地平の果てまで駆けていくと、星空はそのままに、大地の先に山が見えた。
 緑の原があり、懐かしい芝の香りと、それを運ぶ風が肌を撫でさすった。
 走る、走る、走る、駆ける。
 息が切れる。呼吸が乱れる。鼓動が暴れる。
 それでも彼女は駆け続けた。この先に彼が居るから、あいつがいるから。
 あの頃のままに、もう逢えない、だけどこれでいいんだと、自虐と自己満足に浸っているやつがうずくまっているはずだから。


 ──バシュ。
 零号機はそのボロボロの体を巨人の中より離脱させた。
『この先には、世界があるわ』
 彼女は言った。
『あなたたちの生まれた世界と同じ、痛みと悲しみに充ち満ちた世界よ……』
 ──僕は……僕たちは……。
 シンジ、と、か細い声が耳朶を打った。
(マナ?)


 彼女は宙を漂っていた。
 辺りにはゴミ以外のものはなにもない。
 膝を抱えて、一人、孤独に耐えようとしていた。
『ステーションも、艦隊も……みんな壊れちゃって』
 モニタも死んでいる。彼女は暗闇の中、天蓋に手を伸ばした。
『地球……すぐそこなのにな』
 この脱出ポッドには大気圏突入用のシステムなどないのだ。
『へへ……』
 ヘルメットは嫌いだと彼女はつぶやいた。
『涙……ぬぐえないだもん』


「マナ……」
 シンジは鼻の奥がつんとするのを感じた。
 泣きそうになっている自分を見つけた。
 ……鼓舞して送り出してくれた彼女が泣いている、寂しげに。
「シンジ」
 レイが声をかける。
 顔を上げる。
 シンジの心は決まっていた。
「行こう」
「いいのね?」
 うんと頷く。
「ゲンドウが見た夢……この先になにがあるのかなんて僕にはわからない、でも」
 機体を翻す。
「そこに天国や楽園があったとしても、捨てられないものがここにはあるから」
 スラスターを噴かせる。そこに立つ綾波レイの髪とスカートが大きく揺らぎ、はためいた。
「碇君……」
 彼女はそっとまぶたを閉じた。
「あなたの夢は……歩き始める」
 白い天使像は崩れ始める。


 ──救助など来るはずがない。
 艦隊は要塞艦とゲンドウの船によって粉砕されてしまっているし、残っていた兵力も地球からの特殊ミサイルが起こした爆発に巻き込まれて消えている。
 自分が生きているのはこの初号機が頑丈だったからだ……マナは正確に理解していた。
「酸素残量ゼロか……」
 はぁっと息を吐く。
「寒い……もう疲れちゃったな」
 ヘルメット内部の曇りが晴れていくのをじっと見つめる。
 マナはかじかむ指を動かして、脱出用のレバーを引いた。
 ──バン!
 上部ハッチが吹き飛び、シートごと虚空に投げ出される。
 ──ホォオオ、ハァアアア、ホォオオ、ハァアアア……。
 宇宙(そら)──そこは呼吸音だけの世界であった。くるりくるりと踊り、泳ぐ。
(月と……太陽と、地球があって)
 涙が、溢れた。
「虹だ……」
 七色の光の輪が弾けるように広がって……。
「シンジ」
 ジェネシス零号機が現れる。



 ──シンジ、シンジ、シンジ、シンジ、シンジ!
 懸命に駆ける。しかし足は重くなり、前に進まなくなって行く。
 まるで急流の中を泳いでいるかのように押し戻されそうになる。
 だからアスカは大きく叫んだ。
「あんたもセカンドチルドレンだって言うのなら!」
 手を伸ばす。
「何とかして見せなさいよ!」
 あちらでの記憶。宇宙に投げ出される母と、手を伸ばすだけの自分。
 届かせることもできずに、ただ泣きわめくことしかできなかった自分が騒ぐ。
 足を動かせと、手を前に伸ばせと、声を出せと。
 それができる自分だろうと。
「あたしは!」
 啼く。
「もうっ、勝手はさせない!」
 抜ける。
 胸がむせかえるような濃厚な空気。
 緑萌ゆる草原。
 その先にある崖と、青い海、白い雲、空。
 そして懐かしいあの潮風と……。
 ──少年の背中。
「シンジ……」
 少女は駆け出す。
(シンジ、シンジ、シンジ、シンジ)
「シンジ!」
 身を投げ出すように、彼に抱きつく。


「シンジ!」
 両腕を広げる彼の元に彼女は飛び込む。


 零号機のコクピットの中、マナはシンジにしがみつき、泣きじゃくり、訴えた。
「うぁあ、うあっ、恐かったっ、あたし、こわかったよぉおお!」
「マナ……」
 気を利かせたレイがハッチを閉じる。
 補修用の粘着風船は、漏れ出そうとする空気の流れに乗って傷口にぶつかり、弾け、穴を塞ぐ。
 シンジはヘルメットを取ると、優しく気遣いながら、マナの頭からもそれを外した。
 んっと、マナが無粋な行為に気をそがれたような不満を漏らす。しかしヘルメットを取り上げられた途端、そんな不満は吹き飛ばされた。
 ──キス。
 暴れた髪が収まるよりも早く、頬を押さえられ、唇を合わされていた。
 驚きはしたものの、マナはやがてまぶたを閉じた。
 唇からの感触だけを、しっかりと掴む。
「は、ぁ……」
 離れ、二人は潤んだ瞳をして見つめ合った。
「ずっとこうしたかったんだ」
「馬鹿……」
 今度はマナから抱きついていった。


 ──時に宇宙歴・120。
 こうして人類史上最大の戦争は幕を開いた。
 各地に起こった混乱は、惑星間の緊張を極限にまで高め、開戦へと繋げてしまった。


 それでも彼らは生き延びる。
 彼らを伝えるもののない世界と、場所で。





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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。

この作品は上記の作品を元に創作したお話です。