かって、夜遅くまでまたお仕事をね……よく体が持つなぁって」
「先生はお疲れみたいですね」
「向いてなくて……」
 ミヤは、この話題も失敗だったかと、さらなる変更を試みた。
「前から聞いてみたかったんですけど……」
「なに?」
「先生って、碇さんの愛人だって噂、本当なんですか?」
 マユミがあわてなかったのは、うんざりするほど耳にしている話題であったからだろう。
「……違うんだけど」
「何か間がありませんした?」
「夕べ、ね、その話で盛り上がったばかりだから……」
「夕べですか?」
「アス……惣流さんにからかわれちゃって……。そういう話題に飢えてる歳の子が集まってるんだから、おもちゃにされるのは覚悟しろって」
「…………」
「男の人と同居してるっていうだけで、すごく想像をふくらませてるからって……」
「そうですねぇ……」
 まあ確かにそうだなとミヤは思った。
 特に『そういうこと』に興味があるので、想像というより妄想が先走るきらいがある。
「先生はどうだったんですか? そういうの」
「わたし?」
「はい」
「人がどう……って、気にならなかったから」
「誰かと誰かがつきあってるとか、噂しなかったんですか?」
「しなかったって言うんじゃなくて、できなかったかな」
「どうしです?」
 友達が居なかったのかなと失礼な想像をするミヤであったが、その考えは半分だけあたっていた。
「お父さんの都合で引っ越してばかりで、勉強は通信教育だったから」
 だからうわさ話を交わすほどの相手を作れなかったのだと、彼女は鬱になることをさらりと語った。


「み〜ま〜し〜た〜わ〜よ〜」
 下駄箱で上履きに履き替えているミヤの背後に、おどろおどろしく現れたのはヤヨイであった。
「ヤヨイ……ごきげんよう」
「ごきげんよう……ではなくて!」
 ヤヨイは受け流そうとするミヤの後を追って、あわてて靴を履き替えた。
「ずいぶんと親しげでしたわね」
「山岸先生?」
「他に誰かおられたんですの?」
 もちろん誰もいなかったので、追求をかわすことは困難だった。
「別に……あんたたちみたいにつっかからなきゃならない理由なんてないしね」
「人聞きの悪いことを」
「でもなにかたくらんでるでしょ?」
 もちろんですわと彼女は笑った。
「今は内緒ですけど」
「教師いじめとかやめてよぉ?」
「ま、そんな悪辣な……」
 ではなにをするつもりなのだろうかと考えて、彼女は追及の手をあきらめた。
 聞いてしまうと、逃げられなくなるからだ。
「意外と普通の人だよ? あの人」
「そうでしょうね……でも、それとこれとは無関係ですから」
「どれとどれ?」
「それも秘密です」
 可愛らしくあひる口に指を当ててみせるのだが、その仕草がよけいな不安をあおり立てる。
 目の輝きが、逆に邪悪に見えたからだ。
 ミヤは寒気を感じて、ことさらに前を見て歩こうとした。不自然に背筋を伸ばして……。
「あら」
 そして彼女は、もう一人の不吉な友人に出会ってしまった。
「……ごきげんよう」



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作品を元に創作したお話です。