Rei's - faction:045
「あほぅ、このわたしが、あほぉ?」
 がっくりと膝を突いたキョウコに、ゲンドウは慌てふためき、立ちすくんだ。
 精神汚染と精神崩壊を同時に迎えた女性に対して、何も成す術が無かったのだ。
 ただ他人から見れば、それは落ち着いていたように見えただろう。
 何しろ挙動が、「ふむ……」と顎先をひとつ撫でただけだったのだから。
「キョウコ君……」
 ゲンドウは取り合えず、彼女の腕を掴んで立ち上がらせた。


「あの時はショックだったわぁ……」
 ユイはそれはそれは感慨深げに言葉を紡いだ。
「親友のくせにって思ったし、あの人にもねぇ、やっぱり男の人ってって幻滅して……」
「それで……、どうしたんですか?」
 ユイはニコッと微笑んだ。


 キョウコは青ざめた顔でうずくまっていた。
 近くの階段の踊り場だ、人気が無いのでキョウコの別空間へ落ち込んでいきそうな雰囲気も、さほどの影響力を見せなかった。
「あほうはないじゃない、あほうは……、バカでも何でもいいじゃない、どうして?、わたしあほうなの?、あほはわたし、そうあほなキョウコなのね」
 ゲンドウはまったく無表情に立ち尽くしていたが、その胸の内は居心地悪くてそわそわしていた。
(あほの坂●というのがあったな)
 などと考えているのは、口が裂けてもいえない事である。
「ねぇ、そう思わない?」
 ゲンドウは不意の問いかけに「ああ」と答えかけて言葉を呑み込み、むせ返った。
「人の表現は人の数だけあると言う事だ」
 適当に護魔化す、キョウコはその微妙な部分を理解できなくてキョトンとしたが、とりあえず好意的な理解をすることにしたらしかった。
「……ありがとう、慰めてくれてるのね」
 彼女はニコッと微笑んだ、が、ゲンドウは余計に居たたまれなくなって小さくなった。
 ゲンドウにはユイが何故怒ったのか、キョウコが何を落ち込んでいるのか、何も分からなかったのだ。
 だからどちらかにも味方できなかった、それだけだった。
 いや、するわけにはいかなかったのだ。
 経験上、味方をすれば必ず後から報いが訪れる事を知っていた。
 酷い恨みを持たれてしまうことも多くあった。
「見かけによらず、優しいのね」
 ゲンドウは無言で視線を外した。
 もちろん、真上からだと彼女の胸元が丸見えだったからであった。


 シンジはなにをどう言っていいのか、いや、何をどう読み取ればいいのか、何が言いたいのか、まったく飲み込めなくて困惑した。
「それで……、どうしたの」
 だからかろうじて口に出来たのはそれだけだった。


「ここに居たんだ」
 教室の一つである。
 窓際で風に吹かれて黄昏ていたユイに、キョウコは微笑みながら歩み寄った。
「あんたねぇ、何考えてんのよ」
「…………」
「せっかく連れて来てあげたのに、あほうってなによ」
「…………」
「あ、そう」
 キョウコは溜め息を吐いた。
「いらないのね?」
 ビクッと震えた。
「結構優しい人なのよねぇ」
 ぴくぴくと反応があった。
「可哀想に、振られちゃったか、ま、ユイが嫌いだって言うなら仕方ないわねぇ」
 今度の反射は大きかった。
「キョウコ?」
「慰めてあげよっと」
 スキップしようとしたキョウコの首根っこに手がかかった。
「なにかしら?」
 ニコニコと振り返るキョウコである。
「あ……」
 驚いたのはユイも同様だった。
「わたし……」
「ん〜?」
 赤くなって俯いた顔を、にたにたしながら下から覗く。
「やだもう、キョウコってば!」
 その顔にすかさずエルボーを叩き込もうとするユイ。
「照れない照れない」
 それを躱して回し蹴りを放つキョウコ。
「キョウコの意地悪!」
 パンッとその足を弾き、ユイは不安定になった顔面に正拳を打ち込んだ。
「ユイってばほんと、奥手なんだから!」
 だがキョウコは軸足のみでサマーソルトを決めて見せた。
 ユイの前髪がピッと音を立てる。
 ユイはいやんいやんと両頬を押さえて恥じらいながら、横蹴り、後ろ蹴りと連続で舞った、実に安定した動きであった。
 それを見ていたゲンドウは青くなっていた。
(何者なのだ)
 嫌な汗が背中をつたった。
 喉も渇いた。
 腰も逃げかけている。
 どうも無意識の内に技を使っているらしい二人、そのキレは到底自分の及ぶ所ではない。
 なおかつ、どうも会話の流れからすると、自分は彼女と相思相愛の手前の段階に居るらしい。
 正直、冗談ではないと言う気持ちがあった。
 人一倍嫌われる事には慣れている身である、その分、人から好かれる事には経験が無い。
 またそれ以上に、好意を持つ自分など想像の埒外だった。
 きっと彼女は何かを誤解しているのだ、そうだ、だからすぐに軽蔑される、だから関り合いにならない方がいい。
(逃げろ、逃げるのだ)
 心の中で警告音が木霊している。
 ゲンドウは自分に向かって必死に命じていた。
 なのにその足は彼の意志を無視していた。
 内心を示すかのように震えていた。
 教室の中に居るのは二匹の獰猛な獣であった、それも『じゃれ合い』のレベルで自分を刺殺できるような手足れである。
 逃げた瞬間、二人の目が殺気に満ちて光るような気がした。
 そのまま左右からの蹴りに頭がスイカの様に挟み割られて弾けるのが垣間見えた。
「碇さぁん」
 キョウコの実にはしゃいだ声が聞こえた。
 ゲンドウはふらふらと、もうなるようになれと諦めて、その檻の中へと入っていった。



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